私が寒いのが嫌いな理由の一つは、寒さが貧しさを思い出させるからだ。
小学生から高校までを過ごした三軒茶屋の街は、賑やかな商店街で知られている。でも、少し裏通りを行けば、古びた長屋が軒を並べる一画が幾つかあった。
板塀すらもひび割れていて、割れた窓ガラスには段ボールが貼り付けてあった家もあった。一見すると、人が暮らしているようには思えない。でも、慣れてくると分かってくる。みんな隠れて暮らしていることに。
アパートというにはボロすぎる家屋は、やはり長屋と呼ぶのが相応しかった。平屋建てで、あの当時でさえ築50年はとっくに超えていたと思う。日本家屋ではあるが、屋根に瓦はなく、代わりにトタン板が打ちつけてあった。
初めて、その長屋を見た時は、取り壊し前の廃屋だと思ったが、実はこの長屋には十数人が暮らしていることをクラスメイトから教えてもらった。信じ難かったが、彼らが言うには昼間は出てこないだけでなく、隠れているので分からないだけだと。
誰から隠れているのかと問うと、口に指を当てて、そっと耳打ちしてくれた。「借金取りからだよ」と。
そう教えてくれたクラスメイトは、家が酒屋を営んでいる。だからこのオンボロ長屋の住人たちに、酒や食い物の代金の貸しがあるので、そのことを知っていたようだ。
不思議と彼は、このオンボロ長屋の近くで遊びたがった。草が生い茂ってはいたが、遊ぶには足りる広場があったので、別に私は構わなかった。でも、他のクラスメイトには嫌がる連中もいた。なんでも、貧乏菌が移るとか言って、オンボロ長屋の住人を嘲笑っていた。
でも酒屋の息子は、そこの広場で遊ぶことに拘っていた。他にも広場があったので、転校生の私は少し不思議に思っていた。後になって、酒屋の息子が、その場所で遊んでいたのは、親の言いつけであったことを教わった。
はっきりとは云わなかったが、親からオンボロ長屋の連中が逃げ出さないように見張っていろと言われていたらしい。もっとも小学生の見張りなんて、たいして役に立つ訳ないので、実際は監視しているぞとの意思表示であったのではないかと思う。
正直に言えば、子供の私でさえこのオンボロ長屋に棲んでいる連中は、惨めったらしく思えた。いつも人目を憚るようにコソコソと動き回るのを見ると、浅ましく思えてならなかった。
中学に進学して夜遊びをするようになると、このオンボロ長屋の連中も、夜の繁華街で仕事らしきことをしているのを見かけるようになった。もっとも、あれを仕事と言っていいのか、いささか疑問でもあった。
連中は主に、飲食店から出る廃棄食材などを貰っていた。代金代わりに、その店の周囲を掃除片付けなんかしていたが、見た目がボロボロなので、深夜に店が営業終了してからやっていた。
それだけじゃない。道路で酔いつぶれた酔っ払いを介抱するふりをして、財布などを抜き取るようなこともしていたらしい。商店街の人たちに目を付けられていたので、見つかって袋叩きにされていたのを見たことがある。
それでも彼らがこの街から追い出されることはなかった。それどころか、駄賃を与えてゴミ掃除やドブさらいなどの雑用を言いつけて、彼らの生計の一助となるような親切さもあった。
子供心にも、あんな大人にはなりたくないものだと蔑んでいたので、ちょっと不思議には思っていた。あの頃は、なぜに追い出してしまわないかと思っていたぐらいだ。
それから数年たって、私はその街を離れて大学生として、山登りに夢中になっていた。その冬は九州に遠征しての長期登山であった。あれは忘れもしない宮崎県の西部の山を渡り歩いていた時だ。
いくら南国九州でも冬は寒い。標高1000メートルを超えれば、夜は氷点下が普通である。その日は避難小屋に泊まったのだが、この小屋がオンボロで、隙間風が吹き込んできて、寒いなんてもんじゃなかった。
あまりの寒さに、避難小屋の中にドームテントを張って、一夜を過ごすことにした。テントなんて布一枚だが、それでも寒さは相当にしのげた。寒さとは、体温を外気に奪われることだと知ったのもその頃だ。
だから雨と風をしのげる場所でないと、人間は寝ることが出来ないのだと痛感したものだ。つまり、壁と屋根がないと、人は暮らすことが出来ない生き物なのだ。
当時のクラブの方針で、冬の時節は雪山を避けて、里山を登ることが多かった。あまり人気がない藪山にもけっこう登った。すると自然に気が付くことがある。標高の低い山の谷筋には、意外な場所に家、あるいは家らしき建造物があった。
地図に記載はないのだが、人が住んでいる雰囲気があった。もちろん山里に住む人たちの仕事小屋であることも多い。だが、人目を憚るような場所に、ひっそりと建っている謎の建物もけっこうあった。
誰かが暮らしているのだろう。もの凄く不便な場所だと思うが、このような場所は意外と近くに水場があることが多く、藪山を彷徨う私らにはありがたい目印でもあった。多分、世捨て人の家ではないかと思っている。どうやら、私が思うよりも、世の中は複雑であるようだ。
やがて社会人になった私は、もう山には登らなくなった。長い療養生活の後、再び働き出して今日に至る。いろいろと見聞を深め、幼い時の稚拙さに頬を赤らめてしまうこともある。
子供の頃の、あの繁華街の裏手にあったオンボロ長屋のことも、やはり頬を赤らめてしまう思い出である。今なら分かる、あのオンボロ家屋にひっそりと隠れ住む人たちの気持ちが、少しだけ分る。
いかなる理由で、逃げ隠れるに至ったのかは知らないが、あのようなオンボロの建物でも、雨風がしのげる家は絶対に必要だったのだろう。あそこが、彼らの最後の拠り所であったのだと、ようやく分かった。
子供であったとはいえ、私はあまりに未熟であったようだ。その後40代の頃だが、あの場所を、たまたま訪れたら、既にオンボロ長屋はなくなっていて、そこには瀟洒なマンションが建っていた。
その時に感じた寂寥感には、思わず違和感を覚えたほどだ。別に愛着があった訳でもなく、ただの遊び場所の傍にあった家の一つに過ぎないはず。でも、あるべきはずのものが、何時の間にか無くなっていた寂しさを感じざるを得なかった。
相変わらず商店街は賑わっていたが、そこはもはや私の知る街ではなかった。華やかなれど、どこか空虚な感じがして馴染めなかった。何かが違うと思い、しばし考え込み、ようやく気が付いた。
今、私の目の前にある商店街には、店先で雑談にふけりながらも、周囲に目を光らせている店番の婆さんもいなければ、店の手伝いをしている子供もいなかった。値引き交渉をしている爺さんもいなければ、子供を背負いながら、両手に買い物袋を抱えたママさんもいなかった。
あの頃の商店街は、うるさくて、騒々しくて、お節介だった。私ら子供がうろついていると、必ず誰かが声をかけてくれた。みんな顔見知りなので、悪さなんて出来なかった。だから、ちょっと苦手であった。
今、私が見ている商店街は、綺麗な店舗、POSシステムのレジスター、監視カメラが至る所にあり、新しい時代を感じさせる。でも、どこか人間味のない、冷たい印象が否めなかった。
これでは、あのオンボロ長屋の存在が許されないのも無理ないと思った。あの頃よりも、今のほうが経済的には豊かになったのだろう。でも、人のつながりとか、人情の部分ではむしろ貧困になった気がしてならない。
年の瀬の深夜は、毎年冷え込むものだ。冷たい風の唸り声を聞きながら、あのオンボロ長屋の住人たちは、どこへ消えたのだろうと思うことがある。もしかしたら、山裾の谷筋沿いの人目につかぬ掘立小屋に逃げ込んだのかもしれない。
昔から日本では、山奥は逃亡者の避難場所であったから、きっと今もどこかにあのようなボロボロの家に隠れ潜む人たちがいるのだろう。世間の冷たい視線から逃れて、それでも生きているのだろうと思う。
冷え込む夜は、いろいろと考え込んでしまうものです。