ライオンは野菜が大好き!
もちろん、アフリカのサバンナに生茂る野草を生で食べたりはしない。ちゃんとしっかり調理された野菜を、一番美味しい時期を見計らってかぶり付く。
そんなバカな、ヌマンタは気が違ったのかとお思いの貴方。ウソではありませぬ。
もちろん、ライオンに限らず多くの肉食獣は、野菜を直接食べたりしません。いや、体調が悪い時などに、薬草を食べるようなことはしますが、根本的に草を消化する機能を内臓が持っていない。
だから草を食べても、消化されずに排出される。少し動物に詳しい方なら当然、ご存知のことだと思います。私も表題の本を読むまで、そう思っていましたよ。
種を明かせば、ライオンはインパラなどの草食獣を狩り、その際に一番最初に食べるのが小腸の部分。自分では草を消化できないライオンは、インパラの胃のなかで磨り潰され、体内酵素により分解された植物が詰まった小腸を食べて、栄養を取るのです。
著者の川島博士が、実際にアフリカのサバンナを訪れて、ライオンが狩りをしている場面を直接見て確認したそうです。
まだ生きているインパラの腹を引き裂き、数頭のライオンが最初にかぶり付いたのが、あの細長い小腸だったとか。草が詰まった部分を奪い合うように貪っているそうです。
肉食獣は草を食べないと思い込んでいると、案外見逃し勝ちなのでしょうね。この本には、他にも思い込みや、間違った認識からの栄養問題を分りやすく解説しています。
私が20年前、食事療法に悩んでいる時に見つけた本です。あまり書店には並んでいないようなので、図書館や古本屋などで探してみて下さい。一読の価値はあると思います。
私はこの地域を二度ほど訪れている。初めての訪問は、小学校1年の夏の家族旅行だ。えびの高原と霧島連山を散策したことを覚えている。そして二度目は、大学一年のワンダーフォーゲル部での春合宿だ。
記憶に新しいのは大学の時だが、実はあまりよく覚えていない。天候に恵まれず、ほとんどガスのなかを歩いたせいで、きりしま連山の火口も、ほとんど見れなかった。だから今回の噴火で新燃岳の名を聞いた時も、すぐには思い出せなかったぐらいだ。
一方、未だに忘れがたいのが40年前の家族旅行の時のことだ。えびの高原にあるホテルに宿をとったのだが、最初に案内された部屋を、母が異常に嫌がった。
たしかに古い建物ではあったが、洋風であり、清潔な部屋であったと思う。ところが母が奇妙なぐらいに嫌がった。「こんな古臭い部屋は嫌だ」とゴネて、結局他の部屋に移った。
私の知る限り、母がこのような我が侭を口にしたのは初めてだ。母と旅行したことは何度もあったが、部屋を変えるなんて騒ぎを起したのは、このとき限りだと思う。
どうも、母のお化けレーダーがなにか感知したらしい。
私は自他共に認めるお化け音痴、お化け不感症なのだが、この時の母の騒いだ原因が床の間にあったことぐらいは、なんとはなしに気がついた。
正確には床の間の上の空気が重いのだ。多分、元々は和風の部屋だったのだろう。それを改築して洋風の部屋にしたようだが、なぜか床の間が残されていた。
その床の間には、磨かれた古木の横木が頭上に渡されていたのだ。いたずら好きな私は、その横木に登ってぶら下がろうとしたのだが、床の間に立った途端にやる気が失せた。
高すぎて、届かないからではない。なぜか気持ちが重くなったからだ。よく分らないが、その場に居たくない気持ちになった。母が騒ぎ出したのは、その直後だったと思う。
あの時は、まったく思いつかなかったが、あの横木、紐をわたせば首吊りに最適ではないか。
40年前のことであり、記憶もあやふやだが、印象が強かったので間違いないと思う。多分、母はなにか見たか、感じたのではないか。
昨年来、寝たきりの状態が続く母に訊ねるのも気が引けるので、確認する気はない。多分、思い出したくも無いだろうし、そういうことは分らないと、とぼけるだろう。
お化けを見たこともないし、背筋が凍るような思いをしたこともないお化け鈍感症の私が、それでも感じた怪しい気配。それがえびの高原のホテルであった。それだけに忘れ難い。
なぜ演技を楽しめない。
携帯電話でのメールを警察が解析したことから発覚した今回の大相撲の八百長疑惑。子供の頃から相撲を観てきた私からすると、なにを今更の話に過ぎない。
そもそも、相撲を素人のアマチュアスポーツと混同している。古代においては神事であったかもしれないが、江戸の昔より今日に至るまで、あれは観客を楽しませることで収益を得る興行が本質だ。
断言するが、真剣勝負は観ていて楽しいとは限らない。
私はつまらない真剣勝負よりも、面白い格闘演技のほうが好きだ。演技でなにが悪い。身体を極端に鍛え上げた力人たちの演じる相撲は、いかに演技力があろうと貧弱な一般人には決して出来ない。
土俵間際で観てみれば分る。頭蓋骨と頭蓋骨がゴチン!とぶつかり合う音の衝撃は、見ているだけで、こちらの頭が痛くなりそうだ。鍛え上げた筋肉の上に、分厚い脂肪の鎧をまとうが故に可能な荒業だ。
私は髷も結べない相撲取り(入門一年程度だった)のお腹に、全力で頭突きをかましたことがある。まるでゴムに覆われた鉄板にぶつかったような衝撃で、こちらがへたり込んでしまった。
異形の怪物だと思った。そんな相撲取たちでも、月収100万以上稼げるのは十両以上だけ。幕下の相撲取たちは、薄給で我慢せざるえない。それゆえに、どの相撲取りも、十両昇進をなによりも喜ぶ。
そして、なにがなんでも十両の地位にしがみつく。当然に、そこには八百長相撲の余地がある。以前は公傷制度があったが、無気力相撲対策でなくなった為、怪我をおしてでも試合に出ざる得ない。なおさら、星のやり取りが行われる土壌となっている。
更に言うなら、取組みの数が多すぎる。年5場所もやっていたら、真剣勝負なんてリスクが高すぎる。地方巡業もあれば、トーナメント戦もある。そんなに沢山取組みを組まれたら、当然に怪我も出る。
格闘技の興行をするなら、理想は年一回。多くても年3回程度だろう。これなら真剣勝負が出来る。だがね、真剣勝負は、観ていて必ずしも楽しいとは限らない。
勝つためには、見た目がツマラナイ地味な試合をすることは珍しくない。観客を楽しませることより、自分が勝つことのみに固執すると、素人目には凡戦となるケースは多いはず。
絶対勝つための技術なんて、地味で目立たないもの。とりわけ負けない為の技術ともなると、傍目にはイライラする。実際、プロボクシングの世界では、実力はあっても人気がないボクサーが、このタイプであることは多い。
またアマチュアの格闘技だと、当然に観客の目なんて気にしないから、地味でつまらない試合ばかりだ。玄人目には、高度な技術の応酬であったとしても、格闘技に疎い素人には、その真価が分らない。
多分、本気で八百長を止めてしまうと、むしろツマラナイ取組みが増えると思う。私としては、ツマラナい取組みを見せられるより、本気の格闘演技を楽しみたい。
神は絶対無二の存在なのか。
子供の頃から聖書に親しみ、キリスト教徒としての意識を育んできた私にとって、最大の違和感は神が絶対的な存在として規定されていることだった。
これはキリスト教に限らないが、ユダヤ教やイスラム教のような一神教では、神は絶対無二の存在とされる。他の神の存在を認めない。
このことが、子供の私にはどうしても承服しかねた。旧約聖書を読めば分るが、ユダヤの民は神ヤーウェと契約することにより、神の信者となった。この契約によりヤーウェのみを神と定め、他の神々を廃した。
廃された神々は悪魔とされ、今日に至る。なんのことはない、他にも神がいたことを聖書が認めている。その神々を排除したのは、ヤーウェとの契約によるものに過ぎない。すなわち排他的独占契約に他ならない。
なんて欲の強い神なのだろうと、子供心に違和感を抱いた。もっとも神の愛を信じるイエスを疑う気持ちにはなれず、ユダヤ教やイスラム教とは違うと思い込んでいた。
ところが歴史、とりわけ世界史を学べば学ぶほど、キリスト教の独善と排他的性格が気になるようになった。イエスが体現した寛容性の欠片も感じられないキリスト教の振る舞いには、どうしても馴染めなかった。
地球には人間に限らず、様々な生き物が生きている。地球は人間のためだけにあるのではない。いくら絶対神との契約があろうと、人間が、人間だけが地球を好き勝手していいわけない。
第一、神は本当に人間のためだけに存在しているのか。犬には犬の神が、カブトムシにはカブトムシの神がいるのではないか。一神教が奉じる神は、すべての生き物に対して存在するわけではあるまい。
生き物は、自然は、多種多様な構成によって織り成されてきた。断じて一種類の生き物によって織り成されてきたわけではない。
そう考えると、ただ一つの絶対神しか認めない宗教は、かなり特異なものだといわざる得ない。特異だからこそ、強烈な存在となりえたのだろうが、どこかに無理がある。
その無理が、産業革命を生み出し、全地球に人類の経済活動の金字塔を打ち立てることに成功した。そして、全地球規模の環境汚染を引き起こし、温暖化、砂漠化などの難題を生み出した。
たった一つの価値観に囚われることは、そこに極限的な集中と寡占を生み出して、それなりの成果を挙げるのだろうが、やはり無理があるように思う。
一つの価値観に縛られると、他の価値観の意義を認められなくなる。多様な価値観の並存こそ、本来あるべき姿なのではないだろうか。
表題の漫画は、長い間週刊少年サンデーに連載されていた。あまりに長すぎて、途中の印象が薄れているが、それでも記憶に残ったのは、あまりに強すぎる想いは人を幸せにしないってことだった。
