先日、「古代筑波の謎 矢作幸雄著 学生社」と言う本を読みました。内容は簡単に言いまして、鹿島・筑波から東北は、元々天照大神の住まう高天原だったと言うものです。
普通の人には荒唐無稽な話だと思うでしょうが、この著者は茨城県鹿島町生まれで長年鹿島神宮の禰宜、筑波山神社の宮司、筑波大学院非常勤講師を勤められている方で、あながち際物と言う人物ではないです。否否、立派な人なんです。
ホツマツタエでは高天原は仙台市となっています。考古学から語りますれば4000年前の縄文時代では、東北6県で縄文人は約5万人程住んでいた。そのうち宮城県は一番多く15000人いた。勿論、日本で一番人口が集中していた訳ですので、嘘とは断言出来ないと思います。
では何で縄文人の人口が減ったか。単純に答えますれば東北だけでは狩猟オンリーで5万人分の食料が供給できない。そこで縄文人は稲に注目した。稲なら日本で1億人分の食料が作れる。しかし東北は寒冷地。稲が上手く育たない。それで南下して行ったと言うのです。うーん、一理あります。
縄文時代に稲が有ったのかと言いますと、これが有ったんです。勿論、当時は稲作技術なんて有りません。灌漑農業では無く、そのまま陸地で栽培していた。しかし稲は熱帯種。寒冷地では育ちにくい。だから稲作をするために温暖な西に下って行ったと言うのが真相です。これは亦の機会に書きたいと思います。
さて、それでは金色姫伝説です。時は第二十一代雄略天皇の時代、天竺の旧仲国の大王と后との娘で光り輝く美しさの金色姫がいた。暫くして后は亡くなり、大王は後妻を貰う事に。
嫁いだ後妻は金色姫のあまりの美しさから嫉妬をおぼえ殺害を決。家来に命じ金色姫を獅子のいる山に置き去りにさせた。しかし金色姫はその獅子の背に乗って帰って来た。
次に後妻は鷹の住む山に金色姫置き去りにした。それでも金色姫はなんとか戻って来た。激怒した後妻は城内の中庭に金色姫を生き埋めにする。大王かいなくなった金色姫を思い大いに悲しんだが、庭中に光る場所を発見。掘り起こしてみたら金色姫がヘロヘロになりながらも出てきた。
大王は全て後妻の仕業だった事を知り、後妻から金色姫の身を守る為に桑の木で船を造り、海に流した。その船が巡り巡って筑波の豊の浦に漂着。漁師夫婦が弱っている金色姫を助け家に連れて帰って看病するも、暫くして金色姫が死亡。漁師夫婦は金色姫の亡骸を棺桶に入れて大いに悲しんだ。
そしてその夜、金色姫が漁師の夢の中に現れ、「お腹が減った。何か食べ物をください。お礼は必ずします」と。
驚いた漁師は金色姫の亡骸を棺桶を恐る恐る開けてみた。そこには既に亡骸は水に溶けてしまい、変な虫だらけになっていた。
漁師は桑の木の船に金色姫が乗って来たのを思い出し、その虫たちに桑の葉を与える。虫は桑の葉を喜んで食べた。しかし虫は暫くして桑の葉を食べなくなり、頭だけを動かしている。
そしたらその夜、またまた金色姫が漁師の夢の中に現れ、「天竺で色々と苦労して疲れました。少し休みますので心配しないで」と。その後、虫たちは繭を作り出した。
虫たちが繭を作り終えると、今度は筑波の神が現れ、繭から糸の作り方を教えた。これが日本で始めての養蚕の始まりとされ、金色姫の御霊を祀るようになった。
目出度し、目出度し。
続く。