ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

日本国憲法に思うこと

2009-09-21 12:15:00 | 社会・政治・一般
The Constitution of JAPAN すなわち日本国憲法である。

最近つらづら思うのだが、Constitutionを憲法と末オたのは拙かったのではないか。

日本人の場合、憲法といえばやはり聖徳太子である。「和をもって尊しと為す」で知られる憲法がどうしても脳裏から離れない。

聖徳太子の実在の是非はともかく、この憲法が実際に存在したことは確かだ。そしてこの憲法は、ほとんど守られなかった。そもそも違反したところで罰則はなく、額に入れて高く掲げておけばいい程度の存在であった。

書かれていることが如何に立派であろうと、守られなければ何の価値があろうか?いや、理想を掲げる程度の価値はあったのだろう。実際、日本人の心情に深く刻まれたからこそ、今日まで人々の記憶に残った名文なのだから。

しかし、だ。西欧で生まれた議会制民主主義の下での憲法とは、この聖徳太子の憲法とは全く異なるものだ。王様による支配が絶対的権利として強要された時代は、商人階級の人々の不満を溜め込み、その爆発が民主主義革命として西欧を席巻した。

民主主義革命とは、血で血を洗う激烈な戦いそのものだ。王や貴族から権利を奪い取り、市民自らの権威を確立させた戦いであり、憲法とはその勝利の結実そのものだ。

憲法とは、立ち上がった市民が自らの権利を王たちに認めさせた誓約書であり、断固として守らねばならぬものだ。王たちの奴隷としてでなく、自らの国家のあり方を決めた取り決めごとなのだ。

しかし遠く日本では事情が異なる。強力な軍事力を背景に不平等な貿易条約を強要された屈辱と、その不利益を覆すため、蛮族ではなく近代国家であることを見せ付けて、平等な関税条約を締結を目指すことが明治政府の至上の命題だった。

欧米から見下されないための方便としての憲法であり、議会制民主主義であった。近代化といえば経済(近代的工場や金融制度)や軍事(欧米型の軍隊)といったハード面が目立つが、その支えとなるソフト面(法制度)での近代化も必要だったからだ。きわめてリアリストであった明治維新政府の指導者たちは、そのために民法、商法さえも末オて導入した。

正直言って、末ウれた民法や商法はは日本の伝統社会に適合したとは言いかねるが、帝國大学を中心に法制度の日本的掏りよせを行い、長い歳月をかけて日本に定着させた努力はすごいと思う。

問題は憲法だった。明治憲法はプロシア憲法を参考にしたものだが、当時から既に齟齬はあった。しかし、表向きは問題にならなかった。今にして思うと、当時から日本国民には憲法は高いところに掲げておけば良く、その中味には興味はなかったらしい。

しかし、国家のあり方を定めたルールだけに、政権内部では当然に大問題であった。この憲法の欠陥を軍部につかれて、文民統制に失敗した結果が中国における軍部の独走であった。最終的には太平洋戦争の敗北といった形に終わったことは、断固として歴史に記されるべきだ。

ところが、戦争が終わった終わったと浮かれたバカどもは、戦争の反省は頭を下げればいいと勘違いした。なぜに戦争が起きたのかさえ、いい加減に反省して誤魔化した。

だから現在の憲法が抱える問題さえ直視しようとしない。憲法なんて立派な額に入れて飾っておけばいいと考えているようだ。たしかに聖徳太子の憲法はそうだった。

しかし、議会制民主主義の下での憲法は、それでは困る。ご立派な理想を掲げたものが憲法ではない。政府のあり方を定めた基本法が憲法なのだ。

やはりConstitutionを憲法と訳したのは適切ではなかった。国家基本法とでも訳すべきだったと私は考えています。
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