率直に言って、この著者も強烈な想いを込めて漫画を描くタイプだ。様々な想いが詰め込まれてしまって、主題が曖昧になった側面は確かにある。
たった一人の少女の笑顔が欲しくって、どうしても欲しくって、そのために仕出かしたことが、全世界に不幸をばら撒く結果となった。
そんな不幸な世界で、みんなの笑顔が見たくって頑張ってしまった主人公の苦闘と成長は、是非一度は御覧になって欲しい。でも、40巻を超える長編漫画なので、無理にお薦めはしません。
民主主義は目的ではなく、手段だと考えるべきだ。
先月だが、アフリカのチェニジアにおいて政変が起きた。長きに渡り独裁政治が行われてきたが、貧富の差の拡大と未来に希望が持てぬ絶望が、大衆をデモに走らせた。デモの主力は職を持たぬ若者たちだ。新聞TVといった既成のマスコミは、政府の管理下にあったがインターネットは違う。
インターネットと携帯電話が、チェニジアの若者たちを反政府デモに駆り立てる手段となった。それを大人たちまでもが支持したがゆえに、チェニジアは政変を止む無くされた。
確認したわけでもないが、イスラム政体の国家で宗教の煽動ではなく、民衆の自発的行動が政体の改変を引き起こした例は稀だと思う。いや、前代未聞だと言っていい。
この結果を恐れたのが、他のイスラム諸国だ。自国への波及を恐れ、自国民への自制を求める報道が相次いだが、既に遅かった。それがエジプトでの大衆デモだ。
長きに渡りエジプトを支配したムバラク政権は、今危機的状況にあり予断は許さない。この事態を注視しているのが、他でもないアメリカだ。エジプトはアメリカの中東政策においてサウジと並ぶ重要拠点だ。
この地の大衆が、反政府運動を行い、その結果として反米国家が出来る可能性は、決して低くない。民主主義に基づき投票をすれば、反米を主張する候補者が勝つ可能性は高い。
民主主義の擁護者を気取るアメリカには、まったくもって皮肉なことだが、民主主義の原理は大衆の欲望の実現化(多数決原理)であり、場合によっては独裁政治を生み出す土壌にもなりうる。忘れちゃいけない、ヒットラーは民主主義の下で生まれたことを。
では、何故イスラム諸国の大衆は反米を叫ぶのか。それは欧米流の近代化が、必ずしも幸せな暮らしを保証してくれるわけでない現実に気がついたからだ。
元々、欧米流の近代化は中世以来の伝統社会を打破することによって産まれた。伝統や慣習よりも、論理や科学を重んじ、合理的な社会を自らの判断で作り上げる思想でもある。
この科学的な思考が、産業革命の土台であり、欧米の産業の生産力を爆発的に増大させ、過剰消費社会を作り上げた。この有り余るキャパシティを埋めるため、新たな市場としてアフリカ、アジアへの侵略が推し進められた。
以来、イスラム社会は欧米の工業生産物に圧唐ウれ、欧米に追いつくため近代化を受け入れざる得なかった。しかし、近代化を受け入れれば、受け入れるほど伝統的なイスラム社会とは齟齬が目立った。
それでも近代化の豊かさを享受できるうちは我慢できた。しかし、イスラム社会は工業化を受け入れるよりも先に、原油という化石燃料の輸出で富を享受してしまったがゆえに、その富みは一部に限定されてしまい、貧富の差は絶望的なまでに開いた。
その絶望が今回の暴動に火をつけた。
チェニジアに始まり、エジプトに波及した今回の暴動に、イスラム諸国は怯えている。強権的に国民を押さえつけてきた国ほど脅威を感じている。
元々情報を政府に管理されることの多い地域だが、インターネットや携帯電話がその情報管理を危うくしている。不満を抱えた国民を押さえつけようとすればするほど不満はたまる。
その不満の原因たる貧困問題に解決の道筋をつけるのが、もっとも正しい解決策だが、どの国もその道筋をつけることが出来ずにいる。
国民もそのことは分っている。だから不満の矛先を政府に向けるが、その背後には欧米主導の国際市場経済があることをも分っている。だからこそ、選挙で多数決をとれば反アメリカ、反近代化の主張が大勢を占める。結果的にイスラム原理主義の政権が出来る可能性が高い。
欧米はアジア、アフリカ、イスラムに対して民主化を求めてきたが、その民主化が反欧米を求める皮肉な現象を甘受できるのか。
世界各地に軍事拠点を持つ新しい世界帝国であるアメリカにとって、エジプト、サウジアラビアは中東政策の要だ。イスラエルの後見を任じるアメリカにとって、反米イスラム原理主義政権の存在は、容易に許せるものではない。
枯渇を迎えつつあるとはいえ、未だ世界の原油の過半を握る中東は、21世紀も不安定な地域となる可能性は高い。日本政府もマスコミも、他人事のように眺めているのが、あまりに無責任すぎると思う。
中東からの輸入原油は日本の生命線。この現実を忘れてもらっては困ります。