ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

法治の崩壊

2022-07-12 09:02:44 | 社会・政治・一般
人間は優しくもなれるが、残酷なことも出来る。

多くの場合、正義の看板を掲げた時こそ、人は敵に対して残酷になる。とりわけその正義が神のお墨付きを得た時こそ、人はもっとも残酷になれることは、歴史が証明している。

なかでもユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような一神教は強烈だ。神の正義を前面に出せば出すほどに、その残酷さに磨きがかかる。神の敵たる悪魔が、かつての天使長ルシファーの堕天した姿である事は実に興味深いと思う。

西欧が近代化出来た最大の要因の一つは、宗教を政治から遠ざけることが出来たからだ。神の正義を看板に掲げると、どうしたって間違いは認められない。妥協でさえ神への背信とみなされるがゆえに、中世の欧州は戦乱が絶えなかった。

ルネッサンス、宗教改革を経て、科学が神の座にとって替わった(神は死んだ)ことで、欧州は近代へと飛躍できた。実はこれ、21世紀の現代でも、未だに出来ていない国のほうが多い。

論理的思考や道義的話し合いによる契約や条約よりも、民族の感情、宗教的倫理観を優先する国は、見かけ上近代化を成功したかにみえて、実は思考面では中世そのままである。

一例を挙げれば、汎用型半導体大国である隣の半島国家がその代表である。納期は守らない、契約は破る、国際条約でさえ無視して、自分たちの民族感情を相手に押し付けようとする。上っ面、近代国家に見えるが、中身は中世以来変わっていない。

では我が国はどうかと言うと、西欧とは違うやり方で宗教を政治から遠ざけることに成功している。鎌倉幕府は形式(天皇)は捨てて、実質(武家統治)を取ることで、権威と実権の分離に成功した。この前例は貴重だ。ただし仏教勢力は残った。

そして戦国時代に信長は敵対する宗教勢力を残酷に殲滅し、それを秀吉、家康が引き継ぎ、政治と宗教を完全に分離した。この政教分離が出来ていたからこそ、西欧の近代化を受け入れることが出来た。

政治が宗教に悩まされたのは500年近く前であるためか、はたまた歴史教育において宗教の怖さを教えていないせいか、日本は宗教に対して恐ろしく寛容である。

先週末、安倍・元首相が暗殺されたが、その動機は政治的なものではなく、家族を某宗教団体に壊されたことを基因とする逆切れであった。

この記事を書いている10日の段階では、その宗教団体が統一教会系のものであることを報じているのは、一部の雑誌とネットだけである。相変わらず、新聞とTVは、宗教に対しては及び腰だ。

オウムの時、坂本弁護士が拉致殺害された時とまったく変わっていない。おそらく官庁の記者クラブで、宗教団体名が出るまでは、口を濁し、見て見ぬふりを続けるのだろう。

私は信教の自由は支持するが、宗教団体を放置することには反対だ。宗教は、人知の限界を超えて人を救済できる(思い込みだとしてもね)が、同時にその宗教団体の目的によって洗脳することが出来る。

かつて半世紀近く前、半島からやってきた統一教会が、霊感商法で荒稼ぎをして、多くの国民を不幸のどん底に追いやった時と同じことを今も繰り替えている。それを放置してきたことの意味と結果を考えて欲しい。

日本の憲政史上、最も外交で成功した安倍・元首相を失ったのは何故か。これを民主主義の危機だと論じる人がいるが、私は少し違うと思う。これは、国家が国民を守ることを放棄したこと、すなわち法治の失敗である。

その根底にあるのは、日本人が宗教に対して甘すぎるからだ。もちろんまともな宗教も多数ある。多くは良心的な信仰なのだろう。その一方、オウムや統一教会のようなカルト宗教も存在する。そして事実上、放置されているからこそ、今回の暗殺事件は起きたと私は考えています。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする