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琉球人形のまなざし(続編)

2023年05月05日 | 東洋大学校友会(非公式)

「琉球人形のまなざし」の続編です。

沖縄からの学童疎開で、私の父が引率した児童たちは戦後各地で成人となり、熊本の旅館で再会しました。

石川春子さんから、父に宛てた写真と手紙が残っていました。




学童疎開の児童の中で、石川春子 (旧姓城間さんは最年長でした。

彼女は「当時、私たちはいつでも海に飛び込む覚悟をしていました。今日は無事でも、次の晩は私たちの船が沈められるのではないか、と心配していた日々を一生忘れられない」と述べています。

疎開先の阿蘇では、授業が終わったらすぐ農家へ子守りやお手伝いをしたそうです。

そのあと、いつも空腹だったから、ご飯をたくさん食べるのが一番の楽しみだったと振り返っています。

敗戦後、沖縄に帰還して「これが私たちの住んでいた沖縄か?」と変わり果てた景色を目にし、びっくりすると同時に悲しくなったとのことです。

「今後、絶対に戦争はしないで、尊い平和であるように願いたいと思っています」と書かれていました。

私は、石川さんの願いが琉球人形にも自然に伝わり、その瞳に平和のメッセージが込められているような気がします。

写真前列の右端が石川さんです。この写真と一緒に、父が分かるようにと、お名前と番号がふられた手紙が残っています。

近年、私が沖縄の施設や旅館を訪れた際、沖縄からの学童疎開受け入れの話をしたら、若い男性スタッフは「旅館の歴史として聞いてます」と笑顔で答えてくれました。

帰還するまで、老朽化のために使わなかった病院の清掃や、山から生活用水を引いたり、村の方々には学童をはじめ、私たち引率者の家族も大変助けられました。

石川さんは、疎開してきた皆さんが帰還されてからも、しばらく熊本に残りました。

私の父は、朝、水が出ないと水を引いている竹を、動物がけ散らしたから、それを直しに出かけたそうです。また、早朝、自分たちも小鳥の囀ずりで目覚めた記憶があるという児童の記述もあります。

山奥暮らしで、私は余り人は見かけず動物しかいない記憶があります。新聞は一日遅れだったようです。

電気がよく切れ、少し離れた村長さん家に「電気はつきましたか?」と呼びかける父の大きい声や、祖母に連れられ運動会を見に行き、人の多さに恐れをなして泣いたことも覚えています。笑い話みたいですね。

石川春子さんの手記には、「帰還し荒廃したひどい古里に悲しく、尊い平和が訪れるように」と書かれています。

沖縄には「ゆいまーる」という言葉があります。「ゆい」は「結」(協同  協働)、「まーる」は「回る」(順番)の方言を表し、相互扶助を順番に、かつ平等に行っていく琉球王朝時代からの言葉です。

それが引き継がれ、「助け合い、一緒に頑張ろう」という気持ちになって、沖縄の戦後復興と本土復帰につながっていったと思います。

天災・人災、戦争の脅威、先の見えない時代と言われていますが、足元の自分たちの歴史や「ゆいまーる」の精神を忘れずに、奇跡の命と愛おしい日々を生きていきたいと思います。〈与儀喜克〉





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