【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

「軟鉄」の句集『肥後の城』  ~『肥後の城』を読んで~

2022年05月14日 20時47分51秒 | 第二句集『肥後の城』

「軟鉄」の句集『肥後の城』

 ~『肥後の城』を読んで~

                          牛村 蘇山

 待ちに待った永田満徳さんの第二句集が出た。第一句集『寒祭』の上梓(平成二十四年)から十年。このたび『寒祭』を読み返し、『肥後の城』の世界に浸った。十年の歳月は満徳句をさらに磨き上げ、豊饒な世界を築かせていった。十七音の響きとリズム。『寒祭』を硬度の高い鋼(はがね)に例えるなら『肥後の城』は同じ鋼でも柔軟性に富んだしなやかな「軟鉄」といえようか。

 第二句集の出版計画が輪郭を整え始めたころ、思いも寄らぬ事態が起きた。肥後の大地を襲った平成二十八年四月の大地震だった。そして令和二年七月に球磨地域で発生した大水害。人吉市は満徳さんの生れ故郷だった。

 句集の顔を眺めよう。淡いブルーの「寒祭」の表紙。これに対し『肥後の城』は黒。熊本城はすっくと立っているが闇夜に孤立しているように見える。表紙からは大地震と水災害への哀悼と鎮魂の鐘が低く長く鳴り響いている。

        ☆

 大地震の年、私が東京から熊本を訪ねたのは地震からちょうど半年後の十月中旬であった。熊本空港に迎えに来た友人と空港からそのまま益城町へ直行した。地震から半年たっても町の姿は痛々しく目を覆うばかりの有様。かつてゴルフ帰りなどに立ち寄った静かな町並みは跡形もなく消え去っていた。

  骨といふ骨の響くや朱夏の地震

この上五・中七の措辞が地震の凄まじさをなによりも的確に詠み切っている。俳句の記録性という観点からも脳裏から離れない一句である。平成七年一月の阪神・淡路大震災の時は発生から一週間後に神戸、平成二十三年三月の東日本大震災の時は一か月後に福島のそれぞれの地を訪れた。その時の変わり果てた地域の光景と益城町の姿が重なった。

 阪神・淡路大震災を先人はこう詠んだ。印象深い句である。

  寒暁や生きてゐし声身を出づる 桂 信子

  国一つたたきつぶして寒のなゐ 安東次男

 また、東日本大震災ではかく詠まれた。

  四肢へ地震ただ轟轟と轟轟と 高野ムツオ

  地震の闇百足となりて歩むべし  〃

 満徳句はこれら先人たちの句に対峙するとき作句精神において、語彙の選抜において一歩も遅れをとらない出来栄えを見せる。 

       ☆

 益城町の中心にできた「復興市場」に足を運んだ。市場の売り場に立つ女性たちと言葉を交わす機会があった。驚くほどよく通る声で話され、表情はきりりとしまり、笑顔も溢れとても頼もしく映った。

  「負けんばい」の貼紙ふえて夏近し

 市場の女性たちの立ち振る舞いはみな「負けんばい」だった。市場の建物全体から「負けんばい」が漲っていた。

 益城町から熊本市内へ。すぐに熊本城に向かった。想像を絶する壊れようだった。胸を締め付けられる惨状だった。熊本在勤時(平成八年~十一年)は毎日見上げた天守閣。美しい曲線を描く石垣や塀。哀しい崩れ方だった。

  曲りても曲がりても花肥後の城

  石垣のむかう石垣花の城

 花に囲まれ美しく気品溢れる熊本城をこう詠まれたが、わずか数日の大地震が城郭を激変させた。

  石垣の崩れなだるる暑さかな

 変わり果てたわが姿に驚き、炎暑に耐える気構えさえ失った石垣の心を詠んでいる。

  あれこれと震度を語る芒種かな

  体感で当つる震度や夜半の月

凄まじく揺れ動いた大地。震度に過敏になってしまった肥後の人々の姿がここにある。

        ☆

 記録性にも富んだ満徳句。故郷人吉の球磨川氾濫の惨状をこうとらえている。

  一夜にて全市水没梅雨激し

 むごかぞと兄の一言梅雨出水

  梅雨出水避難の床にぬひぐるみ

  出水川高さ誇りし橋流る

 熊本在勤時代。鮎釣りによく出かけた清流球磨川。水量に恵まれ、水は澄んで冷たい。延々と続く両岸の緑。その背後の山々から吹き抜けて来る緑の風。この宝石のような球磨川が豪雨で一転して猛り狂い、護岸を切り崩して氾濫。全市を水没させた。「むごかぞ」の兄上の言葉。この氾濫を「むごかぞ」の一言が人吉市の悲傷を象徴している。流された橋は天狗橋だろうか。それとも西瀬橋だろうか。

 当稿執筆している令和四年五月の人吉市。水害からの復旧作業をあらかた終えたのだろうか。気がかりである。

 鴨長明「方丈記」を読み返した。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」この有名な序章が終わると、天変地異に見舞われた京の都の惨状描写にうつる。大風で倒壊した多くの塔頭や民家。餓死・疫病。鴨川の河原や路地に打ち捨てられた夥しい遺体。長明の筆は見聞し、情報を集めては記録してゆく。歌人であり随筆家でありドキュメンタリー作家だったのである。

 満徳さんの『肥後の城』は熊本地震と人吉水害をコアに据えた句集である。当初の出版計画には予想だにしなかったテーマの出現だったといえよう。熊本の地でこのように真っ向から熊本地震と人吉水害を詠んで編んだ個人句集はまだ無いと仄聞している。『方丈記』とつながる水脈を強く感じる。

 今後「肥後の城」を追いかけるように熊本地震・人吉水害を詠みこんだ句集が登場するにちがいない。そうだとしたら熊本文学史にとって『肥後の城』はその嚆矢となる貴重な句集の登壇といえよう。

       ☆

 私は第一句集『寒祭』の栞文を書かせていただいた。その中で満徳さんに「熊本の自然を、阿蘇をとことん詠んで」と頼んだ。

 約束とおり阿蘇の秀句がふんだんに顔を見せる。句集の表紙にある一句。

  阿蘇越ゆる春満月を迎へけり

 春の宵。阿蘇五岳が悠然と座して、広い裾野の人家は水を打ったように雍容として満月の出を待っている。愈々月の出。阿蘇の春夜は肌寒いが美しい満月の感動がかき消してくれる。漱石の小説か漢詩に出くわしたような別乾坤の空間である。満徳句の範疇を超えて阿蘇句の秀吟といえよう。感動の一句である。

 私も熊本生活を終えて東京に帰還してからも熊本を訪ね続けている。阿蘇はずいぶん訪ねた。そのたびに勇壮で人懐っこい阿蘇の表情が好きになっていった。裾野の大カルデラ内には五岳を囲んで阿蘇市、高森町、南阿蘇村がある。鉄道が走り、温泉が湧き、観光スポットが随所にある。湧き水がおいしく、酒も旨い。

  大阿蘇の地霊鎮める泉かな

  大阿蘇は神のふところ青田波

 阿蘇の夏である。地霊・神のふところ。夏雲を従えて神々しく裾野を広げる姿がある。

  コスモスや阿蘇からの風吹くばかり

  阿蘇五岳まず野分雲懸かりけり

 秋の阿蘇はコスモスの集団がここかしこに揺れ動く。夏の喧騒のひと時が去り、少し寂しげな阿蘇の顔。阿蘇の野分雲は残念ながらまだ拝見したことがないがさぞや独特の天地の趣を見せるにちがいない。

  食前酒かつ月見酒阿蘇の宿

 阿蘇の月見。このあたりの世界となると東京から孫悟空の觔斗雲(きんとうん)に乗って月見の宴に駆け付けたくなる。

やがて冬。

  冬麗のどこから見ても阿蘇五岳

  阿蘇見ゆる丘まで歩く師走かな

  寒日和窓てふ窓に阿蘇五岳

  ひとしきり煙りて阿蘇の山眠る 

 満徳さんの師・首藤基澄先生が愛された阿蘇。その阿蘇句で編まれた句集『阿蘇百韻』。先生の句集『己身』『火芯』『魄飛雨(はこびあめ)』からの抄出句集である。

  きれぎれに思惟の飛ぶごと野火の煤(『己身』)

  阿蘇谷の田毎の煙半夏生     ( 〃 )

  転身の夢遂げて白独活の花    (『火芯』)

  山雨に根子岳奪られ山女焼く   ( 〃 )

  肥の国の山の滴り辿り行く    (『魄飛雨』)

  漱石の笑ふ阿蘇の温泉百日紅    ( 〃  )

 魂の翼を阿蘇の天地自在に滑空させた先生の百韻。満徳阿蘇句は首藤先生の百韻エキスを存分に滋養として詠んだ。

   ☆

 さて。

熊本地震・人吉水害・阿蘇へと筆を進めてきたが、満徳さんのユーモア句を見逃すわけにはいかない。

  いがぐりの落ちてやんちやに散らばりぬ

  助手席の西瓜ごろんごろんかな

  かたつむりなにがなんでもゆくつもり

  さみだれの音だりだりとわが書斎

  荒梅雨や呵呵大笑の喉仏

  あぶれ蚊の寄る弁慶の泣きどころ

 『肥後の城』には随所にユーモア句がちりばめられている。この句集の懐の奥深さを感じる。

立秋やどの神となく手を合はす

 八百万の神々。細かなことは脇に置いといてまず神様に手を合わす。なんという日本人論句だろうか。ユーモア句であり、深いため息をもたらす一句である。

  日本てふ平たきものよ餅を食ぶ

『寒祭』にある一句である。この列島に肩を寄せ合って暮らす島国人を詠んだ秀句であろう。

 まだまだ触れたい感動句はたくさんあるがこのあたりで擱筆としたい。

 満徳さんの分厚くなってゆく俳人としての力量。さらなるご健吟と後進指導を願ってやまない。  

 


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