護憲への支持に思うこと

2009-09-18 12:25:00 | 社会・政治・一般
護憲派って本当に憲法を守りたいのだろうか。

いかに詭弁を弄しようと、自衛隊の存在は憲法違反だ。国連軍(PKO)への参加は、明らかに憲法9条に違反していると思う。

本気で憲法を守りたいのなら、断固自衛隊と称する軍隊の廃棄を訴えるべきだ。国連の軍事活動への参加を拒否するべきだ。それが憲法を守るということだと思う。

その意味でいえば、日本共産党と社民党の存在は相応の価値がある。少なくとも、この二つの政党は、現行憲法の保持を言明しているからだ。まあ、現実を直視しないが故だとは思う。ちなみに民社も自民も改憲を否定していない。

しかし、有権者の判断は辛辣だ。先の衆議院選挙の結果をみれば明白だと思う。

投票率が69%という高さであり、有権者の意思をかなり忠実に反映した結果だと思う。そして、この二つの護憲政党の獲得投票率は比例代表でみると、共産党が490万人(7、02%)であり、社民党が300万人(4、29%)と合計しても11%足らずなのだ。

護憲派とは、おおよそ有権者(7000万人)10人に一人程度の少数意見であることは明白だ。

しかし、当面憲法改正の動きは鈍いはずだと言わざる得ない。なぜなら、これまでの与党(村山政権を含めて)は自衛隊は合憲だと言い張って誤魔化してきた。国連軍への参加だって野党も含めて認めてきた。

一応、民主党では憲法改正の意思はあるが、積極的とは言いがたい。自民党でさえ及び腰なのが実情だ。理由は簡単だ。どちらの政党もその支持者たちが憲法改正に積極的でないことを感じているからだ。

現行の憲法と、現実の自衛隊の存在に疑問に思いつつも、理想論としての憲法に未練を感じているのか。それとも、敢えて戦後半世紀にわたり平和であった実績を重んじて、現状を変える必要性が逼迫してないと考えているのか。

だいたい、そんなところではないかと私は推測している。私はこれを「事なかれ平和主義」と呼んでいる。敢えて波風立てずに、今の安定を損なうことを浮黶Aなにもしない(現状維持)ことで安堵しているわけだ。

私の周囲の人間も、このタイプが一番多い。敢えて今、憲法改正なんて騒がしいことをやらんでいいよと温和な笑顔でやりすごす人たちだ。友人としては決して悪い連中ではない。大事な友達だと私は思っている。

私は友人を、自分の政治的意見や立場を強化する役割に協力させる気がないので、私もその意味で「事なかれ平和主義者」の一員でもある。矛盾しているとは思うが、憲法よりも円滑な友人関係のほうが大事なので、敢えて波風立てることは避けている。

そして卑怯なことに、誰かが猫に鈴を付けてくれないかと心中密かに願っている。

ずるいよね。

ただ、これだけは言っておきたい。外国からみれば、日本は憲法という国の基本を定めた法律を守らない国である。自国の憲法すら守れぬ国であり、当然に外国との約束だって守るかどうか分らない、信用できないと疑える国でもある。

もっといえば、日本人は憲法なんて無視して行動する国民だ。これが現実であり、いくら政府が自衛隊を合憲だと解釈しようと無駄である。状況が変れば、いとも容易に憲法を踏みにじる国、それが日本。

結果的には、日本国民の大多数は社民党や共産党の主張と同じく、護憲を選択している。むしろ護憲は虚構と知りつつ、長いものに巻かれる選択をしている。この程度の認識はしておきたい。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

指揮官たちの特攻 城山三郎

2009-09-17 12:10:00 | 
自らの命を賭けて大切なものを守る気概は、崇高であり、気高く美しい。

だけど、それは自らの覚悟の下に自発的になされるべきで、他者に強要されるものであってはならないと思う。いわんや相手が否定することの出来ない状況に追いやってから、上司の立場で部下に強要するなんて醜悪であり、卑怯の誹りを免れえぬものだと思う。

おそらくは、最初の神風攻撃は偶然の産物であろう。爆弾を投下するつもりで敵艦を攻撃せんとしたものの、機体の故障で投下できず、遂には被弾して帰還も叶わぬ。瞼に浮かぶ愛する家族を守るため、仲間を助けるため、母国を守るため自分に出来うる最上の手段として、爆弾を抱えたまま敵艦に体当たりをかけた。

敢えて言うが、別に日本人だけの特別な行為ではない。人類の歴史上、少なからぬ兵士たちが戦場で敵を倒すため、敢えて自身の命を投げ打って戦場に散ることは珍しくない。

違和感を持つ人も多かろう。どんなに惨めでも、無様であっても生きて還ることにこそ至上の価値観を見出す人もいるはずだ。死して国を守ったと褒められ讃えられようと、生きて還って欲しかったとの想いは家族なら当然だと思う。

それでも、自らの命をもって仲間を、家族を、郷里を、国家を守る行為には尊ぶべき偉業として讃えられることは必然でもある。

しかしながら、神風攻撃を作戦として公に行うことは同じではない。そもそも自爆攻撃なんてものは、取るべき戦術としては最も愚かしいものである。多大な時間と予算をかけて育成した兵士を、むざむざ死なせるような作戦は、自滅行為であり、自損行為でもある。

敢えて断言したい。真っ当な指導者ならば、自らの兵士を生きる爆弾として消耗するような状況に追いやられた段階で敗北を認めるべきだ。どうしても決行すべきだとするなら、指導者自らが率先して範をとるべき。

自分たち指導者だけが生き残って神風攻撃を命じた当時の参謀本部は、恥さらし以外の何者でもない。

更に言うなら、神風攻撃は攻撃としてはあまり成功率の高いものではなく、アメリカ軍の侵攻を止めることは出来なかったことは厳然たる事実だ。なお悪いことに、神風攻撃はアメリカ側を恐怖に落とし込め、日本を話し合いの出来る相手ではないと認識させてしまった。

誰が狂人相手に話し合いが成立すると思うだろうか。

結果としてアメリカは仮借なき戦法を取らざるえず、日本軍だけでなく日本国民全体を狂気の戦士とみなして絨毯爆撃や、原爆投下により徹底的な殲滅を目指すに至らしめた。

私としては、神風攻撃作戦は失敗だと言わざる得ない。個人の覚悟は尊敬に値するとしても、それを命じた指導者たちには醜悪さを感じざるえないのだ。

表題の本の著者、城山三郎はさりげなく書く。最初の神風攻撃の指揮官の母親が、戦後慰霊碑を建ててもらった際、その式典に神風攻撃の命名者である源田実が出席すると知り、参列を断ったことを。

当然であろう。

太平洋戦争時、日本はさまざまな愚行を犯したが、その最たるものが神風攻撃であった。敗北を認識し覚悟することができなかった愚か者の決断が、多くの有為の若者を戦場に散らす羽目に陥った。

命を賭けて守るべきものを守らんと戦場に散った若者はいざしらず、彼らを死地に追いやった戦争指導者の愚かさは断固として美化されるべきではない。

負けを認め、次を考えて優秀な若者を残すことを考えるのが年長者の務めであろう。それが出来ずに若者をむざむざ死地に追いやって、しかもぬけぬけと生き延びた戦争指導者たちに名誉は必要ない。

その醜く愚かな戦争指導者と若手兵士の間に立つ現場指揮官たちに着目して書かれたのが表題の作品です。最初に神風作戦を敢行した指揮官と、最後の最後に敢行せざるえなかった指揮官の対照的な生き様。興味がありましたら是非どうぞ。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人よ! イビチャ・オシム

2009-09-16 12:35:00 | 
オフト、トルシェ、ジーコと続く歴代日本代表監督のなかで、私が最も可能性を感じたのがオシムであった。

なによりも発言に注目が集まった。JEF千葉の監督を務めていた時は、試合後の監督会見が大人気だった。知性とウィットを感じさせ、辛辣さにヒヤリとしながらも苦笑を浮かべざるえない。取材する記者のみならず、サポーターからも関心が集まり、「今日のオシム監督の発言」などと銘打ってHPに掲載されるほどだった。

私自身は、当初オシムの名声は知らず、ただJEFのサッカーが面白いことに興味を持っただけだった。当時ほとんど無名だった羽生や坂本などの若手が気持ちよく駆け抜ける試合ぶりに、ずいぶんとサッカーのスタイルが変ったと感じたのが、オシム監督への興味の始まりだった。

