前にも書きましたが、私のブログへ「瀬織津姫 マグダラのマリア」で検索して辿り着いている方がまだまだ多いようです。有名なY氏の瀬織津姫の著書を読んで来ているのかもなぁーとも思います。
以前、私は「瀬織津姫はマグダラのマリアではなく、イエス・キリストなのでは」と題して記事を書きましたが、これは熊野権現である五衰殿のストーリーが余りにもイエス・キリストと似ているからです(詳しくは私の過去の記事を読んでください)。
瀬織津姫と考えられる熊野権現は、日本の神道とインドの仏教が交じり合っています。いわゆる神仏習合です。
私、仏教にはキリスト教のエッセンスが入って日本に伝来したと考えていますが、イエス・キリストやマグダラのマリアが神道の瀬織津姫だとはこれっぼっちも思っていません。
第一、キリスト教では蛇は悪魔。日本の地主神は蛇。瀬織津姫を祀る速川神社では蛇を瀬織津姫の眷属としている。
自然信仰である神道では山神や水神は蛇神。蛇神でもある瀬織津姫がイエス・キリストやマグダラのマリアで有る訳がない。
キリスト教で考えれば蛇神の瀬織津姫は悪魔そのもの。瀬織津姫がマグダラのマリアであるなら、マグダラのマリアは悪魔となります。
この位の事は神道やキリスト教について多少の知識が有るなら単純且つ簡潔な常識。疑問にも感じないと思います。
私、中学から大学までプロテスタントの学校に通いキリスト教に付いても好きで学んでいましたが、キリスト教は「神>人間>自然」の考えです。「自然=神>人間」の考えである神道とは根本から違います。
キリスト教で考えれば神道の女神である瀬織津姫は人間以下の存在になってしまう。これは日本では有り得ない。
しかしです。タブーを申し上げるとイエス・キリストとマグダラのマリアにはモデルが存在します。
そのモデルはエルサレムの地下に眠る医療神・アスクレピオス。ギリシャ神話のアドニスとアフロディーテ。そしてウガリット神話のバールとその妹であり妻でもあるアナト。多くのキリスト教研究者はこの結論に達してしまいます。私もそう考えています。
この点で神道と共通するのは「死んだのに生き返った、復活した奇跡」でしよう。
大国主が兄達に騙され猪によって殺された。ギリシャ神話のアドニスも猪によって殺された。バールも弟に殺された。イエスも十字架で処刑された。しかしながら母や愛する女性達によって復活している。アスクレピオスの場合は外科手術で死者をも生き返す。
だからスピリチュアルな人たちはキリストと大国主は同じ。瀬織津姫はマグダラのマリアだと安易に考えるのかも知れません。
ここで冷静に考えてみてください。人が一番望んでいる奇跡は死んだ者が蘇る事です。これは人間なら全世界の人間誰しもだと言える。人類共通の願いです。
そして復活にはもう一つの意味がある。それは穀物です。上記の神々は穀物神でもあるのです。
例えば大国主。大国主は大黒様であると言われてますが、大黒様は米俵の上に立っている。イエスキリストの場合は、「このパンは自分の肉、ワインは自分の血だ」と弟子たちに語っている。
死んで生き返るのは穀物の特徴。その考えはキリスト教にも神道にも流れている。
ユダヤ教の旧約聖書で「カインとアベル」の二人の双子の兄弟の話があります。共にアダムとイブの子供です。
カインはヘブライ語で「鍛冶」、アベルは「息」の意味です。カインは農業、アベルは羊の放牧で暮らしていました。
そしてカインは農作物、アベルは初子の羊の子供を絶対神ヤハウェに捧げた。
ヤハウェはカインの農作物には目をくれず、アベルが捧げた羊を大変喜んだ。
それでカインはアベルに嫉妬してアベルを殺害。
カインはアベルの行方をヤハウェに問い詰められても白を切り通した。人類初の嘘を神についた。その罪でエデンの東の地・ノドに追放され、アベルは流離の罪を受けた。
これは旧約聖書のヤハウェは狩猟神の性格、新約聖書のイエスキリストは農耕神の性格が感じられます。
死んで生き返るのは農耕を意味します。農作物は収穫で死んでもまた蘇るので。
カインが「鍛冶」の意味なのは鍬で耕して何度でも農作物を作るから。アベルが「息」の意味なのは、息する獲物は殺したらお終いの意味もある。
旧約聖書は縄文文化、新約聖書は弥生文化の様な違いが有ります。シンクロニシティ的に世界中で狩猟から農耕へシフトした。人口が増えれば狩猟のみでは生きていけない。それは全国共通。だからキリスト教と神道は同じとはなりません。人口が増えれば農作物を作らなければ人間は生きて行けませんので。
農作物を食べた事が有るなら穀物の有難みを誰だって感じる。穀物を与えてくれる神の存在を意識する。それが世界中で信仰として発生した。
西洋ではキリスト教、日本では神道。それは奇跡ではありません。何度も言いますがね人口が増えたら農耕にシフトしなければ暮らしていけない。世界中がそうです。それだけの話です。
話を戻しますが、キリスト教から見れば異教徒の神々は悪魔です。極論、皮肉な事に悪魔をモデルにイエスやマグダラのマリアが創造された。
それなのに異教の神々は悪魔とした。悪魔は倒すべき存在。それがキリスト教の絶対的な戒律です。
そしてその戒律が理由で、キリスト教は2~3世紀にローマのコンチタンティヌス帝に宗教として選ばれて信仰される様になった。
コンチタンティヌス帝にキリスト教が選ばれた理由は、権力の維持、民衆の抑制と規制。そして統治するのに都合が良いから。厳しい戒律がそれを容易にする。戦争も正当化出来る。全てにおいて都合が良い。
イエスの最大のライバルであった医療神・アスクレピオスは杖をついており、大蛇を身体に巻き付かせています。だから杖に蛇がとぐろを巻いているマークがアスクレビオスの象徴となっている。つまりアスクレピオスは蛇神であり悪魔。
その悪魔であり医療神であるアスクレビオスに、心霊治癒の神であるイエス・キリストが人気で勝った。正式にはコンチタンティヌス帝に選ばれた。
医療の神では奇跡の力は弱い。病気ではない者の信仰は集められない。心霊的に治癒させるイエスの方が分かりやすく信仰を集められる。
更に聖書において著者の気持ちで考えると、初期に書かれたマルコによる福音書から二十数年後に書かれたマタイ、ルカ、ヨハネの福音書を見ると、イエス・キリストへのデコレーションが数多く見られる。美化と矛盾ばかが目立つ。それで本当にイエスが存在していたのか疑問を感じる。
キリスト教を学問として学ぶとキリスト教から離れると言われていますが、結果的にキリスト教は戦争兵器としても利用されている。人を殺す理由付けにされる。
以上の理由からはっきりとした主張があるキリスト教と曖昧な解釈である神道は違う。
瀬織津姫はマグダラのマリアの訳が無いと私は断言しているのですが、キリスト教と神道は同じ考え方の宗教であるのは認めています。イエス・キリストも神道の神々も人間の罪を背負う存在。受代苦ですので。
違う点はイエス・キリストは無実なのに罪を背負わされるのに対し、神道の神々は実際に罪を犯したり、罪の疑いが濃厚で罪を背負っている点です。
例えば素戔嗚尊。高天原の田圃を破壊し、宮殿でウンコをし、斑馬を残酷にも尻から皮を剥いで殺し、機織の女神である稚日女尊に投げつけて自殺に追い込んでいる。この罪により爪を剥がれ髭を抜かれ高天原を追放され、流離の苦しみを体験した。
これは人間がしでかすであろう罪を素戔嗚尊が実行し、その罰を素戔嗚尊が直接受ける。人間に代わって罪を犯して罰を受ける。人間に対し罪と罰を身を持って教えている。
それ故に神道の神々は善でもあり悪でもある。それは人間が善と悪の部分があるから。人は生きる為に罪を犯す存在であるから。
その罪を素戔嗚尊や神道の神々に背負ってもらう。だからこそ神道の神々は有難い存在なのだと言えます。
言っている事、分かりますかね。まっ、キリスト教と神道は似ている。それは確かだと言う事です。
だからと言って全く同じじゃないですよ。瀬織津姫や素戔嗚尊はマグダラのマリアでもイエス・キリストでもありません。特に瀬織津姫は日本出身の神ですので。
自然は人間より下。蛇は悪魔と考えるキリスト教。それとは全く逆に「自然=蛇」そして神と考える日本の神道。この違いが根本にある以上、全く違う宗教であると断言できます。これを覆す考えは有り得ないです。
っと言う事で私は自然や神道の神々に対し恐れおののく気持ちもありつつ、深い感謝を感じています。怖いし有難い。それが日本の神々の特徴です。
長々と書いていて新たな情報を入れたりで、文章がシドロモドロになってしまいました。タイトルとも逸脱している。もうこの辺にしときます。
一つ言いたいのは奇跡の大半には原因がある事。人間は人種が違えど空腹にもなるし、心細くもなる。怒りも感じる。大して違いはないのです。
何でも奇跡と考えて自分が正しいと思い込み、人を攻撃する愚行だけは犯して欲しく無い。昔の戦争を引き起こした人間の様に。
その人間こそが神の名を語る悪魔だと思いますので。
ではでは。
以前、私は「瀬織津姫はマグダラのマリアではなく、イエス・キリストなのでは」と題して記事を書きましたが、これは熊野権現である五衰殿のストーリーが余りにもイエス・キリストと似ているからです(詳しくは私の過去の記事を読んでください)。
瀬織津姫と考えられる熊野権現は、日本の神道とインドの仏教が交じり合っています。いわゆる神仏習合です。
私、仏教にはキリスト教のエッセンスが入って日本に伝来したと考えていますが、イエス・キリストやマグダラのマリアが神道の瀬織津姫だとはこれっぼっちも思っていません。
第一、キリスト教では蛇は悪魔。日本の地主神は蛇。瀬織津姫を祀る速川神社では蛇を瀬織津姫の眷属としている。
自然信仰である神道では山神や水神は蛇神。蛇神でもある瀬織津姫がイエス・キリストやマグダラのマリアで有る訳がない。
キリスト教で考えれば蛇神の瀬織津姫は悪魔そのもの。瀬織津姫がマグダラのマリアであるなら、マグダラのマリアは悪魔となります。
この位の事は神道やキリスト教について多少の知識が有るなら単純且つ簡潔な常識。疑問にも感じないと思います。
私、中学から大学までプロテスタントの学校に通いキリスト教に付いても好きで学んでいましたが、キリスト教は「神>人間>自然」の考えです。「自然=神>人間」の考えである神道とは根本から違います。
キリスト教で考えれば神道の女神である瀬織津姫は人間以下の存在になってしまう。これは日本では有り得ない。
しかしです。タブーを申し上げるとイエス・キリストとマグダラのマリアにはモデルが存在します。
そのモデルはエルサレムの地下に眠る医療神・アスクレピオス。ギリシャ神話のアドニスとアフロディーテ。そしてウガリット神話のバールとその妹であり妻でもあるアナト。多くのキリスト教研究者はこの結論に達してしまいます。私もそう考えています。
この点で神道と共通するのは「死んだのに生き返った、復活した奇跡」でしよう。
大国主が兄達に騙され猪によって殺された。ギリシャ神話のアドニスも猪によって殺された。バールも弟に殺された。イエスも十字架で処刑された。しかしながら母や愛する女性達によって復活している。アスクレピオスの場合は外科手術で死者をも生き返す。
だからスピリチュアルな人たちはキリストと大国主は同じ。瀬織津姫はマグダラのマリアだと安易に考えるのかも知れません。
ここで冷静に考えてみてください。人が一番望んでいる奇跡は死んだ者が蘇る事です。これは人間なら全世界の人間誰しもだと言える。人類共通の願いです。
そして復活にはもう一つの意味がある。それは穀物です。上記の神々は穀物神でもあるのです。
例えば大国主。大国主は大黒様であると言われてますが、大黒様は米俵の上に立っている。イエスキリストの場合は、「このパンは自分の肉、ワインは自分の血だ」と弟子たちに語っている。
死んで生き返るのは穀物の特徴。その考えはキリスト教にも神道にも流れている。
ユダヤ教の旧約聖書で「カインとアベル」の二人の双子の兄弟の話があります。共にアダムとイブの子供です。
カインはヘブライ語で「鍛冶」、アベルは「息」の意味です。カインは農業、アベルは羊の放牧で暮らしていました。
そしてカインは農作物、アベルは初子の羊の子供を絶対神ヤハウェに捧げた。
ヤハウェはカインの農作物には目をくれず、アベルが捧げた羊を大変喜んだ。
それでカインはアベルに嫉妬してアベルを殺害。
カインはアベルの行方をヤハウェに問い詰められても白を切り通した。人類初の嘘を神についた。その罪でエデンの東の地・ノドに追放され、アベルは流離の罪を受けた。
これは旧約聖書のヤハウェは狩猟神の性格、新約聖書のイエスキリストは農耕神の性格が感じられます。
死んで生き返るのは農耕を意味します。農作物は収穫で死んでもまた蘇るので。
カインが「鍛冶」の意味なのは鍬で耕して何度でも農作物を作るから。アベルが「息」の意味なのは、息する獲物は殺したらお終いの意味もある。
旧約聖書は縄文文化、新約聖書は弥生文化の様な違いが有ります。シンクロニシティ的に世界中で狩猟から農耕へシフトした。人口が増えれば狩猟のみでは生きていけない。それは全国共通。だからキリスト教と神道は同じとはなりません。人口が増えれば農作物を作らなければ人間は生きて行けませんので。
