戦争が終わった、終わったと喜び、戦争は悪いことだと決めつけ、謝りゃいいだろうと済ましたのが、戦後の日本の最大の過ちだと思う。
特にダメなのが、日本は悪うございましたと外国に宣伝することで、自らの善人ぶりをアピールしたがる自虐的善人ぶりっこだ。典型的なのは、二枚舌で悪名高いノーベル文学賞受賞者の大江健三郎だろうが、他にもうじゃうじゃいる。
なにか日本を否定するようなイベントがあると、しゃしゃり出てくるので直ぐ分かる。最近だと反・原発とか環境問題の場でよく見かける。嬉しそうに、だから日本はダメなんだと、はしゃいでいる。
私は日本が再び戦争への道を歩むとしたら、その原動力になるのは、この手の反日、自虐の善人ぶりっ子平和愛好市民たちだと思う。なぜなら、彼らは戦争の反省をまじめにしていないからだ。
なぜ、日本は大陸に侵略し、アメリカに牙を剥いたのか。その原因と背景に対する考察をせず、ただ日本は悪い、軍部が悪いと誤魔化してきた。なぜ、あの時代、日本人が侵略と戦争しか生き残る道はないと思い込み、軍人を信じ、政府を支持したのか。その原因を真摯に考察することなく、ただ戦争は悪いこと、侵略は悪い、だから謝ろうと安直に済ませてきた。
私は謝るだけの反省なんて認めない。それはポーズだけに過ぎない。なぜ戦争への道を進んだのかという疑問に対し、その当時の国際情勢、日本の対応、その背景を考え、他にとるべき道はなかったのかと思索し、さらに戦争をもっと上手く終わらせることが出来なかったのか。そこまで考え込まなければ、本当の反省ではない。
ただ、形だけの反省と謝罪で誤魔化してきた人たちは、一世紀前の日本人と同じ過ちを繰り返す可能性は高いと思う。戦争にせよ、侵略にせよ、それなりに当時の人たちが真剣に考えて実行したものだ。それを単純に悪い、悪いと決めつけるのは思考放棄に近い。
恐ろしいことに、戦後の日本の歴史教育は、本当の意味での歴史考察から逃げて、単なる年号暗記と事件暗記だけで済ませてきた。なぜ、そのような行為をしたのかの必然性や、その背景に対する考察を放棄してきた。
私が中学や高校で受けた授業は、日本の昭和初期の歴史教育を安易に済ませてきた典型であった。そこに思索はなく、そこに疑問は浮かばず、ただ年号暗記と事件暗記だけの教育。あるとしたら、せいぜい戦争は悲惨だ、悪いことだとの感傷的教育だけ。
おかしなことに、予備校の大学受験のプロ講師たちの講義のほうが、よっぽど踏み込んだ歴史教育を感じさせた。もちろん予備校の目的は大学合格であり、そこに重点を絞った講義内容となっている。
だが講師の先生たちは、時折空いた時間に不満をもらす。ダジャレの年号暗記で人気だった世界史の山村先生は、こんなの本当の歴史授業ではない。大学合格には必要なテクニックだけれど、歴史を学ぶということは、そんなテクニックを学ぶことではないと吐き捨てるように本音を語っていた。
垂直的、並列的な世界史講義で教科書では学べない広範囲な歴史授業をしてくれた武井先生は、当時共産シナとソ連の蜜月関係を称える日本の新聞TVを痛烈に非難した。あれだけ長い国境線を持つ国同士がいつまでも良好な関係にある訳ないと。両国の歴史を振り返れば、争いと和平の繰り返しであり、そう近くないうちに紛争は必ず起こると。
歴史をしっかり学んでいれば、そんなことは常識なのだと悲憤していた。講義の時間を超過してまでして、痛烈に日本の新聞TVの勉強不足を嘆いていたことは、今も忘れがたく覚えている。そして武井先生の予測通り、中ソの国境紛争は火を噴いた。
戦争は悪いことだと嘆く暇があるなら、もう一度昭和の歴史を考察すべきだ。戦後の日本の歴史教育の最大の欠陥が、昭和初期から中期の時期だと思う。なぜ、当時の日本人はあのような行動に出たのか。当時の政治家は、あのような決断を下したのか。そして、当時の日本の大衆は、それを支持したのか。
その理由を考えることの一助になるのが、表題の作品だと思います。興味がありましたら是非どうぞ。