この本を読んでみると、オシム監督のサッカーの指導の根幹に或る思想が分って面白い。戦術や数字でしかサッカーを語れない俄かサッカー評論家が裸足で逃げ出すような辛辣な言葉には、しっかりとした哲学があった。

人間を理解すること、文化を理解すること。その理解があってこそリスペクトが生まれ、真摯な気持ちでサッカーに臨めるとオシムは力説する。

なかでも興味深いのは、高度に完成した文明国家である日本の特徴が、サッカーにおいては弱点につながるとの指摘だった。たしかに日本では社会が定めたルールに従い、決められた努力を積み重ねれば成功への道が開けている。

しかし、世界の多くの国ではそうではない。自分で状況を見極め、自分の判断で自分の行動を決めなければならない。それは社会が不安定であり、法秩序が定まらず、コネや賄賂といった不正が横行することを意味している。

それゆえ日本は進んだ社会だと言えるし、決して悪いことではない。されどサッカーで強くなるためには、その整備された環境がマイナスに働くこともある。

サッカーのピッチ上では、状況は刻々と変るし、予め決めた戦術がいつまでも通用する保証ははい。状況の変化を自分の目で見て判断して、自ら適切な行動をとることが要求される。

だからこそオシムは力説する。監督が教えるのは戦術ではなく、選手が自分でどう判断すべきかだと。そのためにこそ判断力を養うため、様々なトレーニングをやらせるのだと。

何度も語り尽くされていることだが、オシムは他の国のサッカーを真似するのではなく、日本のサッカーを進展さすことにこそ未来があると断言する。他の国のサッカー、とりわけビッククラブを追いかけたがるサッカー・ジャーナリズムを批難し、もっとサッカーを勉強すべきだと力強く語りかける。

残念ながらオシム監督は病気のため引退を余儀なくされた。この優れた人物を失ったことは、私としては断腸の思いだ。オシムを失ったことの本当のダメージは、選手たちが一番良く知っていると思う。

今は岡田監督を気遣って発言を控えているようだが、中村俊輔や遠藤は今でもオシムのことを口にする。辞めてなお選手から慕われる代表監督なんて初めてだ。本当に返す返すも残念でならない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インセクト 松本零士

2009-09-15 12:31:00 | 
秋の訪れを教えてくれるのが赤トンボならば、夏の終わりを無言で告げるのが蝉の亡骸だと思う。

この夏は梅雨の終わりがはっきりせず、青い夏空も少なく、白い入道雲も多くはなかった。それでもネクタイをするのを止めたくなるほど蒸し暑いことに変りはなかった。

どんよりした曇り空の下であっても、相変わらず蝉の鳴き声は喧しい。だが気がつくと、その喧しさは途切れ途切れとない、歩道の片隅に蝉の亡骸が無雑作に置かれている。

何年も地下で過ごし、ようやく地上に出て、わずかの期間を生を限りに歌い上げる蝉の人生。蝉は何を思い、何を求め、何を感じたのか。

夏休みのさぼり癖がなおらず、勉強をほっぽり出して林や野原に遊びまわった子供の頃の私は、アリが運ぶ蝉の亡骸を見つめながら、しばし空想にふけったものだった。

そんな虫たちの世界を擬人化して短編漫画にまとめたのが表題の作品だ。虫の世界に託した、生きることへの疑問や、世の中の不条理と無常さ。かすかな合間に感じる温かい情愛と、それを切り裂く無情の現実。虫に託した著者の想いが聴こえてくるような短編集だった。

後年「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」といったヒット作を出した松本零士だが、私はあまり人気がない頃の作品が好きだ。人気がないと書いたが、実際は隠れた人気はもっていた。

ただ、わいわいと騒がれるような人気ではなく、ひっそりと静かに噛み締めるような人気であったと思う。友達と語り合うような人気ではなく、深夜一人でじっくりと思い起こすような人気であった。

多分、古本屋でしか見つからないと思いますが、目に付きましたら是非ご一読のほどを。何気に名作があることに驚かれると思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする