桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞
〜 新緑や湯に流したる地震の垢 〜
(肥後の城、熊本地震14句より)
先日来2016年(平成28年4月日14,16日)に発生しました揚句の作者永田満徳氏居住の熊本地震の件を紹介させて頂き、その時の句を鑑賞させて頂いて居ります。
地震発生の恐ろしさは発生の時は勿論、その後も永い期間にわたり続く余震や、失意の中で行う家屋の内外での片付けが、被災者の心を打ちのめすのである。
震災後の片付けは、希望のある状態で行うのではなく、その後の暮らし向きなど人生に於いて色々な非日常の心労という負担になるのです。
揚句を鑑賞すれば「新緑」とあり、震災の被災より一ヶ月以上も経った若葉の生える今頃の季節であろうか?日毎に日差しも暑くなり、疲労も極限となる頃であろう。
日毎に震災の片付けも進み、一日の疲れを癒す夕刻の風呂が嬉しいのである。
爽やかな新緑の光景が、疲れを更に癒やすようでもある。
〜 余震なほ耳元で鳴く遠蛙 〜
(肥後の城、熊本地震14句より)
揚句の作者熊本市在住の永田満徳氏の平成26年4月14、16日両日に体験された熊本地震の事は、先日来当欄に於い彼の俳句と共に紹介させ頂いて居る。
大きな前震の後、更に大きな本震が熊本県大分県を中心に発生し、その後3ヶ月も大小の余震が何度も続き、被害と恐怖を増大させたと云われて居る。
更にその後も余震があり、5年以上経過した今でも大きな有感地震が発生していると伝えられて居ります。
子供の頃より怖いものに「地震・雷・火事・親父」と永い間伝えられ、その中でも「身の置き処の無き」恐怖感は、地震が筆頭のようである。
しかし、この様な状況の中でも生命のあるものは息吹き、植物は芽吹き、命を繋ぎ、そして未来へと逞しく生きようとして居るのである。
作者の余震におびえながらも、「耳元で聞こえる蛙の鳴き声」に、ふと生命ある事への感謝と勇気を感じた一句のようである。そう!!。自然界に生きるものは全てお互いに関係し合い、決して孤独ではないのである。
〜 三方の山をしたがへ紫雲英咲く 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
※
「三方の山を従え」とは、小高い山より土砂が流れ出して作り出した、扇状地の狭い地形の平野の光景であろうか?又、大きな河川が海や湖に注ぎ込む時に出来る広い平野部を三角洲と云う処より、揚句の景色は狭い谷あいより土砂が流れ出して出来た狭い田圃の光景が想われれるのである。
関東平野や濃尾平野、砺波平野、筑紫平野のように広い所は名高いものの、その他の日本の平野部は殆どがこのような狭い田圃であり、古の先人達はそのような土地をも耕して来たのである。
紫雲英(げんげ)は仲春以降に田圃に紫色の花を咲かせ、その広大な遠景は特別見事なものである。
嘗ての農家はこの紫雲英を田に蒔き、根粒菌の働きにより空中の窒素分を取り込む為、鋤きこんで田圃の肥料に利用していた。又、蜂がこの花の蜜を吸って作る「蓮華蜂蜜」はとても重宝され、養蜂業者にとっても貴重な今の時季の花であった。嘗ては、車窓より眺め通学して来たものであり、とても懐かい日本の原風景である。
〜 「負けんばい」の貼紙ふえて夏近し 〜
(肥後の城、熊本地震14句より)
過日4月14日、当欄に於いて揚句の作者熊本市在住の永田満徳氏の熊本地震罹災の事を彼の俳句「春の地震」によって紹介させて頂いた。
小生が震災の被災地を初めて訪れた体験は、1995年(平成7年)1月17日に発生した、阪神淡路大震災の時であった。当時神戸市兵庫区に叔母の一家が住んで居り、罹災した為震災お見舞いに訪れた時である。交通手段がなく、漸く訪れたのは地震発生より20日も経ち少し落ち着いた2月7日頃、神戸の青木(おうぎ)港よりフェリーを利用の上、神戸ポートアイランドの埠頭よりであった。
阪神淡路大震災の詳細については、マグニチュード7、3、死者6,400名以上の東日本大震災に次ぐ、我が国戦後二番目となる規模であったと伝えられている。その詳細はここでは割愛させて頂くものの、その時、神戸ポートアイランドに上陸した途端、ボランティアの方より「震災支援物資の菓子パンの賞味期限が近くなって居る為、宜しければお召し上がりください」と、配って居た事に面食らった思いがした事であった。
当時は震災支援のボランティアの受け入れや支援の方法も手探り状態であり、道路も車も使えない状態ではバイク便が一番便利であったと伝えられている。この阪神淡路大震災の経験を経て、ボランティア活動の仕組みが確立されその後吾が国に根づいたと云われている。
そして、瓦礫の中を歩き初めて伺う叔母一家の家を漸く探し当てたのの、倒壊危険家屋と認定され家族は近くの学校の体育館での避難生活であった。
校門近くの公衆電話ボックスや近くの掲示板には、揚句のようにお互いの安否確認の為メモの貼紙が沢山、山ほど貼られていたのである。
地震の罹災者にとって地震発生の恐怖はもとより、その後の非日常の不自由な生活が続けば、心身ともに堪えて来るのである。被災より日数が立てば立つほど、被災者は各人が揚句のように『負けんばい』と己を鼓舞しながら、立ち直り生きて行かなければならないのである。
〜 春の夜やあるかなきかの地震に酔ふ 〜
(肥後の城、地震14句より)
過日、当欄にて述べました揚句の作者永田満徳氏の在住の熊本地震は、2016年(平成28年4月14日と、4月16日未明に発生しましたが、当初4月14日は前震と見られ、4月16日の熊本、大分を震源とする発生が本震であったと発表されました。
しかしその後の研究調査に於いて、4月14日発生の地震と4月16日発生の地震とは、それぞれ別ものとであると発表し直されました。その原因として、近くにあった活断層どうしがお互いに連動することで起きる、連動型地震であるとしたもののようであった。
しかし、この研究学説もその後別物ではなく、同時期である為同じであるとも云われている。
何れにしても、その後震度6を含めた大きな余震とみられる地震が、熊本、阿蘇地方に2019年1月頃迄続き、その地域に住まいの住民にとってはその後の余震の「あるかなきか」の微震であっても、身体が敏感に反応した事であろう?春の夜ともなれば、身体に沁みついた恐怖の体験がトラウマとなって揺れが「酔ふ」ように襲うようである。
何しろ、自身が立って居る地球そのものが揺れる事程、たより無いものはないのである。
〜 霾天に遍満したるヘリの音 〜
(肥後の城、熊本地震14句より)
現代の世は、行事、事件、事故、災害など一瞬のように早く報道体制が敷かれ、新聞、テレビ、ラジオなどにより一斉に全国に配信され、国民は直ぐその内容を知る処となります。
平成28年4月14日、熊本県と大分県に発生した大地震の報道も、NHK及びメディア各社のヘリコプターによって、空より映像が各家庭に配信され、国民もその状態を知る事が出来たのである。又、4月と云えば、遥か彼方のモンゴルよりの黄砂も上空を覆う時でもあり、黄砂によりうす曇りの空に、沢山の取材のヘリコプターが不気味な音を立てて飛び交えば、震災の恐怖が更に追い打ちを掛ける事は想像に難くないことなのである。
被災地域の住民にとって、その騒音とも想える音はいつまでもよみがえる事であろう。
揚句の「遍満したる」との措辞が効き、その時の悲惨な状況を良く物語っているのだ。
〜 こんなにもおにぎり丸し春の地震 〜
(肥後の城、熊本地震十四句より)
※
熊本地震は2016年(平成28年)4月14日午後21時26分に前震、4月16日午前1時25分に本震と、何れも震度7の熊本県中央部を震源として発生しました。
その後も大きな余震が続き、死者、負傷者、家屋やビル、学校施設の倒壊など大変な被害を齎しました。
本震は後に発生した方と発表されましたが、前震本震とも規模が余りにも大きく本震はマグニチュード7・3と東北大震災を上回る程あったと伝えられて居ります。
その他の被害では、熊本県が阿蘇と共に誇る熊本城の石垣や櫓が大きく崩れ、大変な被害を出しました。
嘗て戦国の世に、築城の名手と謳われた加藤清正公の技を持ってしても堪えられない程の大地震であり、有名な「武者返し」と云われる石垣も崩壊してしまった事でも覗えるのである。
揚句の「こんなにもおにぎり丸し」との措辞に、現在売られているおにぎりは三角のものが殆どで、震災直後の炊き出しによる「丸い」おにぎりが想われのである。
作者の永田満徳氏も熊本市在住であり、大変な被害に遭われた事が窺がえ、熊本県民の誇りでもあり、心の支えともなって居る熊本城の完全復旧を願い活動を行っている一人であると伺っている。
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