先日、「多賀城 焼けた瓦の謎」なる本を読みました。小中学生向けの絵本タイプの版だったので、30分で読み終えました。大体、分かっている内容だったのでちょっとガッカリだったのですが、一つだけ長年の疑問が解決しました。
その疑問とは「戦死した大和側の兵士は埋葬したのか」に付いてです。解答は「川に流した」でした。やっぱりなぁーと思いましたね。
宮城県の利府、七ヶ浜、松島では多くの墳墓が確認されています。縄文時代から続く蝦夷達の墳墓です。蝦夷達は死者を埋葬する文化があったのです。
反対に大和側の戦死者はどの様に埋葬されたのか疑問でした。大和側は蝦夷討伐に5万、10万と言う人数を出兵し、坂上田村麻呂が征夷大将軍として登場するまでに何度となく敗れています。
その都度数千単位の戦死者を出しているのですが、その戦死者達がどうなったのか疑問でした。まさかとは思っていましたが、川に流していたとは。
もしかしたら大和側の兵士は、熟蝦夷や大和朝廷から遠い関東から兵士を募って連れてきた。つまり使い捨て。だから名誉の戦死をしても丁重に埋葬せず川に流していたのかも知れんですね。
戰爭だからといっても埋葬位してやってもいいと思うのですが、大和側の人間は祟には敏感なくせに名もない兵士の死は大して考えもなかったのでしょうか。
田村麻呂は中国系の帰化人だし、蝦夷討伐で兵士を率いてきた主導者の多くは朝鮮系の人間です。その血が死を軽く考えていたのでしょうか。
そこでふと思いました。以前書いた仙台藩が処刑した罪人たちも・・・・・・。
一説によると広瀬川の評定河原で5600人、七北田川の七北田刑場で7600人が処刑されたと言われてます。そして仙台藩は処刑された罪人の供養を許さなかった。処刑された罪人の遺体はどこに行ったのか。
どこかに埋められていると考えていましたが、そのまま川に遺体を流したのではないかと。
結構、処刑された遺体について調べたのですが、全然資料が見つかりません。不思議です。1万人を超える罪人を処刑していて遺体の行方が分からないなんて。
多分、箝口令がひかれたんでしょうけど、噂の一つも出ないところを見ると秘密裏に遺体は川に流したと考えられるのではないでしょうか。
「七北田刑場で処刑された者の血で、七北田川が赤く染まった」と言う話を聞いていました。七北田刑場で処刑された者の血が七北田川に流れるくらい多かったと解釈していました。
昔の川の地形がどうなっていたかは知りませんが、現在の川の地形と七北田刑場の場所まで死刑された者の血がたどり着くとは考えられません。
「七北田川が血で赤く染まった」との記述が正しいのであれば、処刑された遺体を川に流していたとしか考えられないです。
仮にそうだとしたら広瀬川でも七北田川でも釣りなんかしてる場合じゃないです。
さとう宗幸さんも「♪広瀬川~ 流れる岸辺~ 思い出は~ 帰らず~」なんて「青葉城恋歌」を歌っている場合でも無いと思います。「♪遺体が帰らず~」なんですから。
これは罪人であってもちゃんと供養してやらなければならんと思います。仙台の呪いを少しでも軽減するためにも。
そしてまたまたふと浮かびました。奈良県の廣瀬大社には水神・若宇加能売命が祀られています。つまり宇賀神を水神として祀っているのです。つまり広瀬大神は瀬織津姫と考えられます。
広瀬川には瀬織津姫を祀っていた瀧澤神社が現在の亀岡八幡宮に鎮座していた。その瀧澤神社の滝は三居沢不動尊の滝としか考えられない。そしてその滝は広瀬川そばに鎮座し、水を注いでいる。
つまり広瀬川は瀬織津姫の川。瀬織津姫は三途の川の奪衣婆。そうなると広瀬川は三途の川を模しているのではないか。だから処刑した者たちを流していた。
そして七北田川はかつて「冠川」と呼ばれた。志波彦神が白馬に跨り川を渡っていて頭の冠を落としたから冠川と呼ばれた。これは志波彦神が七北田川で殺された。いやいや「志波彦神を信仰していた者達が首を討たれて殺された。冠川に流した」となるのでは。
その殺された者たちはモレの一族ではないかと思うのですが、この件に付きましては大変長くなりますので亦の機会に。
ではでは。
その疑問とは「戦死した大和側の兵士は埋葬したのか」に付いてです。解答は「川に流した」でした。やっぱりなぁーと思いましたね。
宮城県の利府、七ヶ浜、松島では多くの墳墓が確認されています。縄文時代から続く蝦夷達の墳墓です。蝦夷達は死者を埋葬する文化があったのです。
反対に大和側の戦死者はどの様に埋葬されたのか疑問でした。大和側は蝦夷討伐に5万、10万と言う人数を出兵し、坂上田村麻呂が征夷大将軍として登場するまでに何度となく敗れています。
その都度数千単位の戦死者を出しているのですが、その戦死者達がどうなったのか疑問でした。まさかとは思っていましたが、川に流していたとは。
もしかしたら大和側の兵士は、熟蝦夷や大和朝廷から遠い関東から兵士を募って連れてきた。つまり使い捨て。だから名誉の戦死をしても丁重に埋葬せず川に流していたのかも知れんですね。
戰爭だからといっても埋葬位してやってもいいと思うのですが、大和側の人間は祟には敏感なくせに名もない兵士の死は大して考えもなかったのでしょうか。
田村麻呂は中国系の帰化人だし、蝦夷討伐で兵士を率いてきた主導者の多くは朝鮮系の人間です。その血が死を軽く考えていたのでしょうか。
そこでふと思いました。以前書いた仙台藩が処刑した罪人たちも・・・・・・。
一説によると広瀬川の評定河原で5600人、七北田川の七北田刑場で7600人が処刑されたと言われてます。そして仙台藩は処刑された罪人の供養を許さなかった。処刑された罪人の遺体はどこに行ったのか。
どこかに埋められていると考えていましたが、そのまま川に遺体を流したのではないかと。
結構、処刑された遺体について調べたのですが、全然資料が見つかりません。不思議です。1万人を超える罪人を処刑していて遺体の行方が分からないなんて。
多分、箝口令がひかれたんでしょうけど、噂の一つも出ないところを見ると秘密裏に遺体は川に流したと考えられるのではないでしょうか。
「七北田刑場で処刑された者の血で、七北田川が赤く染まった」と言う話を聞いていました。七北田刑場で処刑された者の血が七北田川に流れるくらい多かったと解釈していました。
昔の川の地形がどうなっていたかは知りませんが、現在の川の地形と七北田刑場の場所まで死刑された者の血がたどり着くとは考えられません。
「七北田川が血で赤く染まった」との記述が正しいのであれば、処刑された遺体を川に流していたとしか考えられないです。
仮にそうだとしたら広瀬川でも七北田川でも釣りなんかしてる場合じゃないです。
さとう宗幸さんも「♪広瀬川~ 流れる岸辺~ 思い出は~ 帰らず~」なんて「青葉城恋歌」を歌っている場合でも無いと思います。「♪遺体が帰らず~」なんですから。
これは罪人であってもちゃんと供養してやらなければならんと思います。仙台の呪いを少しでも軽減するためにも。
そしてまたまたふと浮かびました。奈良県の廣瀬大社には水神・若宇加能売命が祀られています。つまり宇賀神を水神として祀っているのです。つまり広瀬大神は瀬織津姫と考えられます。
広瀬川には瀬織津姫を祀っていた瀧澤神社が現在の亀岡八幡宮に鎮座していた。その瀧澤神社の滝は三居沢不動尊の滝としか考えられない。そしてその滝は広瀬川そばに鎮座し、水を注いでいる。
つまり広瀬川は瀬織津姫の川。瀬織津姫は三途の川の奪衣婆。そうなると広瀬川は三途の川を模しているのではないか。だから処刑した者たちを流していた。
そして七北田川はかつて「冠川」と呼ばれた。志波彦神が白馬に跨り川を渡っていて頭の冠を落としたから冠川と呼ばれた。これは志波彦神が七北田川で殺された。いやいや「志波彦神を信仰していた者達が首を討たれて殺された。冠川に流した」となるのでは。
その殺された者たちはモレの一族ではないかと思うのですが、この件に付きましては大変長くなりますので亦の機会に。
ではでは。