諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

永井直勝の信仰。その2

2017年10月28日 09時07分55秒 | 永井直勝
続きます。


永井直勝は13~14歳の頃、祭りで太鼓を叩いて踊っていたら、当時17歳頃の徳川家康の長男・松平信康に召し抱えられる。見事な撥さばきと美少年ぶりで目に留まった模様。信康の小姓を務める。

その後、信康は武田側に内通していた理由により21歳で切腹。信康の側近は粛清。または殉死。直勝は地元の大浜に蟄居。その一年後に家康の小姓に迎えられる。理由は謎。

そして小牧長久手の戦い。永井直勝は敵将・池田恒興を討つ。左手の人差し指を落としながらも。

直勝は出家していた恒興を討った事に恐怖を覚え、屋敷の庭に池田恒興の首をご神体とした池田神社を建立。寝所には恒興の鎧を置いて家の守り神としています。

これが神道の一つの考え方です。自分が殺した者を神として迎える。祟られない為に。

直勝の家系が熊野神社の神職を務めていたのも、天穂日命の家系である出雲国造が出雲大社の神職を務めているのも祟りを恐れての事だと思います。

永井直勝はそれだけではありません。神奈川県に領地を賜り、その地の領主に直勝の弟・永井白元据えて、12社の鯖系の神社を一族で建立した。

その「鯖」とは何か。

1人は直勝の10代前の血筋である長田忠敬が卑怯にも風呂場で討った源氏の棟梁であり頼朝・義経の父である源義朝。源義朝は左馬頭であったことから佐馬神社。それが鯖神社となった。

そしてもう1人。出雲の地主神である者を示していると考えられる。それは幸姫。

神奈川県は足柄明神が鎮座する足柄山がある。足柄明神は金太郎を育てた山姥。その山姥が幸姫であるとしたら佐婆。つまり佐婆神社。

殆ど洒落になってしまうが、左馬頭の源義朝と合わせて幸姫を一緒に祀った可能性が高いと思われる。どちらも永井直勝の血筋が殺したと言えるので。

スピリチュアルな方たちは瀬織津姫を若く美しい女神と捉えている様です。でも瀬織津姫は奪衣婆のモデル。私は老婆のイメージです。つまり佐婆は瀬織津姫。

その証拠になるかは分かりませんが、瀬織津姫を祀る東京の日比谷神社は江戸時代に鯖稲荷と呼ばれていた。今回は鯖神について多くは語りませんが、「鯖=瀬織津姫」の一つの証明になると思います。


永井直勝に戻ります。永井直勝は晩年、もう一人の神を誕生させる。徳川家康を東照大権現として日光東照宮を造営する現場監督を務めたのです。

それは南光坊天海の天台宗と並んで直勝の神道の知識が用いられたからだと考えます。家康を薬師如来とし、妙見信仰を合わせて揺ぎ無い神として祀ったと思えるのです。

以上が私が考える永井直勝の信仰です。

でも本心では徳川家康を神として祀るのは反対だったと思います。直勝は神道に精通しています。英雄である家康を神として祀る事のうしろめたさを感じていたと思うのです。

東照大権現として祀ったのだから神仏として祀った。直勝の神道の考えと天海の仏教の教えとが合わさったと言えるのでしようが、複雑だったと思えます。家康は祟りを起こす存在ではないでしょうし。

しかし、戦を終わらせ平安な世の中を続かせるために家康を神にした。神道の徒であった直勝にとっては苦渋の決断。神道の徒として直勝は大罪を犯した。

永井直勝は幸運を掴み出世したと人は言いますが、とんでもない。苦難の人生だった。直勝は大名になった喜びよりも神道の考えを曲げてしまった罪。そして人を殺してしまった罪に慄いていたと思えてなりません。

以上です。実は最後に永井直勝の家訓で終わらせたいと思っていたのですが、ド忘れちゃいました。

思い出したらまた違うお題で書きたいと思います。すいません。


ではでは。







コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする