ディズニーが憎らしく思えることがある。
ピーターパンが生まれた背景には、幼児の死亡率の高さがある。これはイギリスに限らないが、乳児を含めて幼い子供たちが青年に達するまで生き残れる確率は50%に満たないことが珍しくなかった。
皮肉なことに、だからこそ当時の人類は多産であった。そうでなければ人類は生き残れなかった。腹を痛めて産まれてきた子供を亡くした経験を持たない母親は稀であった。
だからこそ、ピーターパンは生まれた。乳母車から落ちていなくなってしまったピーターは、妖精たちに助けられて生き延び、人としてではなく、半妖精として育ち、子供たちをネバーランドに導いて楽しい冒険をさせてくれる。
20世紀に入り、イギリスで戯曲として人気を博したピーターパンをアニメーション映画として世界中で大ヒットしたのはご存じのとおり。だが、敢えてウォルト・ディズニーが端折った場面がある。
妖精の女王にお願いして、このまま半妖精として生きる決断を下す前に、ピーターはママの元を訪れている。「あァ、可哀そうなピーター」と枕を濡らしながら寝言を呟くママに抱き着きたい気持ちに嘘はなかった。
だが、すでに公園で自由気ままに楽しく暮らすことを覚えていたピーターは、それを捨ててママの元に戻ることに躊躇う気持ちが強かった。迷いながらも、毎日、家の窓から入り込んで、ママの寝顔を見つめる毎日。
だが、ある日家に入ろうとすると鉄格子がはまっていて、その窓のガラス越しに見えたのは幼子を胸に抱くママの幸せそうな笑顔であった。ここに至り、半妖精であるピーターパンは生まれる。
ピーターパンの物語を必要としたのは、実は子供たちではない。ピーターパンの物語を子供たちに読み聴かせるお母さんたちにこそ、ピーターパンは必要であった。
ディズニー映画を否定する気はないが、ピーターパンは哀しき母親たちのためにこそ生まれたことは、どうか頭の片隅に置いていてください。