リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

砂をかむ

2019年10月30日 23時58分20秒 | 日々のこと
「砂をかむような」という表現が、「悔しくてたまらない」という意味にとる人が多いそうです。ある年代より上の人は、受験生ブルースという歌が昔はやっていたので、多分正しい意味をご存じでしょう。「砂をかむよな味気なさ~」なんて歌っていましたからね。(笑)

受験と言えば、大学入試における英語試験の民間試験導入に関して、文部科学大臣が「身の丈発言」で追及されています。民間試験導入に関しては、もちろんそれも問題ですが、まずもって問題にしなくてはいけないのは、それらが学習指導要領に基づいて問題が作られているわけではないという点です。

学習指導要領に基づいて学校教育が行われ、その範囲で全ての教科の入試問題が作られるべきことは当然のことですが、そもそも目標が違う英語民間試験の導入は発想のスタートから間違っています。

そういう重要なことを決定する協議の場に専門家がいなかったのでしょうか。私の知っている範囲では、この件以外でも、教育関係の重要な決定をする委員会に専門家が入っていないケースが結構あります。中央教育審議会の答申に基づいて、学習指導要領の作成会議が開催され、そこで決められた各教科の学習指導要領に基づき、日本の学校教育が進められていくわけですが、その一番トップの中央教育審議会に英語教育の専門家が入っていないのです。

審議会に出席されている各界の著名人から、「日本の英語教育はなっとらん」「もっとしゃべれるようにせんとあかん」なんて意見がでて、ではその方向でとなるわけです。そこには英語教育の専門家による検証はありません。ずいぶん乱暴な感じです。それで、その意見が学習指導要領の委員会におりてきて、この方向性は曲げられませんので、その線に沿った学習指導要領が作られ、日本の公教育の方向が変化していくわけです。学習指導要領の委員会の先生(こちらは全員専門家です)は苦慮するわけですが、すでに方向性が定まっているので曲げるわけにはいきません。

英語の大学入試に民間試験導入を導入することを決めたプロセスも恐らく同じような経緯があったのではないでしょうか。英語教育の専門家や学校教育の関係者でいろんな方向から議論すればまずそのような結論には至らないはずです。どっかの国のトップが辞めたあと逮捕されるケースが多いのをうけて、その国のシステムがおかしいのではという意見をおっしゃる方がいますが、こと教育の方向性を決める我が国のシステムも相当危ういものです。