私にとって戦前のエリート軍官僚の悪しき代表が瀬島龍三と辻政信である。
どちらも嫌悪感を否定するのが難しいほど不快な奴らであり、生き方は若干違うが卑怯者であることは同じである。
でも、これだけはほぼ確信している。瀬島も辻も身近にいたら、その卑劣さよりも人間的魅力に惹かれてしまったであろうことを。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、二人の人生を様々な書から判じるに、ほぼ確信に近い。奴らは一人の人間としては、極めて魅惑的なのだ。
私が嫌悪して止まない最大の理由は、彼らの責任感のなさである。とにかく絶大な権限を奮う癖に、その結果責任を問われることを嫌がる。その癖、賞賛は受け入れているのだから、実に節操のない輩である。
この責任感のなさの発端は日露戦争にある。あの戦争を指導した日本の参謀本部の失態は、正直戦争犯罪に近い。あれだけ失策を繰り返しながら、戦後罷免等されたのは参謀本部に批判的な将官だけで、失策を重ねた将官たちはずうずうしくも出世している。
日露戦争に勝てたのは、一つにはロシアが日本以上に失敗を重ねたからであり、終戦を決断できなかった無能な日本政府に代わってアメリカのセオドア・ルーズベルトが仲介の労を果たしてくれたからだ。
当時、日本は国力差が数倍の大国ロシア相手にギリギリの戦いをして、武器、食料、兵員などの欠乏に苦しみ、その悲惨さを知っていながら戦争の終結を行えずにいた。戦争を提言し、勝利を確約した日本軍の参謀本部は無為無策であり、役立たずであった。
日露戦争は、西欧の侵略に対するアジアの初の勝利であり、その歴史的大義は巨大である。だからと言って、失敗に失敗を重ねたことに変りはなく、戦後するべきことは勝って兜の緒を締めることであった。
しかし、勝った勝ったと浮かれ、自らの功績だと自画自賛し、反省するべきをせず、自らの失策を批判した者たちを追いやり、勝利の美酒を独り占めしたのが当時の日本軍であった。これ以降、エリート軍官僚は権限奮えど、その結果責任は問われないことが慣習となってしまった。
この悪しき前例は後々まで踏襲されたばかりでなく、軍部以外の官庁でも右に倣えと真似する醜態であった。日本の官庁は絶大な権限を持つ。その権限をもって様々な政策を実施するが、その結果については責任を問われないといった悪習は、日露戦争をもって始まる。ただし、エリート様限定の悪習である。
その悪しき典型といえるのが瀬島であり辻であったと思う。
表題の作品は、終戦間際、日本の敗北を不可避とみて、自らは戦犯とされることを予感した辻政信の逃亡記である。正直に云えば、下手な冒険小説よりも面白い。それは惨めで情けない逃避行であるのだが、それだけに興味深い。ちなみにアメリカのCIAは、この逃亡録を概ね真実に近いと判断している。
読んでいて感じたのは、自らを悲劇の主人公だと美化する自意識の凄まじさと、自らの失策から目を背け続ける羞恥心のなさである。それだけに生き延びることへの執念は凄まじい。
なまじ優秀であるがゆえに、その智謀を駆使して逃げ続ける醜態は、下手なクライム・ミステリーよりも面白いと断言できる。
辻は自らが戦犯として裁かれる恐れがなくなってから帰国している。そして、あろうことか国会議員様になっている。このあたりの処世術は、瀬島にも相通じるものがある。
こんな卑劣漢が選挙に勝てたのは、戦後の日本が真摯に敗戦の反省を避けてきたからに他ならない。辻の企画した作戦が、如何に多くの兵士を無様な死に追いやったかを反省することなく、ただ謝ればいいだろう、戦争を否定すればいいだろうとした安易な平和主義が、辻を国会議員に仕立て上げた。
多分ね、戦後刊行された本書だけ読んでいたのなら、私も素直に騙されたと思いますよ。この卑怯者の見事な言い訳であると分かった上で、覚悟をもって読んで欲しい一冊です。