ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ライトニング ディーンRクーンツ

2011-02-14 13:06:00 | 

稲光が好きだ。

暗い夜空を切り裂くように稲光が空を走り、その数秒後に雷鳴が轟くと、ワクワクしてしまう。窓から覗くと、激しい雨が叩きつけるように降っているのが、暗闇に響く音で分る。

目の前でスペクタル映画が演じられているかのような興奮に囚われる。暗い夜の風景に、目が釘付けとなり、いささか寝不足気味で朝を迎える。

翌朝、玄関を開けて外に出ると、路上には落ち葉が舞い散り、折れた木の枝が散乱している。目に見えぬ巨人が暴れた跡のような街を歩くと、きっと昨夜はなにか事件があったに違いないと確信してしまう。

表題の作品の著者であるクーンツも、きっと闇夜の稲光に目を奪われた一人だと思う。ベッドに入りながら、稲光(ライトニング)が引き起こしたかもしれない怪奇現象に想像を逞しくしたことだろう。

だからこそ、こんな作品が書かれた。主人公であるヒロインが危機に陥った時、稲光とともに現われる守護天使と名乗る男性が必ず助けに来てくれる。

ヒロインに襲い掛かる殺し屋から守ってくれる謎の男性。稲光との関係は?なぜにヒロインを守ろうとするのか?

徐々に明かされる驚愕の真相は、読者の期待を大いに裏切ること間違いなし。クーンツという作家の間口の広さを思い知らされた作品だと思う。機会がありましたら是非どうぞ。

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73光年の妖怪 フレデリック・ブラウン

2011-02-10 12:17:00 | 

忘れさられるには惜しすぎる。

私がSF小説と出逢ったのは、小学生の頃だ。そのころは空想科学小説と称したジュニア向けのものを読んでいただけだが、中学に入り早川SF文庫と、創元推理文庫のSFを読み出すことで、熱烈なファンとなった。

もっとも、当時はSFに対する世間の評価は厳しく、私がSF小説を読んでいると、文学少年少女たちから、小ばかにした目つきで蔑まれたものだ。でも、私はめげたりしなかった。

私からすると、当時の日本の純文学なんぞは、男女の別れをめそめそ描いて美化したり、戦争の悲惨さを殊更アピールすうような作品が絶賛されているだけ。ロシア文学が持つ大地に逞しく根付いた強固な情理もなければ、欧米のような戦いの中で厳しく磨かれた倫理観も感じられないひ弱な造花が日本文学だった。

その一方、SF小説には既成の価値観に縛られない自由が感じられた。あたかもアメリカの西部開拓史のような野蛮さのなかに、未来を切り開く力強さがあるように思えたのだ。

あの時代から30年以上経ち、今やSFというジャンル分け自体が無意味なものになるくらい一般化した。SFはホラーやミステリーと融合を果たし、大人の鑑賞に十分足りうる進化を果たした。

だからこそ無念でならない。アシモフやクラークらには及ばないが、ブラウンのアイディアは今読んでも新鮮味を感じるほどに斬新だ。真空管を使った感知器なんて用語が出てくるもの、ICチップ以前だから仕方ないが、アイディアそのものは、現代にも通用するものがある。

それなのに、今やブラウンの名を目にすることは稀だ。なぜか出版社もブラウンの本を再販することには積極的ではない。図書館か古本屋を廻らないと、まず読めないことが無念でならない。

フレドリック・ブラウンの名を目にしたのなら、是非とも手にとって読んで欲しい。60年代のSF小説が、今読んでみても新鮮な輝きがあることに驚かれるでしょう。

この作品、登場人物は地味ですが、繰り広げられるドラマは、今でも立派に通用するものです。こんな名作が忘れ去られるのはあんまりだ!見かけましたら、是非ご一読を。

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健康ランドで思ったこと

2011-02-09 12:37:00 | 社会・政治・一般
黙ってみているしかないのが辛い。

日本人のお風呂好きは世界的に有名だ。私も家に風呂があるにもかかわらず、子供の頃は銭湯によく行ったものだ。そこで出会う人々から、銭湯の流儀を教わり、浮「大人との付き合い方を学んだ。

現在、銭湯は次第に数を減らしている。燃料費の高騰や、経営者の高齢化などが背景にある。その一方、私の子供の頃にはなかったような大規模な入浴施設が人気を博している。

俗に言う、スーパー銭湯とか健康ランド、スパという奴だ。厳密にどう定義されるのか知らないが、私もたまに行くことがある。間接的ではあるが、仕事の上での関りもあるので、他では聞けない話を耳にすることがある。

24時間営業というか、深夜から早朝まで営業している健康ランドには、そこで寝泊りする人たちがいる。ホテルや宿に泊まるよりも安上がりであり、広々とした入浴施設で寛ぎ、翌朝の仕事に備えるには絶好の場だからだろう。高速道路のインターの近くや、幹線道路にあることが多いので、見た事がある人も多いと思う。

このような終夜営業の健康ランドは、長距離運転のドライバーや出張のサラリーマンが多く使う。一方、このような仕事上のものではなく、交友の場として健康ランドを使う人たちもいる。

多くの場合、年金生活の高齢者が多い。家にいるよりも、広くて暖かく、風呂は大きく清潔で、なにより友人知人が多くて楽しい。時には大衆演劇の公演もあれば、歌謡ショーもあり、手軽な値段で楽しめる。

健康ランドは、このような常連客を数多く抱えることで経営が成り立っている。だが、時には変った常連客を見かけることがある。

私はたまにしか行かないが、行けば必ずその親子を見かけた。親が障害を負っているため、目立つためだが、私が気になるのは、その子供さんだ。

最初は気にしていなかったのだが、やはりその健康ランドによく遊びに行く知人の子供が、あの子供は宿題をやらないと不平をもらしていたことがきっかけだった。

まあ、健康ランドの宴会場の片隅で、冬休みの宿題をやらされている子供からすると、宿題なんてないよと口にする、その件の子供さんの科白が気になったのだろう。宿題がない学校なんてあるのかな?と不思議に思った。

新年早々、仕事がらみでその健康ランドを訪れて、顧客に会って書類を渡し、休憩室で顧客と雑談している時だ。既に平日だというのに、件の親子がいるのに気がついた私が、同席していた健康ランドのマネージャーにもう学校は始まっているよね、と話を振ると、彼は顔を曇らせた。

彼が言うには、普段から平日でもその件の親子は頻繁にやってくるらしい。どうも子供は学校に行っていないらしい。マネージャーとしては、常連客は大切にしなければならないが、平日に子供を連れて翌日朝遅くまで健康ランドにいることには疑問を持たざる得ないと嘆く。

経営者としてはともかく、一人の人間として悩まざる得ないのは当然だと思う。さりとて、親が了承してのことだけに、第三者は口を出しにくい。親が障害者であることが、殊更言い難い雰囲気となっていることも事実だ。

どうも、私のみたところ子供にも問題がありそうだ。なんとなく、いじめられやすそうな雰囲気があるのだ。そのせいか、健康ランドでも一緒に遊ぶ子は、明らかに年下の子供ばかりだ。

子供たちの話では、家は健康ランドから1時間半以上かかる遠方で、わざわざこちらに来るらしい。だが、こちらのほうが、元々住んでいた場所らしい。でも、そのわりには同級生と遊んでいる感じはしない。

想像だが、おそらくは登校拒否児童なのだろう。私も話したことがあるが、どうも学力が低い。大人に甘えたがるが、勉強の話になると、すぐに黙りこみ、消え去る。既に小学校高学年なのに、九九も満足にできない。

この調子では、大人になったら苦労することが目に見えている。親も悪いと思うが、障害という目に見えぬ壁をうまく使っているらしく、他の人たちの忠言には耳を貸さないと聞いている。

そんな親を見て育ったせいか、件の子供も自分の耳に痛い話(学校とか勉強)だと聴こえないふりをする。そのくせ、自分が興味ある話だと、馴れ馴れしく近づいてくる。困った子供だと思う。

だからといって、第三者としては積極的には関れない。深入りするには、責任や覚悟を要するからだ。私は善意の押し売りは好きではないが、さりとて黙っているのも辛い。

先が見えているのに、結果が分っているのに黙っていることは、結構辛いと思う。
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ハーグ条約に思うこと

2011-02-08 12:14:00 | 社会・政治・一般
子供は誰のもの?

日本では、子供を母親が育てるものだと考えることが普通だし、世間もそうあるべきだと考えることが一般的だ。しかし、その常識に黒船が突っかかってきた。

それがハーグ国際条約だ。

今や国際結婚(なぜか、英語にはない言葉だが)が珍しくない。しかし、結ばれることもあれば、別れることもある。その際に問題になるのは、子供の養育だ。

子供は母親が育てるというのは、日本に限らず世界中多くの国で見られることだが、西側先進国では絶対的なものではない。欧米では、離婚条件の一環として双方が話し合いの末、子供の養育について約束を交わすことが多い。

かつてダスティン・ホフマンが主演した「クレイマー・クレイマー」という映画があったが、子供の養育は一筋縄ではいかない問題であることは、どこの国でも変らない。

そして欧米は契約社会だ。双方の合意なくして子供を一方的に連れ去ることは犯罪に近い。いや、実際に片方の合意なくして子供を連れ去れば、それは誘拐という犯罪だと認識されてしまう。

国際結婚をして、子供をもうけた日本人は、もはや珍しくない。だが、破局に至り、一方の合意なくして無理やり子供を連れ去る日本人女性が、今問題になっている。私もニュースで観た。

子供を勝手に連れ去られて悲嘆にくれる外国人の元・夫の気持ちも分らないではない。一方、その元・夫のDVが原因で破局に至ったと主張し、暴力から逃れるために子供と共に帰国したと主張する元・妻の言い分にも理はあるように思う。

ほぼ間違いなく、様々なケースがあることは私でも分る。だから画一的な答(子供は母親が育てるべき)では十分とは言えないのだろう。

ただ、はっきりしているのは、日本の常識はもちろん、離婚と子供の養育に関する法律の扱いも、この国際結婚の現実に対して十分対応できていないことだ。

画一的な、あるいは絶対的な回答はないだろう。だが、交渉の席、交渉のルールぐらいは定めておくべきだと思う。現在、ハーグ国際条約を巡っては、その賛否を含めて司法関係者から様々な意見が錯綜しているようだ。

十分な意見交換と議論が必要なのは分るが、国際離婚(こんな用語あるのかな?)により親子が引き裂かれた現実は、今後増える一方だろう。

日本の常識に固執しての否定論が多いのは分るが、少なくても交渉のルートぐらいは作っておくべきだ。時間をかければかけるほど、不幸な親子は増えるばかり。

少子高齢化が進み、国際結婚は今後増えることはあっても減ることはあるまい。出会いがあれば別れも在る。国際離婚と子供の養育の問題は、早急に道筋をつけるべき。いつまでも快適な会議室で、高尚な議論を積み重ねている場合ではないと思いますね。
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女には向かない職業 P・D・ジェイムス

2011-02-07 14:52:00 | 

数年前、同じタイトルで漫画家のいしいひさいちが単行本を出している。そっちは「ののちゃん」にも出てくる藤原先生が、学校の先生から小説家へと転進する四コマ漫画である。

いしいひさいちも物騒なタイトルを付けるものだと感心していたら、元ネタではないかと指摘されたのが表題の作品だ。ただし、こちらは漫画ではなくミステリー小説。

実はジェイムズ女史のミステリーを読むのは久しぶり。寡作な作家で、作品数は多くないが、どれも評価は高い。にもかかわらず敬遠していたのは、どの作品も長編だからではない。

敬遠した原因は、いささかうんざりするほど状況描写が緻密に過ぎるからだ。大半は単なる細かすぎる描写なのだが、そのなかに犯罪解明につながる伏線が紛れているので、読み流すのがことが出来ない。それゆえ、気軽に読みづらい作品ばかりなのだ。

たしかに実際の犯罪捜査でも、緻密で厳格な現場調査は欠かせない。その調査により得られた情報の大半はゴミだが、そのなかに解明につながる鍵が紛れていることは珍しくない。

それゆえに、ジェイムズ女史の作品にはリアリティがあるのは確かだ。でも、あそこまでしつこく緻密に書かれると、読み手としては、いささか辛い。だから、積極的に読む気になれなかった。

ただ、表題の作品はジェイムズ女史の作品としては、読み易いと聞いていたので今回久々にトライした次第。で、結論から言うと、読み易い作品に仕上がっていたので、私としては満足。

おまけに他の作品の主人公が徐々に姿を現してきて、最後の最後でいい場面を演じていくあたりに予想外の好感を得ました。

相変わらず、いささか懲り過ぎの感もなくはないのですが、初めてジェイムス女史の作品を読む方にも十分楽しめると思います。ミステリーがお好きでしたら、機会があれば是非どうぞ。

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