続きます。
先にも述べましたが、塩竃神社の祭神として主祭神・塩土老翁、配神として鹿島神・香取神が設定されたのは、1700年代後半です。
それが明治時代に入り古文書が発見された。塩竃の一森山に鎮座していた社が、岩切に打ち捨てられていた。その捨てられた社に祀られていた神は「志波彦神」だった。
どうして社が岩切に捨てられていたのか。
それは蝦夷であるモレの一族が建立した社だったから。
敵である蝦夷の神を祀る社です。燃やしたり破壊すると祟りが怖い。でも朝廷が支配している多賀城や塩竃に残したままには出来ない。
これは仙台人でも知る人は少ないですが、蝦夷の時代、仙台市周辺で一番栄えた場所は今の岩切がある七北田川沿いだった。だから岩切に持って行ったと思われます。
元々は日本史上ぶっちぎり一位の祭祀料を献上されていた神社の神なのです。祟りが恐ろしい。
当時の塩竃神社の宮司は明治天皇に「天下の一大事」と願い出て、塩竃神社と共に志波彦神社も現在の一森山に建立しています。当然、神格は志波彦神社の方が上です。元々の塩竃神社には志波彦神が祀られていたのですから。
この志波彦神ですが、古事記や日本書記には出て来ません。私的には正式な名前を隠したと推測しています。
塩竃神社側では塩土老翁に塩竃の国造りに協力した神としています。
私的にはちょっとニュアンスは違うと思います。100%間違いではありませんが・・・・。
さて、志波彦神とは誰なのか。
大日本地名辞書を編纂した吉田東伍は「志波彦神は阿須波神である」と断言しています。私も同じ意見です。
理由ですが、千葉県・茨城県の熟蝦夷達は旅立ちの神である、阿須波神を信仰していた。
阿須波神は旅の安全を守る神。
しかしその旅は、福島県・宮城県・岩手県の荒蝦夷との戦いに従軍する旅。そうなると阿須波神は武神としても信仰される。
荒蝦夷達も阿須波神を信仰していた。
だが、戦っている相手の熟蝦夷も阿須波神を信仰している。その点も荒蝦夷の長であるアテルイ・モレが田村麻呂率いる朝廷軍に降伏した理由の一つだと考えます。
志波彦神が阿須波神であるとしたら、阿須波神は敵の神でもあった。だから岩切に社が打ち捨てられていた。
荒蝦夷と戦った朝廷軍の熟蝦夷達も阿須波神を信仰していたのですから、塩竃神社側の説明には間違いは無いです。
でも、真実を追求したい私としては、やはり矛盾を感じてしまいます。
続く。
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