諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

熊野の本地、五衰殿。 その12

2015年05月31日 00時21分15秒 | 神道

別名・十二所権現と呼ばれる熊野の本地にちなんで、今回のお題「熊野の本地、五衰殿。その12」で、何とかこのシリーズを終わらせたいと思いながら続きます。

以上、長々と五衰殿のストーリーを書いてきましたが、気がつきましたでしょうか。この話がイエス・キリストのストーリーにも酷似しているのを。

聖母マリヤがイエスを宿した(カトリックではマリアですが、私はプロテスタントの学校に通っていたのでマリヤで統一します)。

しかし、マリヤの夫であるヨセフには身に覚えがない。ヨセフは最初、マリヤの不義密通を疑ったが、お腹の子を神の子であると認識した。マリヤはイエスを馬小屋で産んだ(イエスの誕生を迫害する者がいたので)。

イエスは成長し病人を霊的な力で治癒した。それに嫉妬したユダヤ教のラビ達(ラビもイエス同様、心霊的な力で人々の病気を治癒していた)が、安息日を守らなかったと因縁をつけ、イエスを捉え死刑を宣告した。

イエスは自分が掛けられる十字架を背負って、処刑場であるゴルゴダの丘を何度も転びながら歩かされた。

そしてイエスは十字架に付けられ、次なる言葉を発します。

1.処刑人に対し、「父よ、彼らを許してください」。

2.一緒に処刑される罪人に対し、「貴方は私と共に天国にいます」。

3.母マリヤと弟子のヨハネに対し、「ここに貴方の子がいます。ここに貴方の母が」。

4.神に対し、「我が神、どうして私を見捨てられたのか」。

5.聖書を成就する為に、「私は乾いている」と言って葡萄酒を欲する。

6.贖罪を完成させる為に葡萄酒を受け取って、「終わった」。

7.再度神に対し、「父よ、私の霊を貴方の手に任せます」。

以上、7つの言葉を発しイエスは処刑され死亡。そして一緒に処刑された死者の中から、イエスがただ一人蘇ります。

どうですか、五衰殿のストーリーに似ているでしょ。

五衰殿は999人の先妻から嫉妬され無実の罪を掛けられた。

処刑場である鬼谷山の鬼持ヶ谷に裸足で血だらけになり8日間歩かされた。

処刑に際し「うけひ」を行った(イエスの7つの言葉もうけひと言える)。

首を切られ処刑された。

首と胴体がくっ付いて??蘇った。

それだけではないです。イエスは馬小屋で産まれましたが、五衰殿は首を馬小屋の板床の下に埋められたのです。イエスは馬小屋で産まれ、五衰殿は首を埋められた。正反対ではありますが、馬小屋が共通点となるのです。

ここまで来ると五衰殿は女性版和製??イエス・キリストと言えるのではないでしょうか。

熊野権現である五衰殿が瀬織津姫であるとした場合、瀬織津姫はスピリチュアル的な考えでマグダラのマリアとする話がありますが、私は「五衰殿=瀬織津姫=イエス・キリスト」のように思えます。

この五衰殿の話は神道の仏教的解釈と言えます。私、思うのですよ。仏教にはキリスト教が影に隠れているのではないかと。

現に仏教を広めた聖徳太子の本名は厩戸皇子です。馬小屋の前で産まれたからその名が付けられたのです。イエス・キリストの誕生と殆ど一緒です。

聖徳太子の存在は疑問視されていますが、聖徳太子も和製イエス・キリストとしてデコレーションされていると思われます。

一番古い福音書である新約聖書の「マルコによる福音書」ではイエスのストーリーは、「バクテスマのヨハネの弟子の大工のイエスが、役人に処刑された。泣き女がイエスの遺体に香油をつけてやろうと、遺体が安置されている洞穴??に行ったら、イエスの遺体だけが無くなっていた。不思議だねぇー」的な話でした。

それが「マルコによる福音書」から約20年後に書かれたマタイ、ルカ、ヨハネの福音書では、ゴルゴダの丘に十字架を背負ってイエスが歩かされた事。処刑人や罪人の名前まで記載され、復活した姿まで書かれている。そして泣き女はマグダラのマリヤとなっている。これらの点、私はどうしてもイエスの話は信仰を集める為の物語であるとしか思えません。

聖書の源流はハムラビ法典とされています。その流れからギリシャ神話のアドニスとアフロデイーテの話。バール神話のバールとアナトの話が生まれた。

そして当時、一番信仰を集めていた医神・アスクレビオスに対抗する為にアドニスとバールをモデルとして治癒神・イエスキリストを誕生させたと思えるのです。

五衰殿にもモデルはいると思います。其れは日本の神、もしくは人です。その神、人らをモデルとして、仏教の神でもあるとして信仰を広めようとしたのではないかと私は思います。

その五衰殿のモデルですが、神であるならアラハバキ神。人であるなら「禊の女」、「水の女」と呼ばれ、川で祓い清めの仕事をしていた女性のシャーマンになると思います。

そのどちらが正しいのかは誰にも言えませんが、五衰殿の話は祓い清めの真髄を示しているのは間違いないです。その真髄とは「神は人の罪を代わりに背負ってくれる」事です。

それと鬼渡神に因縁を感じる私にとって一番大事な事ですが、五衰殿の本地は千手観音です。そして鬼渡神の本地は、大いなる悲しみから救ってもらえる大悲十一面千手観音であります。

私は五衰殿を鬼渡神だと考えています。鬼谷山の鬼持ヶ谷で処刑され蘇った点が「鬼渡」を意味するからです。

ここで問題なのですが、瀬織津姫は本当に十一面観音とされるのでしょうか。

熊野権現で考えた場合、十一面観音は王子です。女神では有りません。結である那智に祀られていのは五衰殿である千手観音。那智に瀬織津姫が祀られているのであれば、瀬織津姫の本地は千手観音でなければおかしい。何で瀬織津姫が王子である筈の十一面観音なのでしょう。間違っているのではないだろうか。

まさかとは思いますが、12万体の神仏を彫った円空が瀬織津姫として千手観音を彫るべきところ、千本の腕を彫るのは余りにも困難として腕を省略し、十一面観音を瀬織津姫にしてしまったのではないのかと思えます。

千手観音は正式には十一面千手観音だから、十一面観音である事は間違いないし・・・・・・っとか円空が都合よく解釈しちゃったりして・・・・・・・・・・。

うーん、まさか・・・・・・・・・・。

えー、この話、難しいです。もっと練りあがったらまた書きたいと思いますが、今回は精一杯な所まで来ましたので、ここで終わりたいと思います。

とーも、済みません。

 

ではでは。

 

 

 

コメント (2)
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