ちゃんと書こうと思ったら、
「おじゃマクラ」(たちいりハルコ作・1992年)で吹っ飛びました。
つい最近まで仕事をしていたことにびっくりです。
ついでに萩尾聖都と同い年でびっくりです。すごいぜたちいりハルコ。
:岩波文庫「黒髪・他二編」1922年 近松秋江作
黒髪を自慢と思い始めたのは、何時頃だろうか。それでも大学に入ってからのような気はする。ストレートの黒は自慢である。京都でつげ櫛を買って調子に乗っていた私の目に止まったのがこのタイトルだった。
解説で正宗白鳥が述べているが、
「…ところが、秋江は痴情小説に独特の妙技を示してゐても、他の種類の作品では、作者自身で持て扱ひかねてゐると云ふ有様なのだ。―中略―たゞの自然描写はそれほどでないのだが、痴情と融和したところに、京の山水でも風物でも生きて来るのである。」
これそのものズバリが、近松秋江という作家だ。
京の芸妓に惚れた主人公は、東京に住みながらも彼女を忘れきれずに文と金を送り続ける。それは、彼女が借金を返したら、彼と一緒になる、という約定のために、送り続けたものだった。しかし、芸妓は返事をあいまいにしながら、男のそばから離れてゆく。男は理由もわからないまま、彼女ほしさの一心で行方を尋ねてゆく。作者近松が、ほんとうに思いつめた遊女へ送金し続けた事実を基にして描いた小説だ。
『「あの、喰ひ付いてやりたいほど好きでたまらない女は、しまひには本当に自分の物になるのか知らん。いつまでこんな不安な悩ましい思ひに責め苛まれてゐなければならぬのであらう。もう何時までもこんな苦しい思ひをさせられてゐないで早く安らかな気持になりたい。」』
描写も何もひっくるめてずっとこれ一本である。悩んでは行動しモメごとを起こしのエンドレス。ただ、最初の30ページほど、女になぜ惚れているのか、どこがすきなのか、そうしたことをつれづれ語りながら過ぎてゆく京都の風景は、主人公を押し付けてくる作者の影が薄くて、京都の空気がもっと濃かったころを覗かせてくれてよい。
主人公はひたすらに「真情」があるのだと彼女に迫る。だがきわめて子供っぽい独占欲と、果たされない約束、相手のことをきちんと見ない自己中心的な懊悩の日々は、どことなくこそばゆくて可笑しい。だが、作者が自身もそれを可笑しみと感じて書いていたかは疑問である。本書には「黒髪」のほか、続編の「狂乱」「霜凍る宵」の二つが収録されているが、「狂乱」以降は「黒髪」の序盤のような描写の面白さではなく、主人公と巻き込まれた人々の、グダグダのテンポを見事に掴み取ったやりとりである。客の域を超えたものを要求する客を、早く厄介払いしようとする遊郭の女たちに、自称「誠心誠意」でぶつかる主人公。なんだかどっかで見かけた気がしないでもない構成だ。
生きたやり取りを忠実に移しあげる点で、近松秋江の腕は冴えている。いっぽうでこれが完全に創作になると、自身で描いた主人公のように、どうしても自分しか見えなくて、結果何も書けなくなる人だったのだろう。風俗と語彙の豊富さが、互いに結びついた時代に救われた作家だ。
で、「黒髪」はどこに?
「おじゃマクラ」(たちいりハルコ作・1992年)で吹っ飛びました。
つい最近まで仕事をしていたことにびっくりです。
ついでに萩尾聖都と同い年でびっくりです。すごいぜたちいりハルコ。
:岩波文庫「黒髪・他二編」1922年 近松秋江作
黒髪を自慢と思い始めたのは、何時頃だろうか。それでも大学に入ってからのような気はする。ストレートの黒は自慢である。京都でつげ櫛を買って調子に乗っていた私の目に止まったのがこのタイトルだった。
解説で正宗白鳥が述べているが、
「…ところが、秋江は痴情小説に独特の妙技を示してゐても、他の種類の作品では、作者自身で持て扱ひかねてゐると云ふ有様なのだ。―中略―たゞの自然描写はそれほどでないのだが、痴情と融和したところに、京の山水でも風物でも生きて来るのである。」
これそのものズバリが、近松秋江という作家だ。
京の芸妓に惚れた主人公は、東京に住みながらも彼女を忘れきれずに文と金を送り続ける。それは、彼女が借金を返したら、彼と一緒になる、という約定のために、送り続けたものだった。しかし、芸妓は返事をあいまいにしながら、男のそばから離れてゆく。男は理由もわからないまま、彼女ほしさの一心で行方を尋ねてゆく。作者近松が、ほんとうに思いつめた遊女へ送金し続けた事実を基にして描いた小説だ。
『「あの、喰ひ付いてやりたいほど好きでたまらない女は、しまひには本当に自分の物になるのか知らん。いつまでこんな不安な悩ましい思ひに責め苛まれてゐなければならぬのであらう。もう何時までもこんな苦しい思ひをさせられてゐないで早く安らかな気持になりたい。」』
描写も何もひっくるめてずっとこれ一本である。悩んでは行動しモメごとを起こしのエンドレス。ただ、最初の30ページほど、女になぜ惚れているのか、どこがすきなのか、そうしたことをつれづれ語りながら過ぎてゆく京都の風景は、主人公を押し付けてくる作者の影が薄くて、京都の空気がもっと濃かったころを覗かせてくれてよい。
主人公はひたすらに「真情」があるのだと彼女に迫る。だがきわめて子供っぽい独占欲と、果たされない約束、相手のことをきちんと見ない自己中心的な懊悩の日々は、どことなくこそばゆくて可笑しい。だが、作者が自身もそれを可笑しみと感じて書いていたかは疑問である。本書には「黒髪」のほか、続編の「狂乱」「霜凍る宵」の二つが収録されているが、「狂乱」以降は「黒髪」の序盤のような描写の面白さではなく、主人公と巻き込まれた人々の、グダグダのテンポを見事に掴み取ったやりとりである。客の域を超えたものを要求する客を、早く厄介払いしようとする遊郭の女たちに、自称「誠心誠意」でぶつかる主人公。なんだかどっかで見かけた気がしないでもない構成だ。
生きたやり取りを忠実に移しあげる点で、近松秋江の腕は冴えている。いっぽうでこれが完全に創作になると、自身で描いた主人公のように、どうしても自分しか見えなくて、結果何も書けなくなる人だったのだろう。風俗と語彙の豊富さが、互いに結びついた時代に救われた作家だ。
で、「黒髪」はどこに?