人々の喧騒が絶えることの無い首都・東京が一番静かなのが元旦の夜だ。そして、静かな都会の夜は、時として危ない。
学生の頃、渋谷のホテルの駐車場でバイトをしていた。時給800円前後なのだが、大晦日から元旦までは倍に跳ね上がる。別に用事もなかった私は、この稼ぎ時を逃さずにシフトに入っていた。
ホテルでバイトすることの小さなお楽しみの一つは、客からのチップだ。とりわけ正月は普段よりも実入りがいい。深夜勤務の時は、元気な挨拶と配車の手際の良さ次第でチップが頂けることがあるからだ。
そんな訳で元旦の夜の勤務を終えた時には、懐はけっこう暖かかった。こりゃ、ちょっと美味しいものでも食べて帰るかなと、思案しながら深夜の宮下公園を歩いていた時だ。
前方から怪しげな2人組が足早に近づいてきたことに気がついた。ヤバイ!多分、お小遣い欲しさのチンピラだろう。考え事をしていたので、気がつくのが遅れた。嫌な予感がして振り返ると、私の背後20メートルぐらいにも、もう一人黒いフード付きコートをまとった若者がいる。多分、グルだろう。
挟まれたと気づいたその瞬間、私は迷うことなく隣接する宮下公園の駐車場の柵に飛びついた。いくらなんでも3人相手では歩が悪すぎる。金網の張られた柵を素早く駆け上って駐車場に飛び降りようとした。
飛び降りる直前、怒声を上げながら駆け寄るチンピラの一人にスニーカーを捕まれたが、無視して飛び降りた。おかげで左足のスニーカーが脱げ落ちてしまった。かかとを踏み潰していたからだ。
左足に靴がない状態で、駐車場の精算所に向けて猛ダッシュした。あそこなら、制服姿の警備員が数人常駐していることを知っていたからだ。ただ、この駐車場は広く、精算所はずっと先だ。
薄暗い駐車場を全力で走るが、スニーカーのかかとを踏み潰した状態では、どうもスピードが出ない。でも、出入り口の精算所の明かりが見えてきた。後もう少しと思ったところで、右腕を捕まれた。そのまま、もつれ合うように駐車場の床に転倒した。
とっさに身体を回転させて、相手を振りほどいて、立ち上がり再び走り出す。大声で助けを呼びたいが、息がきれてそれどころではない。
精算所まで、後50メートルほどのところで、もう一人のチンピラにタックルされて倒された。追いついてきたもう一人にのしかかられて、顔面に2発ほどパンチを食らった。もう駄目か・・・その時突如
「手前ら、喧しいぞ!」とドスの効いた怒鳴り声が駐車場に響き渡った。暗がりからヌっと巨体が現れた。薄ぼんやりと光る白色灯の下に現れた男は、どこをどうみても堅気には見えない。しかも、この寒空にやけに薄着だ。
「人のお楽しみを邪魔しやがって」と呟くと、私の上にのしかかっていたチンピラを蹴り上げた。私が上半身を起して、よくよく見ると暗がりにコートを羽織った女性の姿が見えた。しかもチラチラと裸身がコートの隙間から見える。ありゃりゃ?
「見るんじゃねえよ」と私のドテッ腹にも蹴りが入った。再び床に倒れこむが、角度がゆるかったせいで、それほどの衝撃ではない。倒れながら転がって、車と車の隙間に逃げ込む。
悲鳴と情けない声が続いているところをみると、他のチンピラたちもやられているらしい。絶好の機会だと思い、痛む腹をかかえながら、四つん這いで逃げ出す。
非常口を見つけ出して、素早く開けて歩道に転がり出る。丸井のビルの裏手あたりだった。靴は片方しかなく、顔面は腫れあがり、蹴られた腹も痛むが、財布は無事だった。
もっともショーウィンドウに写る私の姿は、惨めというより滑稽なものであった。幸い深夜であり、元旦の夜でもあったので人気はない。
贅沢な食事は止めにして、タクシー代に使うことにした。さすがにこの格好で電車に乗るのは躊躇われたからだ。タクシーの運ちゃんにあれこれ尋ねられたが、知り合いと喧嘩しただけと投遣りに答えて済ます。
私の人生のなかで、あれほど不運な正月はほかには無い。あってたまるか。未だに忘れられないね。ちなみに失くしたスニーカーは、とうとう見つからなかった。せっかくの元旦の稼ぎも、靴代で赤字で終わってしまった。
とんでもない不運で始まった年だったが、終わってみると就職は希望とおりであり、充実した学生生活でもあった。バブルが始まる直前、期待と不安が入り混じった年でもあった。
あれから早や20数年。不運と幸運は交互にやってくることに変りはない。さて、今年はどんな年になるのやら。