goo blog サービス終了のお知らせ 

ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

巨大銀行沈没 須田慎一郎

2014-01-27 14:17:00 | 

いっそう、御破算にしてやり直したほうが良かったのではないかと思うことがある。

なにがって、銀行である。住専を筆頭に多額の不良債権を抱えた銀行は、もはや単独では生き残れなかった。だが、日本の金融システムを維持することを最優先した大蔵省(当時)は、なるだけ隠密に、可能な限り国民には知らせないかたちで、銀行の再生に乗り出した。

今さら詳細は語るまい。10年前に株価が100円を割り込んでいた銀行が、2014年1月現在で200円台にまで回復している以上、大蔵省がとった方針は間違っていたとは言えまい。

しかし、私としては正しかったとは言いづらい。日本最大のメガバンクの株価が200円台なんだから、笑ってしまう。なんなんだよ、この銀行は。

さて、振り返ってみるとバブル崩壊以後の、いわゆる失われた10年は平成大不況とでもいうべきデフレ不況であり、企業は売上を伸ばせず、個人は収入を増やせない重苦しい歳月であった。

それは日本が初めて経験する、金はあっても欲しいものがない、金もないが稼ぐ機会もないという停滞した十年でもあった。一言で云えば、大幅な需要不足に悩んだ10年でもある。

この不況は意図されたものでもある。財政赤字に悩む大蔵省が企画し、小泉構造改革の名の下で実施された大幅な財政支出の削減こそが、その本体である。

私はその方向性は間違っているとは思わない。でも、間違っていたのは、その実施方法であった。本来、このような財政改革は、まず実施者自らが率先してやってみてこそ説得力を持つ。

しかし、財務省に名を変えたエリートたちは自らの特権は死守し、法案を通した国会議員たちは自らの利権は手放さなかった。バブル経済の崩壊の象徴たる不良債権を生み出した銀行は、合併の名の下に大規模な統合を余儀なくされたが、責任者たちは処分されることなく役員の座にしがみ付いた。

その癖、構造改革の旗印を掲げて断行されたリストラは、弱いものから切り捨てられた。それを弱肉強食の名の下に正当化するならば、不良債権を生み出した経営者たちこそ、まず第一にリストラの対象となるべきだ。

そうならなかったのは、霞が関のエリートや、永田町の先生方が自分たちを構造改革の対象から外し、ぬくぬくと居座ったからだ。それを見ていた銀行の経営者たちが、自らをリストラの対象から外し、責任を弱い立場の者に押し付けたのも必然だと云える。

大蔵省が意図したとおり、日本の金融システムは破綻することなく生き延びた。破たんによる大混乱を回避できたのは確かなのだから、本来正しかったと評するべきかもしれない。

しかし、私はとてもじゃないが、正しかったとは言えない。何故なら本来、リストラされるべき無能な経営者たちが温存された結果、改革は迷走し、図体がデカイだけのボンクラ銀行が育ってしまったからだ。

世界屈指の巨大銀行でありながら、みずほ銀行(現、みづほホールディングス)はまるで世界に通用しない駄目銀行のままである。公的資金と云う名の税金を投入して不良最近を処理したはずなのに、今の株価200円台とは、いったいどういうことなのだ。

なぜに、この巨大銀行が駄目なのかは表題の本に詳しいので、読んでもらうのが一番だ。派閥村の泳ぎ方だけに長けた駄目頭取の迷走に代表される、みずほ銀行の醜態が、これでもかというぐらいに書かれている。

時々TVにも登場する須田氏は金融ジャーナリストとして著名だが、率直に言って左翼的マスコミ人であり、大企業に対して批判的な立場をとりがちなことが多い。その点を差し引いても、この巨大銀行の醜態はあまりにヒドイ。

金融システムを一時的に止めても、このような駄目銀行は市場から退場してもらい、新たに健全な銀行の登場を待つ方が良かったのではないか。私にはそう思えてならないのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする