ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

クライマーズ・ハイ 横山秀夫

2009-09-25 12:21:00 | 
そこに山があるからだ。

高名な登山家が新聞記者の、「なぜ、山に登るのか」との問いかけに対して答えた科白だとされる。この答を高尚なものだと理解するのは自由だが、実のところは面唐ュさくて適当に答えたのではないかと、私は疑っている。

私自身、何度も何度も悩んだ問題でもある。なぜ、こんな苦しい思いをいをしてまでして、山に登るのか?

肩に食い込むザックの重さに苦しみ、激しい疲労と熱い呼気に喘ぎ、まだ着かないのかと不安に駆られた急な登山道。脳裏を駆け巡るのは、冷たいジュースであったり、快適なベッドでの休憩であり、自然を楽しむなんて余裕はまるでなかった。

登頂に成功した達成感はたしかにあるし、爽快な展望に心洗われる感動はたしかにあった。だが、その喜びを相殺するかのような苦しい思いも何度なく味わっている。

なんで山に登るのか?

正直、今でも完全な回答を自らの裡に見出してはいない。ただ、長距離ランナーの脳内に生じるとされる、脳内麻薬の分泌によるランナーズ・ハイと同様な、クライマーズ・ハイが実際にあることは、私自身何度も経験している。

重い荷物に喘ぎつつ、脳裏を駆け巡る様々な悩み。実際、驚くほどいろいろなことを考え、悩み、模索している。身体は急坂をのぼりつつ、頭の中では自分一人で会話を交わしている。独り言とは違う。私は一人脳内対話だと名づけていた。

脳内対話の中味は、必ずしも登山に関連するとは限らない。むしろ山とは関係のない悩みであることが多い。友達との諍いであったり、報われぬ恋の悩みであったり、あるいは不安渦巻く将来への展望であったりと一貫性はない。

だが、肉体的な苦痛がある一定段階を超えると、もうなにも考えられなくなる。決して苦痛ではない。それどころか脳裏に白く輝く世界が感じられる快感。まるで別世界へ跳躍したかのような錯覚を感じることさえある。これが所謂脳内麻薬の効果なのだと思う。

悩みの根幹が解決したわけではないが、山を下りた時には、かなり気持ちが落ち着いてたのは何度も経験している。これが目的ではなかったと思うが、山には息抜き、あるいは癒しの効果があったように感じたことは何度もある。

夢中になれることがあるのは素晴らしいことだと思う。今はもう、山に登れなくなった私にとって、なにかに夢中になれる瞬間はそう多くはない。

仕事は必死だが、ワーキング・ハイの経験はない。だがリーディング・ハイならあるかもしれない。読書に夢中になり、降りるべき駅さえ忘れるほど引き込まれる。そんな本は決して多くはない。

表題の作品は、その数少ない実例だ。実際読むのに夢中になり、私は駅を降りるのを忘れて終点の駅まで行ったことがある。帰宅時だったので、誰にも迷惑かけなかったのは幸いだった。

ただ、降りるべき駅を忘れるなんてみっともないのは事実だ。それでも私は全然、後悔していない。それくらい面白かった。さすがに再読時には、駅を乗り過ごすような失態はしないが、それでも満足のいく読後感だった。

映画化されたと思いますが、私は絶対観ない。だって、本で読んで得たイメージを大切にしたいから。
コメント (8)
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