続きます。話を大江広元に戻します。
昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を観た方はお分かりだと思いますが、大江広元がいなければ鎌倉幕府を開くのは難しかったでしょうし、開いたとしても維持は困難だったと思います。
大江広元が平氏や朝廷の動きに精通していたからこそ、鎌倉幕府が成立した。
源頼朝と北条政子は鎌倉幕府の象徴と言えるが大江広元に絶大な信頼を寄せていた。北条義時も同様で大江広元の意見を忠実に守り実行した者です。だからこそ朝廷を倒せた。
実質は大江広元がいたからこそ、鎌倉幕府を開くことが出来た。朝廷に勝てたと言っても言い過ぎではないと思います。
そして戦国時代が到来。関ケ原の戦いでは西軍の大将は毛利輝元。東軍の大将は勿論、徳川家康となります。
本来、西軍の大将は豊臣秀頼が成るべきですが、秀頼は幼過ぎる。実質の大将は石田三成でしょうが、三成は人望が無さすぎる。だから毛利輝元が担ぎ出された。
この関ヶ原の戦いですが、家康も三成も毛利輝元も1日で終わるとは思っていなかったでしょう。
っと言うより、西軍の大将・毛利輝元は長引かせる気が満々でした。関ケ原に兵を集めている最中に西日本の東軍の武将の領地を侵略していましたからね。
黒田勘兵衛も同様に九州の敵将を襲っていた。そして力を貯めて関ヶ原の戦いでの勝者と戦う予定だった。それが当てが外れて1日で終了。東軍の大勝利となった。黒田勘兵衛も毛利輝元も愕然としたでしょう。
っとは言え、関ヶ原の戦いでは西軍の大将ではあったが、毛利軍は動かなかった。毛利輝元としては「自分が戦いに参加しなかったのだから東軍は勝てた」と考えていたでしょう。
恩賞は出ないまでも150万石の領地に関しては不問に付されると考えていたと思われます。
それが蓋が開いたら150万石から50万石に領地を減らされた。領地は3分の1となった。毛利輝元としたら不満たらたらだったと思います。
実はこの毛利氏は大江広元の家系です。大江広元の知恵を受け継いでいたから150万石の大大名になれとのだが、関ヶ原の戦いで50万石に減らされた。この恨みは代々忘れないと思えます。関ケ原では戦わなかったのですから。
それを危惧していた男がいます。大江広元流長井氏の家系に入った永井直勝です。毛利氏と永井氏の家紋は「一に三ツ星」。同じ家紋です。血は繋がらないとしても同じ一族なのです。
因みに長井氏の方は鎌倉幕府の時代、山形の長井庄を領地としたので長井氏を名乗ったのですが、後に東北の雄・伊達政宗に滅ぼされています。
永井直勝は150万石を50万石に減らされた毛利氏の暴走を想定していた。そこで同じ大江広元の一族であるとして、毛利氏と密に婚姻関係を結んだ。長州藩に永井姓が多いのはその為です。
徳川家の永井氏は「最初と最後、特に良し」と呼ばれていますが、永井直勝から永井尚志まで徳川家を最後まで支えています。
260年間続いた徳川幕府ですが、家臣で最後まで家系が続いたのは稀有です。しかし、徳川幕府は終わりを告げた。
その一因は150万石を50万石に減らされ、貧しい生活を続けて来た毛利氏・長州藩の恨みは確実にあった。故に倒幕に動いたのは間違いないと思います。
不思議ですよね。大江広元が鎌倉幕府を開いたと言っても良いのに、最後の徳川幕府を終わらせた勢力の一つである長州藩も大江広元の家系だったなんて。
血は繋がっていないが徳川幕府を守った永井氏も大江広元の家系。永井尚志は最後まで徳川家の為に尽力した。五稜郭でも戦った。
そんな永井尚志は敵からも人望があり、明治政府でも元老院に迎えられた。徳川幕府が滅んでも大江広元の家系は続いていく。
源平時代、裏切りの世界で誰にも恨まれなかった大江広元の教えが幕府が滅んでも代々続いていた。
そこに人としての良い生き方のヒントがある様に思いますね。
ではでは。
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