Jリーグの申し子、それが川崎フロンターレの中村憲剛選手である。
都立久留米高校から高校サッカー選手権に出場歴があるが、ジュニアからユースまで日本代表経験はない。私は高校サッカーのファンで、しかも高校よりも個人に興味があるので、有望な選手はたいがい目を付けている。
だが、中村憲剛選手は完全に見落としていた。まるで気が付かなかった。サッカーでは上手い選手は私立高校へ流れるので、都立高が選手権に出ること自体、わりと珍しい。その中心選手であったはずなのだが、私はまるで気が付かなかった。
調べてみると、たしかに選手権の試合自体私は観ていた。だが、中村選手はまるで目立たなかったので、私は見落としていたようだ。改めてユーチューブで試合を見直すと、相手選手に執拗にマークされていた。そのため、まるで活躍できなかったのだと分かった。
本来ならば、高校卒業で消える選手である。だが川崎フロンターレのスカウトは見逃さなかったようだ。最初は二軍にいたようだが、直にトップチームに上がってきた。当時のフロンターレは、ブラジル人のジュニオールという選手が中心であった。
しかし、気が付いたらチームのゲームメイカーは中村憲剛選手になっていた。彼の右足から繰り出される長短入り混じったパスは、フロンターレを超攻撃的なチームに変えた。
私が彼に注目したのは、その縦パスに特徴があったからだ。当時の日本人ゲームメイカーは中村俊輔、小野、遠藤、小笠原、中田英、名波と優秀な人材が揃っていたが、憲剛ほど縦パスを柔軟かつ明確に出す選手はいなかった。浮き球から走らせる球までパスが多彩であり、見ていて楽しかった。
だが、当時のフロンターレは守備が緩かったり、優勝への狡猾さが足りなかったりして、天皇杯で優勝は出来ても、リーグ優勝は出来なかった。それでもチームの中核である中村憲剛選手の輝きが濁ることはなかった。
彼を代表で観たい、そう思ったサッカーファンは私だけではないと思う。だが、当時の日本代表の中盤は、黄金世代を中心に人材が有り余っていた。なかでも中心選手である中村俊輔とポジションが被り過ぎる。私はそう悲観的にみていた。
しかし、当時の日本代表監督であるオシムは違った。なんと代表に呼ぶだけでなく、俊輔と憲剛を縦に並べてゲームを活性化させることに成功した。中盤でボールを回す傾向の強い俊輔と遠藤にとって、憲剛の登場はずいぶんと刺激になったと思う。
オシム監督が病気から退任された後を継いだ岡田監督も、引き続きこの異才を代表に呼び続けた。それが南ア大会である。本大会での出場機会こそ少なかったが、予選を通じチームを活気づけたのは確かだと思う。
30を過ぎてもフロンターレ一筋であり、チームの王様として君臨し、念願のリーグ優勝も手に入れた。あの時の彼の感極まった涙は、私にも忘れがたい思い出である。
現在、Jリーグで最も世界的な知名度のある神戸ヴィッセルのイエニスタが、一度は一緒にプレーしたい選手として中村憲剛を挙げているほどの異才である。十代の頃は無名に近かったが、Jリーグで花開いたこの異才も今年で40歳。
先日、遂に今シーズン限りでの引退を発表した。
長い間、フロンターレ一筋で頑張ってきた中村憲剛選手、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。とても好きな選手でした。