The Constitution of JAPAN すなわち日本国憲法である。
最近つらづら思うのだが、Constitutionを憲法と末オたのは拙かったのではないか。
日本人の場合、憲法といえばやはり聖徳太子である。「和をもって尊しと為す」で知られる憲法がどうしても脳裏から離れない。
聖徳太子の実在の是非はともかく、この憲法が実際に存在したことは確かだ。そしてこの憲法は、ほとんど守られなかった。そもそも違反したところで罰則はなく、額に入れて高く掲げておけばいい程度の存在であった。
書かれていることが如何に立派であろうと、守られなければ何の価値があろうか?いや、理想を掲げる程度の価値はあったのだろう。実際、日本人の心情に深く刻まれたからこそ、今日まで人々の記憶に残った名文なのだから。
しかし、だ。西欧で生まれた議会制民主主義の下での憲法とは、この聖徳太子の憲法とは全く異なるものだ。王様による支配が絶対的権利として強要された時代は、商人階級の人々の不満を溜め込み、その爆発が民主主義革命として西欧を席巻した。
民主主義革命とは、血で血を洗う激烈な戦いそのものだ。王や貴族から権利を奪い取り、市民自らの権威を確立させた戦いであり、憲法とはその勝利の結実そのものだ。
憲法とは、立ち上がった市民が自らの権利を王たちに認めさせた誓約書であり、断固として守らねばならぬものだ。王たちの奴隷としてでなく、自らの国家のあり方を決めた取り決めごとなのだ。
しかし遠く日本では事情が異なる。強力な軍事力を背景に不平等な貿易条約を強要された屈辱と、その不利益を覆すため、蛮族ではなく近代国家であることを見せ付けて、平等な関税条約を締結を目指すことが明治政府の至上の命題だった。
欧米から見下されないための方便としての憲法であり、議会制民主主義であった。近代化といえば経済(近代的工場や金融制度)や軍事(欧米型の軍隊)といったハード面が目立つが、その支えとなるソフト面(法制度)での近代化も必要だったからだ。きわめてリアリストであった明治維新政府の指導者たちは、そのために民法、商法さえも末オて導入した。
正直言って、末ウれた民法や商法はは日本の伝統社会に適合したとは言いかねるが、帝國大学を中心に法制度の日本的掏りよせを行い、長い歳月をかけて日本に定着させた努力はすごいと思う。
問題は憲法だった。明治憲法はプロシア憲法を参考にしたものだが、当時から既に齟齬はあった。しかし、表向きは問題にならなかった。今にして思うと、当時から日本国民には憲法は高いところに掲げておけば良く、その中味には興味はなかったらしい。
しかし、国家のあり方を定めたルールだけに、政権内部では当然に大問題であった。この憲法の欠陥を軍部につかれて、文民統制に失敗した結果が中国における軍部の独走であった。最終的には太平洋戦争の敗北といった形に終わったことは、断固として歴史に記されるべきだ。
ところが、戦争が終わった終わったと浮かれたバカどもは、戦争の反省は頭を下げればいいと勘違いした。なぜに戦争が起きたのかさえ、いい加減に反省して誤魔化した。
だから現在の憲法が抱える問題さえ直視しようとしない。憲法なんて立派な額に入れて飾っておけばいいと考えているようだ。たしかに聖徳太子の憲法はそうだった。
しかし、議会制民主主義の下での憲法は、それでは困る。ご立派な理想を掲げたものが憲法ではない。政府のあり方を定めた基本法が憲法なのだ。
やはりConstitutionを憲法と訳したのは適切ではなかった。国家基本法とでも訳すべきだったと私は考えています。
最近つらづら思うのだが、Constitutionを憲法と末オたのは拙かったのではないか。
日本人の場合、憲法といえばやはり聖徳太子である。「和をもって尊しと為す」で知られる憲法がどうしても脳裏から離れない。
聖徳太子の実在の是非はともかく、この憲法が実際に存在したことは確かだ。そしてこの憲法は、ほとんど守られなかった。そもそも違反したところで罰則はなく、額に入れて高く掲げておけばいい程度の存在であった。
書かれていることが如何に立派であろうと、守られなければ何の価値があろうか?いや、理想を掲げる程度の価値はあったのだろう。実際、日本人の心情に深く刻まれたからこそ、今日まで人々の記憶に残った名文なのだから。
しかし、だ。西欧で生まれた議会制民主主義の下での憲法とは、この聖徳太子の憲法とは全く異なるものだ。王様による支配が絶対的権利として強要された時代は、商人階級の人々の不満を溜め込み、その爆発が民主主義革命として西欧を席巻した。
民主主義革命とは、血で血を洗う激烈な戦いそのものだ。王や貴族から権利を奪い取り、市民自らの権威を確立させた戦いであり、憲法とはその勝利の結実そのものだ。
憲法とは、立ち上がった市民が自らの権利を王たちに認めさせた誓約書であり、断固として守らねばならぬものだ。王たちの奴隷としてでなく、自らの国家のあり方を決めた取り決めごとなのだ。
しかし遠く日本では事情が異なる。強力な軍事力を背景に不平等な貿易条約を強要された屈辱と、その不利益を覆すため、蛮族ではなく近代国家であることを見せ付けて、平等な関税条約を締結を目指すことが明治政府の至上の命題だった。
欧米から見下されないための方便としての憲法であり、議会制民主主義であった。近代化といえば経済(近代的工場や金融制度)や軍事(欧米型の軍隊)といったハード面が目立つが、その支えとなるソフト面(法制度)での近代化も必要だったからだ。きわめてリアリストであった明治維新政府の指導者たちは、そのために民法、商法さえも末オて導入した。
正直言って、末ウれた民法や商法はは日本の伝統社会に適合したとは言いかねるが、帝國大学を中心に法制度の日本的掏りよせを行い、長い歳月をかけて日本に定着させた努力はすごいと思う。
問題は憲法だった。明治憲法はプロシア憲法を参考にしたものだが、当時から既に齟齬はあった。しかし、表向きは問題にならなかった。今にして思うと、当時から日本国民には憲法は高いところに掲げておけば良く、その中味には興味はなかったらしい。
しかし、国家のあり方を定めたルールだけに、政権内部では当然に大問題であった。この憲法の欠陥を軍部につかれて、文民統制に失敗した結果が中国における軍部の独走であった。最終的には太平洋戦争の敗北といった形に終わったことは、断固として歴史に記されるべきだ。
ところが、戦争が終わった終わったと浮かれたバカどもは、戦争の反省は頭を下げればいいと勘違いした。なぜに戦争が起きたのかさえ、いい加減に反省して誤魔化した。
だから現在の憲法が抱える問題さえ直視しようとしない。憲法なんて立派な額に入れて飾っておけばいいと考えているようだ。たしかに聖徳太子の憲法はそうだった。
しかし、議会制民主主義の下での憲法は、それでは困る。ご立派な理想を掲げたものが憲法ではない。政府のあり方を定めた基本法が憲法なのだ。
やはりConstitutionを憲法と訳したのは適切ではなかった。国家基本法とでも訳すべきだったと私は考えています。