読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

「世界で一番面白い英米文学講義」を読む

2010年03月06日 | 読書

巨匠たちの知られざる人生
 とは言っても、巨匠なんだから一般に知られていない人生などありえようはずも
ないが、作品はいくつか読んで、伝記的な人生の概要も読んで、一応知ったつも
りでいても、案外作品に反映された「人生観・世界観」の背景や根底にあるもの
は知らないことが多い。
 小生も欧米文学は著名な作家の作品は多少は読んでいるが、この本を読み、
巨匠の実像が幾分はっきりし、作品の背景が多少なりとも理解できたような気が
して来た。

  図書館の書架でこの本を見つけ、「あ、面白そうだ。」と思って、目次を繰って
見て、きっとこれは面白いぞ、と借りてきた。読んでみて、案の定面白かったので
ご紹介する次第。
 訳者の藤岡啓介(早稲田大学文学部ロシア文学科)先生が、「面白い、とにかく
面白い。」と白状しているし、会う人ごとに「めっぽう面白い」と吹聴しているうちに
自分で翻訳したくなった、というくらいだから・・・。
 ぜひ読んでみてください。

 「世界で一番面白い英米文学講義―巨匠たちの知られざる人生―」
   2006年9月草思社刊  著者:Elliot Engel  訳者藤岡慶介



 著者はエリオット・エンゲル(Elliot Engel)米国インディアナ州インディアナポリス
生れ。デューク大、ノースカロライナ州立大で教鞭をとる傍ら執筆・講演活動を行
っている。
 もともと英米文学部の学生向け講義用に準備されたものが元になっているの
で、文学研究書的な硬さがなく、伝記研究書にない面白さがある。

 この本には英米文学の著名な作家13人が上げられている。
 なぜこの13人か。著者の選択基準は、「作家の人生がその作家を有名にした
作品にとてつもなく大きな影響を与えている。」である。
 作家の生涯を語りながら、事実・エピソード、彼らの持つ洞察力・識見を交えて
その全体像をとらえる試みである。

チョーサーからディケンズへ
・ ジェフリー・チョーサー(1343~1400)
 「カンタベリー物語」は多年生の植物のように、途切れることのない男女の子孫
で満ち満ちている。その『総序の歌』に登場する全国民各層の肖像が、すばらし
い性格描写で語られている(30編30人)。
 チョーサーの「カンタベリー物語」は印刷術が現れる50年前の作品で口誦(朗
読)を意識して書かれた。

・ ウィリアム・シェークスピア(1564~1616)
 英語には「古期英語」、「中期英語」、「現代英語」の特徴的な三つの時期があ
るが、シェイクスピアは初めて現代英語で作品を書いた作家である。37編の戯
曲が不朽の名作。当時の芝居小屋では、出来の悪い芝居にはトマトを投げて帰
ってしまう。木戸銭は全額払い戻しで、こうなると作家や役者は1銭ももらえなか
った。
 シェークスピアの作品は全て大当たりでトマトを投げられることもなく、シェークス
ピアには一座のあがりの配当、劇場の所有権、著作権など複合的収入がり豊か
であった。

・ ジェーン・オースチン(1775~1817)
 英文学初めての女流大作家。この時代、ものを書くのは男の仕事。ものが書
かれた最初は「叙事詩」、次は恋を詠う「ソネット(14行詩)」。ただしこれは自分
の女主人をたたえるのが決まりのため、これも男の世界。そもそもものを書くの
に使う「ペン」は男性が使うものであって、女性がペンを使ってものを著すことな
ど考えられていなかった。(何しろpenはラテン語のpenisから生まれた言葉で女
性には縁がない存在であったから。)
 男性優位社会にあってジェーンが「高慢と偏見」、「分別と多感」などの作品を
書いたのが22歳の時。1814年に書きためた作品を相次いで出版し、3年後副腎
機能不全で世を去る。世俗から離れた生活であったためか、機知にとんだ作品
はあまりにアイロニカルであり、冷淡で狭量な人と思われた。

・ エドガー・アラン・ポー(1809~1846)
 ポーの母は絶世の美女だった。ポーはイギリス生まれながら両親とすぐにアメ
リカに渡った。
 ポーは誕生後父とはすぐに死別。母とも3歳で死別した。ポーはアラン家に引き
取られるが、養父はポーを嫌い養母がなくなるとすぐに追い出した。
 兄嫁の助けで大きくなったポーはチャールス・ディケンズとの面会が機で名作
(詩編)「レイブン(大烏)」を出した。短編小説「黄金虫」などを読んだNYのさる金
持ちが、ポーに雑誌編集長の仕事を持ちかけた。ポーはリッチモンドからNY へ
の乗り換え駅ボルチモアで酒におぼれて道路わきの側溝に崩れ落ち、慈善病院
で死んだ。最後の言葉は「神よ、わが魂に慈悲を!」。
 母を初め養母、友人の母、妻のヴァージニア、彼が愛した女性はすべて彼の目
の前で苦しみながら死んだ。 
 
・ シャーロット・ブロンティ
(1816~1855)/エミリー・ブロンティ(1818~1848)
 ブロンティ家には6人の子がいた。長女、次女は全寮制の学校に入りそこで病
気になって死んだ。三女のシャーロッテ(「ジェーン・エア」を書いた)四女エミリー
(「嵐が丘」を書いた)次いで唯一の男子ブランウェル。そして末子はアン。
 家計を助けるために今や一番上となったシャーロットはガヴァネス(住み込み
の家計教師)に。その実情はTVドラマとは大違い。コックやメイドのちょっと上の
身分に過ぎず、仕事は過酷。不器量で怒りっぽかったシャーロットはガヴァネス
を辞める。やがて「冴えない不美人」のジェーンが主役の小説が生まれる。
 ある批評家は無遠慮に言っている。「『ジェーン・エア』は醜いあひるの雛が、
そのまま醜いあひるになった物語である。」

 身長が150センチたらずだったシャーロットに比べ、エミリーは背丈は170セン
チ、非常に魅力的だったという。ただ極端な内気で、引きこもり屋だった。家計
のためにシャーロットは姉妹で競争して小説を書くことを提案する。
 まずシャーロット「ジェーン・エア」がヒット、次いでエミリーの「嵐が丘」。批評家
たちはヒースクリフとキャシーの2人が、運命意的な愛の崇高なる精神性を求め
ながら身を滅ぼしていく、その関係が気に入らなく酷評された。エミリーは弟ブラ
ンウェルの葬式に裸足で歩いたのが因で風邪を引き、結核になってしまい6カ月
足らずで死ぬ。
 一方4女のアンは「アグネス・グレー」という作品を出版して間もなくやはり結核
で亡くなる。シャーロットは13カ月の間に3人の兄弟姉妹を亡くすが38歳の時に
父親の反対を説得して結婚。その後生涯望んでいた妊娠をするも、これまた結
核が因で7カ月の胎児を宿したまま他界した。
 
・ チャールズ・ディケンズ
(1812~1870)
 ディケンズは裕福な家庭に生まれたが、父親が「債務者監獄」(この仕組みは
長くなるから省略する)に入れられたためそこから学校に通った。ディケンズは最
初「ボズのスケッチ」というエッセーを出版したこときっかけに、有名な画家と組ん
で安価な「ペーパーバック」本を考案し、成功する。しかもこれを連続ものとし、ま
とまったところでバックナンバー豪華装丁本にして二度の儲け。その上初版のペ
ーパーバック本を買った人から、初版本を二束三文で買い戻し、「初版本超豪華
装丁本」にして売り出した。なんと一つの本で三度儲けたわけである。
 ディケンディジアンのエリオット氏が言うには、彼が不滅不朽の名声を得ている
のは、誰にも真似が出来ない独創的な人物を創造したからだ。クリスマスキャロ
ルのスクルージ老人を初め、彼の描く人物は、人々の心の内にある感情を擬人
化し、善意の権化、吝嗇の権化、、卑劣の権化、嫉妬の権化が歩き、話し、生活
し息づいているように、リアルではないが時代を超えて生き続ける人物として描か
れているのだ。

ワイルドからヘッミングウェイへ
・ オスカー・ワイルド(1854~1900)
 奇矯・奇行の人「常軌を逸した天才」と言われたワイルドの作家人生は、はっき
り言って悲惨である。本人は「自分のもっとも偉大な天才は自分が生きた人生で
ある。」と言っているが・・・。
 アイルランドの何不自由ない家庭に生まれ、ダブリンの有名なトリニティカレッジ
からオックスフォードまで進む。いつしか審美主義に囚われ、一躍人気者としてア
メリカで一大旋風を巻き起こした。そのうちホモセクシュアルを疑われたが、結
婚して二児をもうけ、その疑いを晴らしたかに見えたが、実際は当時世間が許さ
ないホモの世界に埋没、こともあろうに交際相手のダグラス卿の求めを振り切
れず、その父親を相手に名誉棄損の訴えを起こしてしまう。
 このころ書いた「ドリアン・グレー」という小説は19世紀90年代のデカダン派
(頽廃派)とされる流派の先導的な役割を果たしたと言われている。一方このこ
ろ書いた「ウィンダミア夫人の扇」や「取るに足らぬ女」、「まじめが肝心」など
の戯曲はいずれも大ヒットするなど、文学的には成功しているかに見えたものの、
訴訟によって破廉恥な所行があからさまとなり、芝居は上演中止、著作権料停
止、重労働2年の懲役などで、完膚なきまでの仕打ちを受ける。多くの友は去り、
かつての恋人からも冷たい仕打ちを受け、パリのみすぼらしい部屋で死を迎え
た。

・ マーク・トウエイン(1835~1910)
 アメリカで英文学を教える先生がアメリカ合衆国で第一級の作者としてあげる
のは「マーク・トウェイン」。ただし世界第一級の作品は「ハックルベリー・フィン」
だけ。
 トウェインは12歳で父を亡くし、母と4人の兄弟を養うために印刷工として一日
18時間もこき使われ働いた。そのうち新聞記者になり「その名も高きキャラベー
ラスの飛び蛙」を書いた。これがアメリカ口語で書かれた初めての小説となった。
 トウェインを有名にした「ハックルベリー・フィン」は内容が「猥褻」で「猥雑」と上
流階級の猛反発を食らった。とりわけルイザ・メイ・オールコット(「若草物語」の
作者)から低俗・通俗的・無教養で猥雑でいたたまれない・・・」との酷評を受けた。
ところがトウェインはこれを逆手にとって、「マーク・トウェインの「ハックルべりー・
フィン」がマサチューセッツ州で販売禁止に。いかなる理由かと言えば≪書かれ
た話が余りにも卑猥、猥雑≫」。たちまち翌週の売り上げは3倍になった。

・ サー・アーサー・コナン・ドイル(1859~1930)
 貧しいが気位だけ高い両親から医者の道に進み、開業したものの患者客はな
く、傍ら恐怖小説を書いていたが、結婚後生活が安定してからシャーロックホー
ムズという探偵が主人公、自分の分身ともいえる医者のワトソンを相棒とした探
偵小説を書きはじめた。しかし第一作の「緋色の研究は出版社から送り返され
た。
 眼科医を目指しオーストリアで勉強して帰ったものの患者は一人も来ない。そ
んな中「ストランド」という雑誌に書いた連載小説にシャーロックホームズの作品
を載せたところ大ヒット。2年足らずの間に24編もの作品を書いた。ところが知
らぬ間に妻は結核に冒されていた。スイスに移り治療しようと、シャーロックホー
ムズが死ぬ「最後の事件」を書く。ところが読者から猛烈な抗議行動が起こり、
時の英国皇太子は「ホームズが死んでいかに自分が取り乱したか」を綿々とつ
づった手紙を「ストランド」誌に寄せるなどしたが動じなかった。
 しかし8年後脚本や長編小説{パーカーヴィル家の猟犬」で再び脚光を浴び、こ
の時Sirの称号を授けられる。
 ただ残念なことに第一次大戦で息子と兄弟を失ったドイルは心霊主義にのめ
りこみ、新たな作品を生み出すことなく71歳で死んだ。 

・ D・H・ロレンス(1885~1930)
 ロレンスは文学に初めてフロイト的世界観を持ちこんだ作家である。出自が労
働者階級の両親から芸術的・野心的な性格をお母から、直感力と生命力を父か
ら受け継いだ。ロレンスは32歳の時フリーダという6歳年上の大学教授の妻と
駆け落ちしする。ちょうどこのころ世に出たフロイトの「エディプスコンプレックス」
理論を取り入れた「息子たちと恋人たち」を書いた。これは労働者階級を題材に
した初めての小説でもあった。その後ロレンスはイタリア、オーストリア、メキシコ、
ニューメキシコ、南フランスを渡り歩き、「虹」、「恋する女たち」を発表する。
 これに次ぐ「チャタレイ夫人の恋人」はイングランドとアメリカではとても出版出
来ないとみて、イタリアで英語で出版された(1926年)。
 アメリカでこの本が発売されたのは1961年。NY地裁で発売禁止が否定され、
初めてアメリカで日の目を見ることになった。
 ヘンリー・ミラーやノーマン・メイラー、ジェームズ・グルード・カズンズなどは「D・
H・ロレンスのお蔭で、我々はセックスをあからさまに描くことができた。」と口々
に言っていたという。しかしロレンスはこうした必要もない余計な暴力とセックス
を描く小説を心から嫌っていた。

・ F・スコット・フィッツジェラルド(1896~1940)
 20世紀を代表する偉大な作家は、ヘミングウェイ・フォークナー・スタインベッ
ク・それにスコット・フィッツジェラルド。これはこの本の作者エリオット・エンゲル
の説。
 フィッツジェラルドは「狂騒の20年代」と言われた10年を代表する作家である
が、両親に溺愛され育った彼は、NYに近いニューマンスクールからプリンストン
大学に進み、堅苦しく尊大で大真面目な堅物に育つ。
 第一次世界大戦画勃発し、大学中退でこの戦争に行く。終戦後アラバマでゼ
ルダという奔放な女性に出会う。この女性が最後まで彼を苦しめた。
 小説で身を立てる決心をし、何度か書き直した「楽園のこちら側」が「スクリブ
ナー社」の目にとまり、映画化されるなど収入も増えたものの、ゼルダとしたい
放題しまくり借金だらけに。しかし1920年代の奔放な現代娘の生態を描いた
「フラッパー」が人気を博し、ついに長編「華麗なギャツビー」を出版する。これ
は当時はあまり評価されず、新しい長編を出しても売れず、次第に深刻なアル
コール中毒になるが、28歳のシ-ラ・グラハムに出会い、彼女の努力で断酒
に成功する。しかし時すでに遅く、僅か1年足らず心臓麻痺で他界する。

・ アーネスト・ヘミングウェイ(1899~1961)
 ヘミングウェイの生涯は彼の作品と切り離して語ることが出来ないほど解きが
たくもつれ合っている。
 裕福な家に生まれたが大学には行かず、左目が先天的弱視のため軍隊にも
行けず、新聞記者になった。この時「短い文章で書く。文頭のパラグラフは常に
短く。とくに、grand(雄大な、堂々たる),splendid(華麗な、豪華な),gorgeou(華美
な)などの形容詞や副詞は用いない。」という新米記者向けの、模範的文章構造
の教えを学び、彼独特のスタイルを作った。
 赤十字の障害者運搬ドライバーの資格で念願の戦場に向かったヘミングウェ
イはすぐに負傷。本人が障害者になって復員する(この体験はのちに「武器よさ
らば」となる。)。
 「われらの世代」がフィッツジェラルドやアンダーソンらに評価され、「日はまた
昇る」ではフィッツジェラルドの助言を受けるなどる小説とその映画化で受けに
行っていた。またスペインの内戦をとらえた「誰がために鐘は鳴る」の成功は19
30年代で彼が最も光り輝いた時期だった。
 彼は生涯4度結婚しているが、4番目の妻メアリー・ウエルシュは結婚した直後
に「薄情で、非常識で、利己的で、役立たず、鑑賞力も理解力もないエゴイストで、
評判だけを気にする怪物」と手紙で打ち明けているとか。

   

   (この項終わり)
   

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