院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

茄子はなぜおいしいのか?

2008-10-15 08:25:00 | Weblog
 茄子がおいしい季節になった。

 ところが栄養学の教科書によると、茄子はカロリーはもちろん、ビタミンなどの栄養素がまったく含まれていないという。

 茄子は漬物でも、煮ても焼いても炒めてもおいしい。おいしいものに栄養素がないとは、いかにも怪訝である。

 人間は身体に不足しているものを欲する。水分が足りなくなれば、喉が渇く。本能的に不足しているものを欲するように、生物としての人間はできているのだと思う。

 だったら茄子をおいしいと感じる私たちは、茄子に含まれている何かを欲しているのだろう。私はそれを亜鉛、銅などの微小金属だと考えている。茄子にはこれらが含まれているのではないか?

 茄子をおいしいと感じるのには訳がある。栄養学は昔から杜撰だったが、今でも杜撰である。もっと人間の味覚を重視してもよいのではないか?

漁船の古タイヤ

2008-10-14 08:28:02 | Weblog
 漁船に古タイヤが付けられていることがままある。

 桟橋に古タイヤ付けられていることもある。

 これは漁船が桟橋に着岸するときの緩衝材ととして使われているのだろう。漁船は実用一辺倒だから、外観なぞ問題にしていないのだろう。古タイヤは安くて、実用的だから私が子供のころから使われているのだろうと想像できる。

 だが、豪華客船には古タイヤは付けられていない。豪華客船が接岸する桟橋には古タイヤが使われているのだろうか?

 豪華客船が古タイヤが付いた桟橋に接岸したら興ざめである。

 ならば、豪華客船と、それが接岸する桟橋には何が緩衝材として使われているのだろうか?

 私は豪華客船に乗ったことがないから、その辺のことに興味がある。

法曹の精神医学音痴

2008-10-13 20:20:41 | Weblog
「宇都宮病院事件」以来、精神障害者の保護は年々進展してきている。これはたいへん喜ばしいことである。精神障害者が病院で看護者に殴られることもなくなった。

 だが、社会防衛という役割は、まだ精神科病院が担わされている。社会防衛というのは、患者の苦痛の除去のためではなく、社会の安寧のためだから、精神医療はまだ身体医療の水準に達しているとは言えない。

 まれに犯罪者の精神鑑定を頼まれることがある。それは司法鑑定ではなく、検察が申し入れる起訴前鑑定である。

 検察は、犯人が精神障害者だとの鑑定を受けると、不起訴にする傾向がある。これはたいへんな誤りである。精神障害者であっても、障害が原因ではない犯罪を起こしうる。それを、精神障害があるという理由だけで不起訴にしてしまうのは、あまりに不合理である。精神障害者への逆の意味での差別とも言える。

 同じようなことが司法鑑定にもある。猟奇的な事件が起きると、弁護側は必ず司法鑑定を要求する。理由は常識的には理解できない犯罪だということである。そこに先入見がある。常識的に理解できないと、精神障害とみなすという先入見である。

 一億人以上の人間が住んでいるわが国である。たまたま常識では理解できない犯罪が起こることもあるだろう。でも、それを精神疾患で片付けるべきではない。こうした弁護側の行動によって、多くの善良な精神障害者が迷惑をこうむっている。

 精神障害者のほとんどの行動は精神科医には理解できる。だが、猟奇的な犯罪は精神科医でも理解できない。そのような事例を司法鑑定に回す弁護側は、常識では理解できない犯罪は、すべて精神障害によるものだと考えているのだろうか。だとしたら、弁護側は不勉強のそしりを免れない。検察の精神障害に対する見方も同様に素人的である。法曹は優秀な人材ばかりなのだから、もっと精神医学の勉強をせよと強く訴えたい。

インドネシアの看護師、介護士

2008-10-11 08:31:33 | Weblog
 インドネシアから看護師と介護士が来るという。

 介護士という免許はインドネシアにはないから、これから日本で修行するのだという。語学から始めなくてならないから、大変だと思う。

 不思議なのは看護師である。インドネシアには「輸出」するほど多くの看護師がいるのだろうか?

 インドネシアに赴任していた友人の話によれば、かの国はイスラム教信者が多いほとんどだから、すべて「神の思し召し」で済ますのだという。約束を守れなくても「神の思し召し」、電車が遅れても「神の思し召し」。さらに、人の生き死にも「神の思し召し」だから、病気になっても高い金を払って病院に行く人は少ないらしい。

 医者の需要がないから、医者がいない。友人は首都ジャカルタでさえ、まともな医者を捜すのは大変で、非常に困ったと言っていた。

 わが国では看護師は医者からトレーニングを受けて一人前になる。その医者がいなければ、インドネシアの看護師はトレーニングできないではないか。どうやってトレーニングされたのだろうか?私にはそれが不思議である。

 だから私はインドネシアの看護師の技量を疑っている。もっとも私は看護師に限らず人間を「輸入」すること自体に反対であることは前に述べたので、ここでは繰り返さない。

エコの欺瞞への反論書が次々と

2008-10-10 08:43:41 | Weblog
 このところ環境問題キャンペーンに対する反論が次々と出てきた。

 「環境問題はなぜウソがまかりとおるのか1,2,3」(洋泉社)や「地球温暖化論に騙されるな」(講談社)や「偽善エコロジー」(幻冬社新書)などは、いずれも名著で現役の科学者が書いたものである。

 私がしつこくこのブログで疑義を呈してきた問題にすべて、科学的なデータをもとにして答えている。一読をお薦めしたい。

 みな、かなりスタンスが似ている。まず、地球温暖化が本当に起こっているのか疑問をデータから呈している。100歩譲って、地球温暖化が起こっているとして、それは人間が排出するCO2 のせいなのか、著者全員が疑っている。

 太陽活動、宇宙線の影響など、素人の私が考えなかった仮説も提出されている。

 各書に共通して言えることがもう一つある。それはレジ袋追放運動の馬鹿馬鹿しさについてである。レジ袋はもともと燃やすしか仕方のなかった廃油から最新技術で作られたのだそうである。

 だから、その廃油をもう一度レジ袋にして、さらにゴミ袋にして、そして燃やせば、それがもっともエコなのだという。

 みな学者だから、下品なことは言わないが、学者でない私はいつぞや書いたように「レジ袋で徴収する5円は、どこにいくのだろうか」ということを考えてしまう。これは消費税のような公的なものではないから、みなスーパーの懐にはいるに決まっている。

 これらの書物を読むような層の読者は、レジ袋有料化の欺瞞にすぐに気付くだろう。

 一部の著者は、一大環境キャンペーンを張ったNHKや朝日新聞を批判している。これらのマスメディアがいかに馬鹿であるか、読むと分かる。さらに、馬鹿ならまだよいが、一部の者の利権のために利用されている。あるい役人のメンツのためにやらされている。

 古紙の回収、ペットボトルの分別、廃棄家電の有料化。これらは利権とメンツのために損をして庶民がやらされていることが、これらの書物を読むとよく分かる。

 「なぜウソが・・・」はベストセラーの仲間入りをしている。庶民もはながち愚かではないなと思わせられる。もうしばらくすれば、地球温暖化もCO2 も忘却のかなたに行ってしまうだろう。

 私がひとりで、こんな小さなブログで、環境問題の矛盾を追及しなくてもよくなると思うと、ほっとする。 

スポーツ観戦

2008-10-09 08:36:26 | Weblog
 私がスポーツ観戦を好きでないのはルールを知らないからである。

 野球、サッカー、ゴルフ、相撲。みな詰まらない。

 野球はホームから1塁への盗塁がなぜいけないのか分からない。ファウルは何本打ってもOKなのかが分からない。それなら、ストライクに勘定しなければよいのにと思う。

 サッカーは自分でも高校時代にやったことがあるけれども、オフサイドなんていうルールはなかった。このオフサイドとはどのようなものかが分からない。だから、オフサイドで得点にならないと面白くない。

 ゴルフは全然やったことがないから、もっと分からない。池ポチャを2打とか数えるのだろうか?そのへんが分からないから、見ていても面白くない。

 相撲は勝ち負けははっきりしているが、技が早くて見逃してしまう。どんな技なのかが分からない。お相撲さんは大きな体なのになぜあれほど機敏に動けるのだろうか?早すぎる。

 という訳で、私はTVでスポーツを見ない。もちろん本物の競技場へは行かない。スポーツニュースは大嫌いで、チャンネルを変えてしまう。

鯛はおいしいか?

2008-10-08 09:59:52 | Weblog
 「腐っても鯛」という。「鯛のおかしら付き」という。鯛はわが国で珍重される魚である。

 でも鯛ってそんなにおいしいか?刺身なら私は鯛より平目がよい。鯛の刺身を皮付きで、皮の部分だけ焼いて供する。そんなにしてまで手をかけなければ鯛はおいしくないのだと思う。

 鯛の焼いたのも、煮たのもさしておいしくない。おいしくない魚がかくも珍重されるのは、その色からだと思う。赤いからだ。

 もしくは釣るのが難しいということもあろう。鯛は大物になるほど釣るのが難しい。

 赤いといえば、金目鯛も赤い。でも、金目鯛の煮付けは鯛のそれよりも格段においしい。こうなると、鯛の値打ちがどこから出てくるのか分からなくなる。

 鯛という魚は実力以上に値段が高い。これはもう、わが国の文化というほかはない。

核家族は本当に増えたのか?

2008-10-07 08:19:29 | Weblog
 近年、核家族化が進行しているというが、ほんとうにそうか?

 昔、まだ家父長制度のころにも核家族はあった。本家は長男が継ぐので次男三男はみな核家族になった。核家族は昔からあったのである。それが核家族が増えたように見えるのは2つの要因がある。

 1つは、長男さえもが核家族化するようになったことである。すなわち、長男の核家族化が増えたのである。

 もう1つ大きな理由は、子供の数が減ったため、男子人口の過半数が長男になってしまったことである。

 だから、真相は核家族が増えたと言うよりも、次男三男が減ったということである。この事実をマスコミは知らせないから、ここで私が知らせておく。

赤い羽根に子供を動員するな

2008-10-06 08:43:47 | Weblog
 赤い羽根共同募金で、日曜ともなると高校生が街頭に立っている。多くは女子高生である。

 彼女らは純粋だから、箱を持って「お願いしまーす」と声を張り上げている。

 私が子供のころも青少年が街頭に立っていた。ボーイスカウトやカブスカウトもいたように思う。亡父は「子供にこんなことをやらせるのは、けしからん」と言っていた。長じてやっと父が言っている意味が分かった。

 募金で集められた金が、どこでどのように使われているのか、青少年は知らないだろう。ただ善意だけで声を張り上げているのだ。子供たちの善意が利用されているのである。

 前にも言ったが、赤い羽根共同募金で集まった金がどこでどうつかわれているのか、よく分からない。マスコミはきちんと報道すべきである。

 24時間TVだって、いくら集まって、それを何に使ったかきちんと説明している。赤い羽根にはそれがない。

「八百長」の語源

2008-10-05 02:12:30 | Weblog
 大相撲の八百長が裁判になっている。

 八百長とは昔から知っている言葉だったが、語源が分からなかった。

 調べてみたらWikiPediaに次のような記載があった。

 「八百長は、明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が勝っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫のご機嫌をとっていた。

ところがその後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、真剣に争っているように見せながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ばれるようになった。」

 意外に語源を知らない言葉がある。「すっとこどっこい」とか「朴念仁」なども、語源が分からない言葉である。

定年制に対する疑義

2008-10-04 15:27:27 | Weblog
 会社や役所の定年制になぜみな疑問を呈さないのか不思議である。

 年金暮らしがそんなに楽しみなのか?フランスのトラック組合が定年制についてストライキをやったことがある。

 どんなストライキかというと、フランスのトラック運転手の定年を55歳からもっと引き伸ばそうとする動きへの反発によるストライキだった。

 どうもフランスのトラック運転手は定年を楽しみにしているようである。それにひきかえわが国ではどうか?

 60歳定年を楽しみにしている人がどれくらいいるだろうか?みな、まだまだ働けると思っているのではないか?

 定年とは年齢によるクビということである。見方によっては理不尽である。でも、それに文句を言う人は少ない。だから、私が言う。

 働ける人には働いてもらったほうがよい。若い人が入りにくくなるというのは屁理屈である。

 役員にはなぜ定年がないのか?自営業者にはなぜ定年がないのか?

 昔はわが国でも定年を楽しみにしている層があった。それは年金や恩給が高かったからである。今はそうではない。

 だったら、定年制を廃止すべきである。

「赤い羽根」という利権

2008-10-03 06:57:20 | Weblog
 また赤い羽根の季節になった。

 町内会で赤い羽根の募金を「強制的に」や徴収された。でも、私は赤い羽根を着けて歩くほど野暮ではない。だから、街頭で再度「赤い羽根にご協力を」と言われる。うるさくて、しょうがない。

 昨年も一昨年も赤い羽根批判をやったが、今年もまたやる。

 そもそも、赤い羽根は決算を報告しない。何に何円使ったのか、まったく報じない。(報じているのかも知れないが、私の耳には入ってこない)。

 赤い羽根には専従職員がいるだろう。彼らの給料がいくらなのか、まったく報じられない。専従職員は赤い羽根募金をかすめとって給料をもらっているはずである。なら、公開して欲しい。

 給料の公開が無理なら、専従職員の数だけでも教えてほしい。マスコミもそれくらいは報道すべきである。

 赤い羽根募金は何に使われたのかが、まったく見えない。透明化しようという意志すら感じられない。

 そんな得体の知れない募金に、町内会を通じて強制的に協力させられても私が文句を言わないのは、町内会と論争をするのがめんどうだからである。そんなことをすれば町内で変人と見なされるからである。

 「赤い羽根」は俳句で秋の季語になるほどに定着してしまっている。「赤い羽根」は風流ではない。だから、歳時記から外すべきだと思う。

 だれも赤い羽根批判をやらないから、私が毎年ここでやっているのである。むろん、来年もまたやる。

大昔の医療

2008-10-02 08:30:46 | Weblog
 医療の源はヒポクラテス以前にさかのぼる。このころの医療はシャーマンが担っていたのではなかろうか。現在でも発展途上国はもちろん、わが国でもシャーマニズムは残っている。

 痛みや熱で苦しむ患者を家族が取り囲む。シャーマンは「ご祈祷」をする。今の私たちは、「ご祈祷」は病気には何も効かないと思いがちである。しかし、そうとも言い切れない。シャーマンの必死の「ご祈祷」によって家族の気持ちが和らげられる。その雰囲気は患者にも伝わるだろう。こういった状況は、もしかしたら患者の免疫系によい効果を与え、自然治癒力を高めるかもしれない。
 
 現代医学でもそうである。偽薬といって、何の効果もない(小麦粉を丸めたような)錠剤を患者に与えることがある。そうすると10%くらいは病気が本当に良くなるのである。医学生だったころ私は、医者は現代のシャーマンではないかと思ったものだ。というのは、同じ薬を与えても、若い医者が与えるのと教授が与えるのとでは、効果が明らかに違っていたからである。むろん、教授が与えたほうが効く。

 近年、医療は何でもできると誤解されるようになった。けれども、戦後、医療が革新的に変貌を遂げたのは、抗生物質とステロイド・ホルモンの発見のみによっている。この二つの薬を奪ったら、医者は何もできない。外科手術も抗生物質なしにはほとんど不可能である。いくら文明時代といっても、医療ができることはその程度である。精神医療で言うなら、これまた戦後発見された向精神薬なしには、精神科医は何もできない。だから、今でも医療はシャーマニズムに負うところが大きい。


臓器移植への疑義

2008-10-01 08:18:46 | Weblog
 延命医療が極限まで先鋭化されたものが臓器移植である。

 臓器移植というのは、どこか変というか、不自然な感じがしないだろうか。他人の臓器(しかも死者の)が自分の体の中で活動しているなんて、不気味ではないか。臓器移植推進論者からは、「自分の子供に臓器移植が必要になったら、おまえは反対するのか」とつっこまれそうだが、反対はしないだろう。でも違和感はある。

 ドナーは今しがた死んだ人である。レシピエントはそのおかげで生きている。だが、ここでも忘れてはならないのは、レシピエントも何年か後には必ず死ぬということである。その何年かのために先端医療は存在する。それを有意義なことと見るか、さして意義のない無駄な努力と見るかは議論が分かれるだろう。ただ、人間は必ず死ぬという点を押さえておかないと、どこか地に足が着かない議論になってしまう恐れがある。

 わが国では幼児の臓器移植は認められていないから、多くはアメリカへ渡る。その料金がべらぼうに高い。億単位である。マスコミは、○○ちゃんの移植のために一億何千万円もの募金が集まったと、美談として報じる。そのお金が最終的にどこへ行くかご存じだろうか。詳しくは私も知らないが、ほとんどのお金がアメリカ人医師の懐に入るとにらんでいる。マスコミがそれを報じないのは、日本人の募金意欲が削がれるのを恐れているからではなかろうか。

 私がわざわざお金の問題を取り上げたのは、そこに南北問題が象徴的に表れているからである。一億何千万円かけて○○ちゃんの命が救われた裏には、発展途上国の飢餓で死んだ大量の子供たちの死体が横たわっていることに思いが及ばなければ、募金は本物ではない。