今回の話、大変デリケートなのであります。
宮城県の塩竃市には塩竃神社に隣接して、志波彦神を祀る志波彦神社が鎮座していますからね。
しかも格式は塩竃神社よりも志波彦神社の方が高い。だから志波彦神社・塩竃神社と、志波彦神社を先に表記しているのです。
それなのに異議を申し立てるのは中々勇気が必要。神社関係者にも迷惑をかけると言うものです。
志波彦神社・塩竃神社側の説明によると、志波彦神は塩竃神である塩土老翁の国造りに協力した神だと説明しています。
私は違うと思っています。大体、塩竃神社に祀られている塩竃神は、1700年代後半に伊達綱村の研究チームが調査し、塩土老翁で間違いなしと設定したものです。
それまでは一万束と言う日本神社界最高の祭料を得ていたのに、祭神が忘れ去られていた。
それでは「メンツが立たない??」と綱村が立ち上がったのでしょうけど、「塩竃だから塩土老翁」としたのは、少々安易だったと思えます。
だって塩竃なのですよ。しかも塩竃神社には隣接している御釜神社が隣接している。四口の御釜がご神体。その御釜で藻塩の神事が行われている。
だとしたら重要視されるのは塩では無くて釜でしょ。塩竃神社の祭神は、塩土老翁では無くて、釜神の方が相応しい。伊達綱村の奴、こんなことも分からないのか。
事実、明治時代に「現在の志波彦神社・塩竃神社が鎮座している一森山には、蝦夷のモレ一族が信仰していた志波彦神を祀る社が鎮座されていた。蝦夷討伐でその社は岩切の地に置き捨てられていた。」っとする古文書が発見された。
その場所は岩切の八坂神社で、境内には志波彦神を祀る冠川神社が鎮座しています。
それで天下の一大事と言う事で、八坂神社から戻され、一森山に志波彦神社が新たに建立されています。
因みに一森山は、モレこと蝦夷の盛氏の信仰の山だったから一森山と呼ばれているのは、間違いない所だと思われます。
さて、ここからが問題ですが、記紀にも出て来ない志波彦神とは一体誰なのか。
塩竃故に釜神であるなら、大歳神・天知迦流美豆姫の子、奥津彦命・奥津姫命となります。私的には半分は当たっていると思います。
でも、釜神だけでは説明できない部分も有る。それでは志波彦神とは一体誰なのか。
続く。