中村ひろ子 句集『ドロップ缶』
〜人柄と一体化した俳句〜
永田満徳
『ドロップ缶』は平成9年から平成30年までの作品を収録した中村ひろ子さんの第1句集である。
中村ひろ子さんは熊本大学文学部の頃から見知っていて、首藤基澄先生を主宰とする熊本大学俳句会に参加していた学生の中では最も熱心であった。ご主人の転勤に伴って仙台、川崎、佐賀と移り住んだにも関わらず、首藤先生との縁によって「火神」との繋がりを保ち続けた。その結果、「一度手放した俳句」(あとがき)が句集という形で一冊に纏められたことは誠に喜ばしい限りである。
ひろ子俳句については、すでに「火神」58号の特集で「生の実相にアプローチする俳句」と題して述べている。そこで触れた内容は『ドロップ缶』でも変わらない。
その特集では、ひろ子俳句の特色を「テーマのバリエーションの広さである。子供俳句から内面重視の俳句、時事俳句、父母を含む故郷俳句まで、幅広い素材を句にしている」として、ひろ子俳句は「『火神』の標榜する『自然・生の実相にアプローチする俳句』の実践者としての道を確実に歩んでいる」と結んでいる。
小さき手でドロップ缶振る火の用心
掲句は句集の題にふさわしく、ひろ子俳句の良さを発揮した句である。
盆祭若さは分をわきまえず
「火の用心」を真似て「ドロップ缶振る」幼子にしろ、若さのままに「盆祭」に興じる若者にしろ、それぞれの仕草、姿態を切り取って、写生の目の確かさを示している。
金魚愛づ逃げ道あらば遮りて
日脚の伸ぶ諸手挙げをる招き猫
両句とも俳諧味のある句である。「金魚愛づ」と言いながら、「逃げ道」を塞ぐことへの揶揄は「諸手挙げ」て客を招き入れようとする商魂たくましさへの皮肉の視点と似通うものがあり、人間観察の鋭さが垣間見える。
春待つや簡単な顔持つ土偶
確かに、土偶は目、鼻、口だけでようやく人であることが分かる。当たり前の事実を句にしただけと見過ごしてしまいそうであるが、しかし「簡単な顔」と表現されると、かえって、土偶は無駄を削ぎ落した抽象的な現代彫刻に見えてくるから不思議である。対象を的確に把握する詠みぶりである。
ところで、これまでの俳句でも充分にひろ子俳句の良さに触れることができたが、それ以上に、ひろ子俳句の真骨頂は次のような句に現れている。
ばつた飛ぶ明日の東西失はず
に見られる向日性は言うに及ばず、
春泥を蹴散らし西へ西へ行く
ますらをとなりたし猪の肉を食ふ
などの、「春泥を蹴散らし」てゆく姿は「ますらをとなりたし」という措辞に繋がり、男性的で、雄々しささえ感じられる。
風死すや幽霊画見に上野まで
春画見て吊し柿見て神田川
ともに絵画が素材であるが、「幽霊画」をわざわざ見に行く度胸の良さはこちらがいささか顔を赤らめる「春画見て」という措辞をいとも簡単に言ってのける大胆さと重なる。「吊し柿」と並置したことで、なんともおおらかな句になっているではないか。
このように述べてみて、浮かび上がってくる俳句の雄々しさ、おおらかさはひろ子さんそのものである。ひろ子俳句の良さはひろ子さんの人格、つまり人柄と一体化した句にあると言っていい。
今後は「自然・生の実相にアプローチする俳句」を踏まえることはむろんだが、テーマを絞り込み、ひろ子俳句の良さを引き出し押し出していくことによって、更なる飛躍が期待できるだろう。
「火神」66号より転載
〜人柄と一体化した俳句〜
永田満徳
『ドロップ缶』は平成9年から平成30年までの作品を収録した中村ひろ子さんの第1句集である。
中村ひろ子さんは熊本大学文学部の頃から見知っていて、首藤基澄先生を主宰とする熊本大学俳句会に参加していた学生の中では最も熱心であった。ご主人の転勤に伴って仙台、川崎、佐賀と移り住んだにも関わらず、首藤先生との縁によって「火神」との繋がりを保ち続けた。その結果、「一度手放した俳句」(あとがき)が句集という形で一冊に纏められたことは誠に喜ばしい限りである。
ひろ子俳句については、すでに「火神」58号の特集で「生の実相にアプローチする俳句」と題して述べている。そこで触れた内容は『ドロップ缶』でも変わらない。
その特集では、ひろ子俳句の特色を「テーマのバリエーションの広さである。子供俳句から内面重視の俳句、時事俳句、父母を含む故郷俳句まで、幅広い素材を句にしている」として、ひろ子俳句は「『火神』の標榜する『自然・生の実相にアプローチする俳句』の実践者としての道を確実に歩んでいる」と結んでいる。
小さき手でドロップ缶振る火の用心
掲句は句集の題にふさわしく、ひろ子俳句の良さを発揮した句である。
盆祭若さは分をわきまえず
「火の用心」を真似て「ドロップ缶振る」幼子にしろ、若さのままに「盆祭」に興じる若者にしろ、それぞれの仕草、姿態を切り取って、写生の目の確かさを示している。
金魚愛づ逃げ道あらば遮りて
日脚の伸ぶ諸手挙げをる招き猫
両句とも俳諧味のある句である。「金魚愛づ」と言いながら、「逃げ道」を塞ぐことへの揶揄は「諸手挙げ」て客を招き入れようとする商魂たくましさへの皮肉の視点と似通うものがあり、人間観察の鋭さが垣間見える。
春待つや簡単な顔持つ土偶
確かに、土偶は目、鼻、口だけでようやく人であることが分かる。当たり前の事実を句にしただけと見過ごしてしまいそうであるが、しかし「簡単な顔」と表現されると、かえって、土偶は無駄を削ぎ落した抽象的な現代彫刻に見えてくるから不思議である。対象を的確に把握する詠みぶりである。
ところで、これまでの俳句でも充分にひろ子俳句の良さに触れることができたが、それ以上に、ひろ子俳句の真骨頂は次のような句に現れている。
ばつた飛ぶ明日の東西失はず
に見られる向日性は言うに及ばず、
春泥を蹴散らし西へ西へ行く
ますらをとなりたし猪の肉を食ふ
などの、「春泥を蹴散らし」てゆく姿は「ますらをとなりたし」という措辞に繋がり、男性的で、雄々しささえ感じられる。
風死すや幽霊画見に上野まで
春画見て吊し柿見て神田川
ともに絵画が素材であるが、「幽霊画」をわざわざ見に行く度胸の良さはこちらがいささか顔を赤らめる「春画見て」という措辞をいとも簡単に言ってのける大胆さと重なる。「吊し柿」と並置したことで、なんともおおらかな句になっているではないか。
このように述べてみて、浮かび上がってくる俳句の雄々しさ、おおらかさはひろ子さんそのものである。ひろ子俳句の良さはひろ子さんの人格、つまり人柄と一体化した句にあると言っていい。
今後は「自然・生の実相にアプローチする俳句」を踏まえることはむろんだが、テーマを絞り込み、ひろ子俳句の良さを引き出し押し出していくことによって、更なる飛躍が期待できるだろう。
「火神」66号より転載