諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

塩竃の志波彦神が阿須波神であるとする理由。その2

2024年09月06日 14時13分51秒 | 神道
続きです。

さて、「志波彦神が阿須波神である」と発言したのは、私ではありません。大日本地名辞書を編纂した吉田東伍です。明治大正時代の人です。

何故、志波彦神が阿須波神なのか。もしかしたら大日本地名辞書に記載されているかも知れませんが、私は確認していません。大変、高額な本なので。

っと言う事て、ここからは私の想像を申し上げます。

多分、吉田東伍は地名からそう結論付けたのだと推測しますが、私は蝦夷の信仰と因縁の鬼渡神の知識からお話しします。

先ず、志波彦神社に隣接している塩竃神社には、塩土老翁の他に鹿島神・建雷命と香取神・経津主が祀られています。共に天津神の武神です。

塩竃は蝦夷の地です。それなのに鹿島神・香取神の二大武神が塩竃神社に祀られている。

私、その理由は「怨霊には武神、仏教、乱暴者」の考えが流れていると考えます。

つまり、真の塩竃神は蝦夷の神である。敵の神は国津神であり怨霊である。

そう考えた朝廷側は自身の祖神である天津神の武神、鹿島神と香取神を配神として塩竃神社に祀った。

天津神最強の武神を二神も祀っている。それだけ本来の地主神である塩竃神は、朝廷側から恐れられていたと思われます。

話を縄文時代に変えます。

縄文時代は1万年続いたと言われていますが、考古学的に縄文時代で一番栄えた地域は北関東。今の千葉県と茨城県の海沿いです。圧倒的な古墳が発掘されています。勿論、蝦夷の土地です。

因みに茨城県の「茨城」は、蝦夷である佐伯氏の城から来ています。

そして蝦夷も自分達の神を信仰していた。その信仰の場所は鹿島神宮と香取神宮と考えて良いでしょう。

しかし、鹿島神・建雷命、香取神・経津主命は朝廷側の天津神である。これは有り得ません。蝦夷が朝廷側の武神を信仰する訳がない。

つまり、鹿島神宮、香取神宮の地主神は建雷命でも経津主命でもない。天津神最強の武神で調伏されている。

そして、その調伏された神は消された。人々の記憶から忘れ去られた。

その忘れ去られた神とは誰なのか。


続く。









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