続きます。
これまでの蝦夷討伐は田村麻呂の父・苅田麻呂らが征夷大将軍だった時、戦は蝦夷側が有利でした。
しかし、田村麻呂は兵士を専属とした。収穫期であっても戦を仕掛けた。しかも朝廷側の兵士を同じ蝦夷である熟蝦夷に命じた。蝦夷同士の戦いとなった。
それだけではない。以前の戦は兵士対兵士だったが、田村麻呂は女子供老人の差別なく殺させた。
ここまでの戦を仕掛けて来た田村麻呂。アテルイ・モレは仲間の為にも投降。
そして殺された。
そして殺された。
「鹿島立」。阿須波神が旅立って行ったとされているが、正式には阿須波神を信仰している熟蝦夷達が、荒蝦夷との戦いに旅立ったと推測します。
そう考えると荒蝦夷の拠点とも言える塩竃に、阿須波神が祀られていたとしても不思議ではない。では、何故、阿須波神では無く、志波彦神と称していたのか。
それは「庭中の 阿須波の神に 小柴刺し・・・・」の歌で分かります。この歌からなのか、阿須波神は柴神と呼ばれている。
つまり「志波彦神」の「志波」は、「柴神」から来ているのではないか。「柴彦」が「志波彦神」に転じて行ったのではないのか。
阿須波神は「庭中の・・・」の歌から、庭神とも呼ばれている。庭は人に一番近い境界線。阿須波神は境界線の神でもある。
日本犬に柴犬がいるが、この柴犬は元々、死者の旅路に同行させられていた犬です。つまり「柴犬」は「死場犬」。死の世界に同行されられた犬。
だとしたら、柴神・阿須波神は人を死に誘う神。死と生の境界線の神と考えられる。
そう考えると阿須波神、志波彦神共に「波」の字が付くのも納得できる。
東日本大震災では、千葉県や茨城県の海岸線、そして宮城県の塩竃市にも津波が押し寄せた。古代でも何度となく津波が襲来していた。多くの人が地震や津波で亡くなって来た。だから阿須波神、志波彦神に「波」の字が宛てられたのではないのか。
縄文時代、千葉・茨城、そして仙台・多賀城・塩竃に多くの人が暮らしていた。地震・津波で多くの命が失われた。
それだけではない。死者をそのまま放置していたら痛いからペストが発生する。ペストは疱瘡。疱瘡は津波よりも人の命を奪った。日本人の半分の命を奪った時代もある。
故に阿須波神・志波彦神は、人々に一番恐れられた疱瘡神だと言える。
続く。