日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

少子化はばら色

2007年04月21日 | Weblog
 少子化の問題を考える前に、グローバルな観点に立って、世界の人口問題について考えてみたい。発展途上国における人口爆発と、先進国における少子化、差し引きしても、今後世界の人口は増え続けるといわれている。その結果、限られた水資源、燃料資源、森林資源、土地、食料、等々をめぐって国同士の間で奪いあいが生ずるであろう。今でもアメリカ(国際石油資本)によるイラクへの侵略戦争(内政干渉)は石油資源を巡っての争いだといわれている。
 いま人類は生物学的に見れば、異常繁殖しているのである。ほかの生物の場合も異常繁殖はおこりうるが、限られた食料、水などをめぐって争いが起こり、起こらないまでも食糧不足によって、その数は適正規模にまで淘汰されていく。それが自然(神)の摂理である。人間の場合はどうであろうか、昔は病気、疫病、自然災害、食量不足、大規模戦争、親殺し(姨捨)、子殺し(間引き)などで、適正規模にまで減少していったのである。しかしいまや医療の進歩による疫病の絶滅(例えばペスト)、病気による死亡率の減少、養殖技術の進歩、核戦争の回避、などと、人類は地球とのバランスを失い、自然(神)の摂理を犯し、増え続けている。その結果、資源の枯渇、環境破壊、生物連鎖の破壊、オゾン層の破壊、温暖化と地球の存続すら危うくする。大規模地震、津波、ハリケーン等は明らかに人類に対する自然(神)からの反撃なのである。温暖化による極地における膨大な氷の溶解は水位を上昇させ、地球上の何分の1かの土地を奪うという。国際的に見て、人口問題は、解決すべき緊急な課題なのである。
 このような前提にたって、わが国における少子化の問題を考えてみたい。日本における合計特殊出生率は1.25だという。ここ数年来減少傾向にある。2人の男女から、2人未満の子供しか生まれないということは、今後も縮小再生産が続くことを意味している。極端の場合何百年後には人口はゼロになるのである。これは避けねばならない。しかし日本における利用可能な土地、資源、生産量、食料などに見合った形で少子化が進むのは、むしろ歓迎すべきことなのである。
 食料の自給率40%、職住の遠隔化による通勤ラッシュ、交通渋滞、高騰する土地、住宅、激化する受験戦争、就職難等々は適正規模にまで人口が減少することにより解決されるのである。もちろんここにまで到達するにはさまざまな摩擦は存在する。少子高齢化による年金問題、労働不足による生産性の減退、無駄になって利用されない公共施設。国家、地方における税収不足、等など問題は山積している。
 しかし、年金制度の見直し、高齢者、女性の再雇用、外国人労働者の雇用、省エネ技術の開発、あまった公共施設の民間への払い下げによる転用、小泉内閣が推進した小さい政府(このことにより財政支出は削減される)=国鉄の民営化、郵政の民営化など、と視点を変えてみれば、解決可能な問題である。
 女性の雇用の場合、子供を預かる公共のあるいは会社付属の保育施設も必要になろう。家庭も仕事も、が可能になれば、女性は安心して子供を生めるようになる。出産による退職が無くなり退職した女性の再雇用が可能になれば(キャリアー「看護士など」のばあいなおさら)生産性をあげることも可能なのである。高齢者の場合もそのもつキャリアーは重要である。悲観することは無い。
 それでは今の日本において最適規模の人口はいくらなのであろうか?一説によると8000万人程度だといわれている。欧米の先進国では少子化は常識であり、必然である。日本においても少子化を前提にして少子化対策を立てる必要があろう。