今朝はのんびりしていました。
私の仕事は土日が中心なので、平日はまったりしていることが多いのです。
朝8時から偶然、BS②で「四十五日間奈良時代一周」を見ました。
パンを齧りながら、おやと思ったのは「あをによし」の説明でした。
薬師寺の学芸員の方が、「あを」と「に」は建物の緑色と朱色を指す、
とおっしゃっていたことです。
そうだったっけ!?
万葉集巻三328
太宰少弐小野老朝臣の歌一首
・あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花のにほふがごとく今さかりなり
奈良の都は今盛りであるよ、という、意味はそれだけですが
「あをに」「花のにほふがごとく」というイメージを加えて膨らませています。
あるかなきかの古文の記憶をたぐり寄せると、
私の「あをに」は青い丹(つち)、奈良特産の青黒い土、
さらにはその土で作った瓦をイメージしていました。
青黒い瓦の屋根と爛漫の桜の花のイメージです。
広辞苑で調べると「あをに」については青い丹(土)とありました。
瓦かどうかはわかりませんでしたが・・。
ネットで調べてみると、私と同じ疑問を持つ方がいらしたようです。
群馬県立女子大学教授上代文学専門の北川和秀さんのHP
「北川研究室」でのQ&Aです。以下抜粋させていただきました。
[Q]
奈良に行った時に、薬師寺の方が、和歌の中で「奈良」にかかる
「青丹よし」という言葉の意味について話していらっしゃいました。
その方のお話だと、『青』と言うのは寺院や講堂などの建物の、
窓のようになっている部分の青い色(実際は緑に見えますが)のこと。
『丹』というのは建物の柱などの、朱色のことを、当時は『丹(に)』と
言ったので、そのこと。
つまり、『奈良の都は青と赤で彩られたたくさんの建物があって
うつくしく、よい』というのが「青丹よし」の由来なのだと言うことでした。
しかし、高校のとき、多分塾の先生に、「あおによし」の「よし」は
「良い」という意味ではなくて、「よ」も「し」もともに助詞(多分間投助詞)
だと聞いた記憶がある気がするのですが、どうなのでしょうか。
[A]
「あをによし」の「よし」は、私も間投助詞という風に理解しています。
間投助詞で良いと思いますよ。
なお、『広辞苑』には、次のようにあります。
あおに‐よし【青丹よし】アヲ‥〔枕〕(ヨもシもともに間投助詞)
「奈良」「国内(くぬち)」にかかる。
奈良に顔料の青丹を産出したことが
秘府本万葉集抄にみえるが、事実か伝説の記録か不明。
一説に、「なら」に続けたのは顔料にするために青丹を
馴熟(なら)すによるという。
この説明だと、薬師寺のかたの説明にある、平城京の青や朱の彩りの
美しさから来ている、というのとは違いますね。
実際の用例に当たってみると、「あをによし」という枕詞は、
奈良に都が遷る前から使われています。
奈良に都が置かれる前、平城京のあたりには極彩色の建物などは
無かったはずですから、「あをによし」という枕詞の本来的な意味は、
都の美しさとは関係ないでしょう。
といって、薬師寺のかたの説明がまるっきり間違っているというわけではなく、
奈良に都が遷ってからは、「あをによし」の意味が都の美しさを表すものに
変わっていったのではないでしょうか。
有名な、「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふが
ごとく今盛りなり」(328番歌)などは、
いかにも平城京の色彩の美しさを歌っているようですものね。(北川)
なるほど!
枕詞も時代によってイメージが変わってくるものなのですね!
奈良遷都以前から用例※があったことを考えると、
最初に使われたときには「あをに」はおそらく青い丹(土)であったのでしょう。
※つぎねふや 山代川を 宮上(のぼ)り 我(わ)が上れば あをによし 奈良を過ぎ小楯(をだて) 倭(やまと)を過ぎ 我(わ)が 見が欲(ほ)し国は 葛城(かづらき) 高宮(たかみや) 吾家(わぎへ)の辺り
「古事記」 石之日売命(いわのひめのみこと)
(日本書紀では「磐之媛命」万葉集「磐姫皇后」)
何故私が瓦と思いこんでいたのかは分かりませんが、
大量に産出して瓦を作るほどたつぷりあったのか、
顔料にしたというのは少量で高価なものだったのか・・。
「青丹」を調べてみるとデジタル大辞泉では
次の2つの意味が含まれています。
① 青黒い土。
② 緑色の顔料の土。岩緑青(いわろくしょう)のこと。
ということは①と②は違うものなのですね。
奈良で産出したのは、どちらであったのか・・。
さらに「花」は①桜であるという説と②種々の春の花であるという説が
あるらしいです。
英訳するとすればイメージ部分の「あをに」「花」それぞれ
二種類の解釈ができるので、全部で4種類の訳が
出来上がるということなのですね!
偶然見た番組のおかげで、楽しい古典への旅をすることができました。
私の仕事は土日が中心なので、平日はまったりしていることが多いのです。
朝8時から偶然、BS②で「四十五日間奈良時代一周」を見ました。
パンを齧りながら、おやと思ったのは「あをによし」の説明でした。
薬師寺の学芸員の方が、「あを」と「に」は建物の緑色と朱色を指す、
とおっしゃっていたことです。
そうだったっけ!?
万葉集巻三328
太宰少弐小野老朝臣の歌一首
・あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花のにほふがごとく今さかりなり
奈良の都は今盛りであるよ、という、意味はそれだけですが
「あをに」「花のにほふがごとく」というイメージを加えて膨らませています。
あるかなきかの古文の記憶をたぐり寄せると、
私の「あをに」は青い丹(つち)、奈良特産の青黒い土、
さらにはその土で作った瓦をイメージしていました。
青黒い瓦の屋根と爛漫の桜の花のイメージです。
広辞苑で調べると「あをに」については青い丹(土)とありました。
瓦かどうかはわかりませんでしたが・・。
ネットで調べてみると、私と同じ疑問を持つ方がいらしたようです。
群馬県立女子大学教授上代文学専門の北川和秀さんのHP
「北川研究室」でのQ&Aです。以下抜粋させていただきました。
[Q]
奈良に行った時に、薬師寺の方が、和歌の中で「奈良」にかかる
「青丹よし」という言葉の意味について話していらっしゃいました。
その方のお話だと、『青』と言うのは寺院や講堂などの建物の、
窓のようになっている部分の青い色(実際は緑に見えますが)のこと。
『丹』というのは建物の柱などの、朱色のことを、当時は『丹(に)』と
言ったので、そのこと。
つまり、『奈良の都は青と赤で彩られたたくさんの建物があって
うつくしく、よい』というのが「青丹よし」の由来なのだと言うことでした。
しかし、高校のとき、多分塾の先生に、「あおによし」の「よし」は
「良い」という意味ではなくて、「よ」も「し」もともに助詞(多分間投助詞)
だと聞いた記憶がある気がするのですが、どうなのでしょうか。
[A]
「あをによし」の「よし」は、私も間投助詞という風に理解しています。
間投助詞で良いと思いますよ。
なお、『広辞苑』には、次のようにあります。
あおに‐よし【青丹よし】アヲ‥〔枕〕(ヨもシもともに間投助詞)
「奈良」「国内(くぬち)」にかかる。
奈良に顔料の青丹を産出したことが
秘府本万葉集抄にみえるが、事実か伝説の記録か不明。
一説に、「なら」に続けたのは顔料にするために青丹を
馴熟(なら)すによるという。
この説明だと、薬師寺のかたの説明にある、平城京の青や朱の彩りの
美しさから来ている、というのとは違いますね。
実際の用例に当たってみると、「あをによし」という枕詞は、
奈良に都が遷る前から使われています。
奈良に都が置かれる前、平城京のあたりには極彩色の建物などは
無かったはずですから、「あをによし」という枕詞の本来的な意味は、
都の美しさとは関係ないでしょう。
といって、薬師寺のかたの説明がまるっきり間違っているというわけではなく、
奈良に都が遷ってからは、「あをによし」の意味が都の美しさを表すものに
変わっていったのではないでしょうか。
有名な、「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふが
ごとく今盛りなり」(328番歌)などは、
いかにも平城京の色彩の美しさを歌っているようですものね。(北川)
なるほど!
枕詞も時代によってイメージが変わってくるものなのですね!
奈良遷都以前から用例※があったことを考えると、
最初に使われたときには「あをに」はおそらく青い丹(土)であったのでしょう。
※つぎねふや 山代川を 宮上(のぼ)り 我(わ)が上れば あをによし 奈良を過ぎ小楯(をだて) 倭(やまと)を過ぎ 我(わ)が 見が欲(ほ)し国は 葛城(かづらき) 高宮(たかみや) 吾家(わぎへ)の辺り
「古事記」 石之日売命(いわのひめのみこと)
(日本書紀では「磐之媛命」万葉集「磐姫皇后」)
何故私が瓦と思いこんでいたのかは分かりませんが、
大量に産出して瓦を作るほどたつぷりあったのか、
顔料にしたというのは少量で高価なものだったのか・・。
「青丹」を調べてみるとデジタル大辞泉では
次の2つの意味が含まれています。
① 青黒い土。
② 緑色の顔料の土。岩緑青(いわろくしょう)のこと。
ということは①と②は違うものなのですね。
奈良で産出したのは、どちらであったのか・・。
さらに「花」は①桜であるという説と②種々の春の花であるという説が
あるらしいです。
英訳するとすればイメージ部分の「あをに」「花」それぞれ
二種類の解釈ができるので、全部で4種類の訳が
出来上がるということなのですね!
偶然見た番組のおかげで、楽しい古典への旅をすることができました。