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抜き書き帳『出発は遂におとずれず』(4)

2016年07月13日 | 小説・映画等に出てくる「たばこ」
「兆」
【206ページ】
井伊は疲れている、と巳一は思った。他の二人はその両側にいたが、別に額を寄せて重大事を話し合っているという様子もなく、煙草を口にくわえて、ちょっと放心の様子があった。

【210〜211ページ】
人々の人民がですよ、要するにですよ、小説などはつまらないことなんです。それは文字というものの暴力ですよ。現実は文字を必要としません。従って小説など不要です。そのことを私は自分の小説で証明するのです。そのためには凡そくだらないものを書かねばならんのです。人々が小説など全く読まなくなるようにね。現実は現在というものを百パーセント、エネルギッシュに生き、その時文字は悲愴な顔付きをして引っこんでいて、現実がすっかり忘却と亡佚(ぼういつ)の波にさらわれてしまった後で、唯一の、そうです殆んど唯一の証拠品として後の世の人民の前に残されるなどということは全く文字の屈折した暴力ですよ。

[ken] たばこを吸う人なら思い当たることでしょうが、放心状態では、たばこがよく似合うと思います。210〜211ページの「小説不要論」や「文字の屈折した暴力」については、島尾さんの良識や覚悟が登場人物を通して語られているのでしょう。世の中にあって小説は生活必需品ではなく、現実の前では大人しく振る舞っているにもかかわらず、過去の証拠品としてだけ残されるという認識と、それを一種の「暴力」と規定する考え方に目を開かれました。(つづく)
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