農作物を食べた事が有るなら穀物の有難みを誰だって感じる。穀物を与えてくれる神の存在を意識する。それが世界中で信仰として発生した。
西洋ではキリスト教、日本では神道。それは奇跡ではありません。何度も言いますがね人口が増えたら農耕にシフトしなければ暮らしていけない。世界中がそうです。それだけの話です。
話を戻しますが、キリスト教から見れば異教徒の神々は悪魔です。極論、皮肉な事に悪魔をモデルにイエスやマグダラのマリアが創造された。
それなのに異教の神々は悪魔とした。悪魔は倒すべき存在。それがキリスト教の絶対的な戒律です。
そしてその戒律が理由で、キリスト教は2~3世紀にローマのコンチタンティヌス帝に宗教として選ばれて信仰される様になった。
コンチタンティヌス帝にキリスト教が選ばれた理由は、権力の維持、民衆の抑制と規制。そして統治するのに都合が良いから。厳しい戒律がそれを容易にする。戦争も正当化出来る。全てにおいて都合が良い。
イエスの最大のライバルであった医療神・アスクレピオスは杖をついており、大蛇を身体に巻き付かせています。だから杖に蛇がとぐろを巻いているマークがアスクレビオスの象徴となっている。つまりアスクレピオスは蛇神であり悪魔。
その悪魔であり医療神であるアスクレビオスに、心霊治癒の神であるイエス・キリストが人気で勝った。正式にはコンチタンティヌス帝に選ばれた。
医療の神では奇跡の力は弱い。病気ではない者の信仰は集められない。心霊的に治癒させるイエスの方が分かりやすく信仰を集められる。
更に聖書において著者の気持ちで考えると、初期に書かれたマルコによる福音書から二十数年後に書かれたマタイ、ルカ、ヨハネの福音書を見ると、イエス・キリストへのデコレーションが数多く見られる。美化と矛盾ばかが目立つ。それで本当にイエスが存在していたのか疑問を感じる。
キリスト教を学問として学ぶとキリスト教から離れると言われていますが、結果的にキリスト教は戦争兵器としても利用されている。人を殺す理由付けにされる。
以上の理由からはっきりとした主張があるキリスト教と曖昧な解釈である神道は違う。
瀬織津姫はマグダラのマリアの訳が無いと私は断言しているのですが、キリスト教と神道は同じ考え方の宗教であるのは認めています。イエス・キリストも神道の神々も人間の罪を背負う存在。受代苦ですので。
違う点はイエス・キリストは無実なのに罪を背負わされるのに対し、神道の神々は実際に罪を犯したり、罪の疑いが濃厚で罪を背負っている点です。
例えば素戔嗚尊。高天原の田圃を破壊し、宮殿でウンコをし、斑馬を残酷にも尻から皮を剥いで殺し、機織の女神である稚日女尊に投げつけて自殺に追い込んでいる。この罪により爪を剥がれ髭を抜かれ高天原を追放され、流離の苦しみを体験した。
これは人間がしでかすであろう罪を素戔嗚尊が実行し、その罰を素戔嗚尊が直接受ける。人間に代わって罪を犯して罰を受ける。人間に対し罪と罰を身を持って教えている。
それ故に神道の神々は善でもあり悪でもある。それは人間が善と悪の部分があるから。人は生きる為に罪を犯す存在であるから。
その罪を素戔嗚尊や神道の神々に背負ってもらう。だからこそ神道の神々は有難い存在なのだと言えます。
言っている事、分かりますかね。まっ、キリスト教と神道は似ている。それは確かだと言う事です。
だからと言って全く同じじゃないですよ。瀬織津姫や素戔嗚尊はマグダラのマリアでもイエス・キリストでもありません。特に瀬織津姫は日本出身の神ですので。
自然は人間より下。蛇は悪魔と考えるキリスト教。それとは全く逆に「自然=蛇」そして神と考える日本の神道。この違いが根本にある以上、全く違う宗教であると断言できます。これを覆す考えは有り得ないです。
っと言う事で私は自然や神道の神々に対し恐れおののく気持ちもありつつ、深い感謝を感じています。怖いし有難い。それが日本の神々の特徴です。
長々と書いていて新たな情報を入れたりで、文章がシドロモドロになってしまいました。タイトルとも逸脱している。もうこの辺にしときます。
一つ言いたいのは奇跡の大半には原因がある事。人間は人種が違えど空腹にもなるし、心細くもなる。怒りも感じる。大して違いはないのです。
何でも奇跡と考えて自分が正しいと思い込み、人を攻撃する愚行だけは犯して欲しく無い。昔の戦争を引き起こした人間の様に。
その人間こそが神の名を語る悪魔だと思いますので。
ではでは。