ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

人間以上 シオドア・スタージョン

2011-01-11 12:13:00 | 

不具者に対して、ある種のうしろめたさを感じることは本能に近い。

自分が健常者であることを神に感謝したくなるような気持ちになることでさえある。だが、時として本能は残酷だ。優れた遺伝子を残そうとする生存本能が、不具者を本質的に厭わせるのだろうか。

いや、不具者だけではない。肌の色や、髪の色、目の色など、自分の種族とは異なる同族に対して、同じ人間だと分っていても、心の内側から湧き出る違和感を抑えることが出来ない。

人種差別にせよ、不具者に対する差別にせよ、そこには理屈では解決できない深い溝を感じることがあるとすれば、それは本能に基づいたものだからだと思う。ここに差別問題の難しさがある。

しかし、もし血を分けた身内に不具者がいたとしたら、おそらくは健常な身内以上に愛情を感じることは珍しくない。自然の理不尽さに対する憤りや、不具者に対する保護者意識が燃え上がることは、しばしば見受けられる。

それでも少し距離を隔ててみると、やはり自分が不具者として生まれなかったことを感謝してしまうし、罪なくして不具を背負わされた者への哀憫を感じざる得ない。

現在、日本では不具者と呼ばれるような人たちは、一般の人たちから切り離されて生きることを強いられる。だから、街で見かけることは、極めて稀だ。表向きは、彼らを保護するためだそうだ。

だが、本当にそれでいいのだろうか。私は子供の頃、いわゆる知恵遅れの子が同じクラスにいたことがある。みんなと同じことするのが、ほとんどダメで、担任の先生には相当なストレスであったようだ。

そのせいで、夏休みを過ぎて二学期に入ると姿を消した。先生の説明では特殊学級に移ったとのこと。でも、私たち子供たちは知っていた。特殊学級に移ることを薦めたのは、他でもない担任の先生自身であろうことを。

その子のお母さんは、その子が普通の子供と一緒にいることを切望していたはずだ。私の知る限り、彼を虐めようとするクラスメイトはいなかった。彼はいわゆる「おミソ」だった。

彼と距離を置きたがるクラスメイトは確かにいたが、彼を虐めるようなことは、なんとなくイケナイ、あるいは情けないことだと漠然と思っていたからだ。

生まれついてのハンデを背負った子供がいることを、我が目で知ってしまうことは、決して悪い経験ではなかったと思う。個人の努力ではどうしようもないことがあることを、拙いながらも実感できたからだ。

私は虐められたことも、虐めたこともあるが、生まれつきのハンデを虐めの対象とすることには嫌悪感が強い。ただ、そのような事を虐めの対象とする性悪の子供(いや、大人もだが)がいることも知っている。

たしかに不具者に対する虐めは実在する。だが、だとしても今の日本のように彼らを一律に隔離することには同意しかねる。むしろ、虐めがあるなら、不具者を虐めるような輩を白日の下にさらしてしまうほうがいい。あの人は、不具の人を虐めるような卑劣なヒトだと公開してしまうほうがいい。

だから、隠してしまうのが、一番良くないと思う。彼らのような不具者を自然に社会に受容できる社会のほうが、ずっと健全だと思う。彼ら不具者に優しくできない社会なんて、そのほうがおかしいと思う。

表題の作品は、その不具者らが超能力を身につけ、人類を超越した存在として登場している。それゆえ、発表当時かなりの話題となったSF小説の傑作だ。

現世人類が進化の頂点にたったのが数万年前であることを思えば、いつかは新たな優生種が登場するのだろう。彼らが人類のなかから進化して登場するのか、それとも他の種から登場するのかは分らない。

この作品でえがかれているように、もし人類のなかの出来損ないと思われている不具者から新人類が登場するとしたら、神はなんと皮肉屋であることか。

いつかは分らない、でも必ずや主役交代の日は訪れるはずだ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする