ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

医学生 南木佳士

2015-07-21 12:07:00 | 

優しいだけではダメなのだろうか。

この季節、時折思い出すのは20代前半、既に会社を辞めて新しい人生を目指して、税理士試験に挑んだ最初の夏だ。当時、週3回専門学校に通い、毎日8時間ほどの勉強を繰り返していた。

あの頃の猛勉強は、大学受験を遥かに超えて、質量ともに重厚な受験生活であった。気力も充実していたし、結果も伴っていた。5月の全国模試では簿記論で全国1位になったこともある。もっとも7回の模試のうちの一回だけであり、トータルでは40位程度であった。

だから慢心なんてありえなかった。十分合格圏に入っていたが、過去のデーターから油断は大敵だと分かっていた。心地よい緊張のもと、猛勉強に励んでいたのだが、ふと気が付くと手足が浮腫んでいるように思えた。

恐怖心を押し隠しながら大学病院を訪れると、主治医は「ちょっと詳しく診てみよう。今忙しいから、病室で休んでいなさい」と穏やかに語り、私は呆然としながらも、待合室で待っていた。

そこへ顔見知りのヘルパーさんが車椅子をもって現れ、私を載せると一昨年10か月あまりお世話になった病棟へ運ばれた。懐かしのナースステーションに着くと、数人の看護婦さんたちが駆け寄ってきて「再発しちゃったの?また入院だね」と言うので、もう諦めた。

軽いショックから抜け出し、病室のベッドの上で、やはり再発なのかと自分を無理やり納得させていた。夕刻、外来診療を終えた主治医がS先生を連れて、私の病床に訪れて、入院加療が必要なことを話してくれたが、もう分かっていたので呆然と聞き流す。

S先生は患者からの信頼の厚い医師であるとの評判を聞いていたので、ひとまず安心する。夜になり母が寝間着等入院道具をもってきてくれた。余計なことを云わずにいてくれたのがありがたかった。

病棟の夜は早い。9時には消灯し終身である。まだショックから抜け切れぬまま、私は静かに寝てしまったが、あまりに早い就寝であったので、深夜に目を覚ましてしまう。

ようやく気持ちが落ち着き、冷静に今後のことを考えてみる。おそらく半年は入院だろう。ステロイドの大量投与もあるだろうから、しばらくは外出もままならぬ身体となるだろう。8月の国家試験には、どう考えても間に合わない。

今までの努力が思い出されて、気が付いたら泣けてきた。声を出さず、歯を食い縛って涙した。朝になって顔を腫らしているのも嫌なので、洗面所で顔を洗い、再びベッドに戻った。すっきりしたので、すぐに寝付いた。

翌朝、朝食を終えるとS先生がやってきて、若い先生を紹介してくれた。インターンのU先生とのこと。イルカに乗った少年で人気を博した城みちるに似た風貌の優しい顔立ちの青年であった。

私にインターンが付くのは、前にもあったので、別に驚きはない。私が驚いたのは、このU先生がえらく人懐っこいことであった。話好きだし、医師の卵として患者に接することが嬉しくて仕方ない様子が見て取れた。

だが、長期の入院生活を経験済の私は、少し危うく思っていた。この病棟は普通の内科病棟ではない。全国から難病患者が集まってきている特殊な病棟である。

原因も分からず、治療法も確定していないが故の難病である。その長期にわたる療養生活は、身体だけでなく心を痛めつける。率直に云えば、心がねじくれた癖のある患者が少なくないのが特徴であった。

未来に希望を持てない患者は、時として弱いものイジメをすることがある。私の嫌な予想は当たり、この優しげなU医師は、インターンという弱い立場にあるがゆえに、長期入院している心のねじけた患者たちのイジメのターゲットにされてしまった。

最初は溌剌としていたU医師だが、次第に暗い表情を覗かせることが増えたように思う。一部の患者たちに嘘をつかれたり、あらぬ噂を流されているらしいことは、私の耳にも入っていた。

半年は入院することを覚悟していた私だが、予想に反して4ヵ月ほどで退院できた。ただし、治ったわけではなく、病床の空きが欲しかった病院側の都合で、比較的元気な私が、自宅療養に切り替えられただけだ。

私は、これ幸いとさっさと退院したが、その後も病棟には時々遊びにいっていた。いつのまにやら、U医師の姿は消えていた。看護婦さんたちは口を濁していたが、どうも他の科に移されたようだ。普通は一年はいるはずなので、なにか特殊な事情があったのだろう。

U医師は、病気の母を介護した幼き日の思い出から、医師への道を目指したと語っていた。その純粋なる動機は、その話を聞いた治る当てのない患者たちの反発を生んだことに気が付くのが遅かった。

あまりに無邪気な善意は、時として人を傷つける。彼はまだ若いので、きっと他の科で立ち直ったと信じたい。

表題の書は、現役の医師である作者が、その若かりし頃の医学生時代を振り返った作品です。どちらかといえば純文学志向の強い南木氏ですが、本作は珍しく大衆小説路線で書かれている。そのために読みやすいのですが、私はついついその医学生たちを身近に見ていた、20代の長期入院を思い出します。

若かりし頃の迷いと錯誤、誰の人生にもある重要な岐路と、その決断を劇的ではなく、淡々と描いていることが印象的でした。機会がありましたら是非どうぞ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする