今、思い出しても不運としか言いようがなかった。
1980年代初頭、全日本プロレスはジャイアント馬場がNo1であり、No2がジャンボ鶴田であった。そしてNo3の地位に甘んじていたのがタイガー戸口であった。
在日韓国人であり、柔道でも十分な実績があった戸口は、日本プロレス期待の新人であり、アメリカ修行時はキム・ドクとして活躍した。実力は筋金入りであり、アメリカの大型プロレスラーにも見劣りしない頑丈な体躯と、激しい闘志、立ち技から寝技まで対応できる実力者であった。
天龍が全日本入りする以前は、タイガー戸口こそがジャンボ鶴田の格好のライバルとされていた。ラフファイトだったら、案外鶴田よりも強かったかもしれない。ファンにそう思わせるだけの実力はあった。
しかし、全日本では永遠のNo3の位置であることは明白だった。だからこそ、アントニオ猪木率いる新日本プロレスへ移籍した。もちろん、最大の売りは、アントニオ猪木との一騎打ちだ。
場所は田園コロシアム、ファンの期待は高まり、全日本のナンバー3が猪木相手に、どこまで戦えるかに注目が集まった。タイガー戸口は全日本でこそNo3だが、アメリカでは全米屈指の悪役レスラーとして君臨した実力者である。
久々の大物日本人レスラーの対決に、プロレス専門誌や、東京スポーツなどの紙面は熱く燃えた。当日は部活があり、試合を見に行くことは出来なかった私だが、その日は大学の部室のオンボロTVでクラブの同期たちと観戦するつもりであった。
しかし、熱く燃えたのは日本人だけではなかった。その日の田園コロシアムの盛り上がりは、外人レスラーにも火を付けてしまった。セミファイナルは、大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントと、ブレーキの壊れたダンプカー、スタン・ハンセンとのシングルマッチであった。
アンドレもハンセンも、持てる技術、力を最大限駆使しての凄まじいファイトを繰り広げた。たいして期待していなかった私だが、この試合は座って観ていることが出来なかった。
気が付いたら、立ち上がり、叫び、腕を振り回し、足をジタバタさせて観戦に夢中になった。この試合、日本のプロレス史上に残る名試合であり、伝説ともなった試合であった。
気が付いたら、猪木対戸口のメインイベントが始まっていたが、私はさっぱり覚えていない。直前の試合の印象が凄まじすぎて、この試合をさっぱり思い出せないのだ。
あまりに不運、あまりに不遇、あまりに不幸であった。おかげで、タイガー戸口は全日本プロレス時代よりも地味な存在となってしまった。断言するが、実力は高く、テクニックあり、寝技あり、ラフファイトありの万能型の大型レスラー。
ただ、あまりに運がなかった。実力に見合わぬ不遇は、彼をすねさせ、幾つもの団体を渡り歩く流れ者にさせてしまった。弱いならともかく、強かっただけに不幸であった。
私はこの人を思い出すと、失敗には原因が、成功には運が必要だとの金言を思い出さずにはいられない。ちなみに引退後は、郷里の葛飾で後進を育てて、静かに暮らしてるようです。如何に不遇であろうと、プロレスから離れられなかったのでしょう。きっと、プロレスが大好きだったのだと思いますよ。