ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

プロレスってさ スタイナー・ブラザーズ

2012-10-24 12:07:00 | スポーツ
ブリッジ。

直訳すると橋であるが、体育の時間などで教わるブリッジは、身体能力を激しく使う動作でもある。

まず仰向けに寝て、両足を肩幅の広さに開き、膝を立てる。同時に両手を耳の横にもっていき、顎を突き上げるようにして体を持ち上げる。コツは両手の指先を肩の方向に向けておくことだ。

こうして、エイヤッとお腹を空中に浮かせてブリッジは出来上がる。エビ反りの状態であり、腹筋背筋ともにひきつるほどの負荷がかかる。苦手な子も多かったと思うが、私の小学校では全員が出来るまで特訓させられた。

私はわりと、このブリッジが得意で、背中を伸ばす感覚が好きで、家でもベッドの上でやっていたぐらいだ。慣れてくれば、立った状態から体を背後に反らしてブリッジを出来るようになれる。かなり難しく、また危険度も高い。でも、私はけっこう必死になって練習していた。なぜなら目標があったからだ。

ジャーマン・スープレックス・ホールド。


このプロレス技を覚えたかったからだ。まず相手の背後に回って腕を回して締め上げるように腕をロックする。グイッと相手を持ち上げると、すかさずブリッジの要領でお腹を付だし、その上に相手をのっけてそのまま背後にエビ反る。

しっかりとエビ反らないと背中から落ちることになり、相手の体重も上乗せされるのでかなり痛い。またエビ反りが不十分だと自分の後頭部を打つことになり、きわめて危険でもある。

恐武Sを抑えながら、自分の後頭部から地面に落ちる感覚でやると、相手のほうが先に地面に落ちるので、自分が受ける衝撃は少なくて済む。この相手を乗せた状態でブリッジを完成させたのが通称ジャーマン・スープレックス・ホールドである。

プロレスの神様と云われたカール・ゴッチが初めて日本で紹介した超高難易度の技であり、文字通りの必殺技であった。まともに食らえば失神することも珍しくなく、下手をすれば首を鍛え上げたプロレスラーでさえ大怪我をする危険な技でもある。

私の憧れの技でもあり、そのために何度も練習をした。その甲斐あって、下が柔らかいマットならば、なんとか出来るようになった。でも実戦(喧嘩)では使えない。あまりに危険過ぎるし、自分が傷つく可能性が高い。

繰り返しになるが、このジャーマン・スープレックス・ホールドという技は、相手を垂直に近いかたちで投げ落としてこそ効果を発揮する。そう思い込んでいた。

ところが、違うやり方でこのジャーマン・スープレックス・ホールドを進化させた男がいる。それがリックとスコットのスタイナー兄弟だった。彼らはジャーマン・スープレックスの姿勢からブリッジをせずに、空中で相手を更に放り投げて、自分は背面で唐黶A相手を更に遠くへ投げ落としてしまった。

通称、投げっぱなしジャーマン。


初めてこの技を見た時は仰天した。投げられた相手は吹っ飛んで後頭部から墜落しての失神状態。ちなみに、カール・ゴッチはこの技をジャーマン・スープレックス・ホールドの鰍ッ損ないと誹謗したが、破壊的な威力のある技であることは間違いなかった。

この凄まじい威力ゆえに、この技は大いに流行り、今では前座のレスラーでさえ使うありきたりの技となってしまった。一応書いておくと、本来のジャーマン・スープレックス・ホールドのほうが技術的には難しい。

この「投げっぱなしジャーマン」を編み出したスタイナー兄弟は、正統派のレスリングを駆使するだけでなく、合体技の名手でもあり、技の攻防を好む日本のプロレスファンからは高い評価を受けていた。フランケン・シュタイナーを合体の形でやったのも、この兄弟が最初だったと思う。

意外だったのは、アマレス出身のスタイナーは、なぜか試合でジャーマン・スープレックス・ホールドを使うことはなかったことだ。後年分かったのだが、元々膝を故障するまでは、普通にジャーマン・スープレックス・ホールドを使っていたが、膝の故障でホールドの状態を保つことが出来なくなった。

そこで兄のリックが考え出したのが、膝への負担が少ない「投げっぱなしのジャーマン・スープレックス」だったらしい。逆転の発想というか、柔軟な思想が思いもよらぬ必殺技開発につながった。

この投げっぱなしジャーマンなら、実戦でも使えるだろうが、相手が受け身をしっかり取らないと死傷事故になりかねない。だから、あれほど練習したにも関わらず、私はジャーマン・スープレックスを使ったことがない。

下が柔らかいマットの上でさえ危険な技なので仕方ないと思う。ちなみにプロレスのマットは、畳と同じぐらいの固さだという。やっぱりプロレスラーって凄いね。

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尖閣問題のこの先

2012-10-23 07:50:00 | 社会・政治・一般

正直言って、私は民主党政権にはウンザリしている。

でも、評価すべきところは素直に評価したい。もうお忘れの方もあろうかと思うが、菅内閣の時にも尖閣諸島は問題になった。時の仙谷官房長官は、真面目くさった顔(この顔しか知らないがね)で、「事態を遺憾に思う」とコメントしただけ。

ただ、それだけであった。これでは舐められるのも当然である。当然、中国政府は思ったはずだ、今回も日本政府関係者に強硬に出れば、尖閣諸島の土地の購入を控えるはずだと。

ところが野田首相は、まるで従来の信頼を裏切るかのような態度に出た。当然に北京政府は怒り心頭である。だからこそ、反日デモが反日暴動といっていいほどの騒ぎになることを容認した。

ところが、野田首相はあくまで尖閣は日本の領土だと嘯き、再び北京政府の面子を潰した。北京政府からすれば、反日暴動(デモでは甘いと思う)は必然であり、すべての責任は、日本政府にありだと断じるのも当然だろう。それが国家というものだ。

ただし、それはあくまで北京政府の立場にたってのもの。

思い出して欲しいのは、北京政府の領土領海拡張志向は、昨日今日の問題ではなく、半世紀以上前の建国時から継続して行われていることだ。チベットやヴェトナムだけではない。中華帝国の領土周辺は国境争いがないところの方が珍しいぐらいだ。

シベリアにはシナ人の労働者がなだれこみ、ロシア人を戦々恐々とさせている。朝鮮半島北部には、既にシナ人資本の企業が入り込んでカジノを運営しているが、本命は鉱物資源であり、事実上の既得権づくりだ。

シナと国境を接するラオスやミャンマーの経済支配権を牛耳るのは華僑であり、自国の繁栄につながらぬシナの経済支援に辟易しているこれらの東南アジア諸国が欧米や日本に流し目を送るのも当然である。

悪名高き南沙群島などの海洋利権の確保は、ヴェトナム、フィリピン、インドネシアとの緊張を生み出し、更に日本との今回の尖閣諸島問題である。東南アジア各国が、日本の強硬な姿勢を頼もしく思っていたことを報じていないのが、日本のマスコミ様の気配りなのかどうか知らない。でも侵略行為を推し進められている東南アジア各国にとって、非常に関心が高い問題であったのは事実だ。

如何にシナが詭弁を弄しようと、喧嘩を売っているのは誰なのか明白であろう。

今頃になって、民主党の「言うだけ番長」こと前原が、尖閣問題の発端は石原・都知事の購入表明から始まったなどと責任転嫁しているが、元を糺せば中華帝国の侵略方針こそが真の原因だ。そして菅内閣時の仙谷官房長官の甘い対応が、北京政府を増長させたことが原因なのだ。

だから左派的傾向の薄い野田首相が、一国の最高責任者としての当然の対応をしたことに、日本を甘く見ていた北京政府が苛立っているだけだ。人民解放軍の首脳たちも初めは勇ましいことを言っていたが、アメリカと日本が奪還作戦の共同訓練などを実施して以降、急速に沈黙を守るようになった。

彼らも、まだ軍事的対決は避けるべきだと分かっているのだ。

なお、経済視点しか持ち得ない経団連は仕方ないが、このような領土問題を巡る争いに、経済交流だとか、文化交流はなんの力も持ち得ない。無意味とは云わないが、役に立たない歴史的事実ぐらいは、しっかりと認識して欲しいものだ。

いずれにせよ、尖閣問題は先送りされ、再び日中の関係は元のさやにもどる。戻らざる得ない。停滞させたって、双方に利得がないし、進展も望めないからだ。感情的しこりは残るが、利益を我慢するにも限度があるからだ。

もっとも平和という観点かれば、むしろ事態は悪化している。中華帝国は対アメリカ軍事力の必要性を痛感しているはずだし、今まで以上に海軍力及び弾道ミサイルの開発に血眼になるだろう。

また新聞やTVは伝えることを避けているが、日本人にも現状の平和憲法が役に立たないことや、軍事力の重要性を理解しつつある傾向が確実に広まっているように思える。

大切なものを守るためには、軍事力もその手段の一つ。ただ、それだけの事なのだが、戦後の平和教育はその現実を教える事を避けてきた。これまで教育界、マスコミ業界で深く根を張り、自虐的歴史認識を推し進めてきた人たちにとって、敬愛すべき中華帝国の軍事的、強圧的姿勢こそが、その避けてきた現実を広く日本国民に再認識させる契機となっているのだから、実に皮肉なことだと思う。

ただし、シナの軍事的圧力に抗するための軍事力を再認識するのは良いが、それだけでは不安だ。軍事力というものは、きわめて破壊的で、一度動き出すと止めるのが難しい。また使用後の副作用も大きく、如何に軍事力を抑制するかが大切になる。それなのに、有事法制さえ十分立法化できていない。平時の法制度で有事に対応できると思い込んでいる。

第二次世界大戦の反省を謝ればいいだろうと誤魔化してきた日本人は、本当の意味で敗戦の反省をしているとは言い難い。戦前、なぜに軍部は独走し、国民はそれを支持してしまい、政治はコントロールを失ったのか。ここを深く考えてこそ、本当の反省だと思うのだが、歴史学者にさえこれを厭う傾向は強い。

更に付け加えるなら、景気の低迷は国民に不安と不満をため込ませる。そのはけ口として、戦争は使われることが多い。困ったことに、隣国の韓国も、そしてシナさえも不況の風は確実に吹いている。日本も、景気対策に関心が薄い民主党政権ゆえに、夏以降本格的な不況に陥りつつある。

悪い意味で、尖閣問題は戦後の日本のターニング・ポイントになりかねないと思う。

繰り返すが、野田首相の対応はごく普通のものであり、好戦的でもなければ、異常でもない。それなのに、中華帝国は異常なほど反発した。友愛の海は論外にしても、「事態を遺憾に思う」と口先だけで誤魔化してきた民主党政権の罪は、誠に大きいと思わざる得ない。

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マネーが止まった 田中直毅

2012-10-22 12:00:00 | 

文明の進歩により、先進国の平均年齢は大幅に伸びた。

だが寿命が延びたからといって、働ける年齢までが伸びた訳ではない。とりわけ会社勤め、役所勤めの労働者の老後は不安だ。なにしろ収入がないのだから、不安なのも当然だと思う。

平均寿命が50歳代の頃ならば、それほど悩むことはなかった。だが60を超えて70歳過ぎても老後の人生を生きることが予想されるとなると、老後の生活を心配するのは必然だった。

日本と異なり、公的な年金制度のないアメリカでは、戦後生まれのベビーブーマーたちは、老後の生活資金として、その運用先を株式に委ねた。少なくても1970年代までは、これらの個人投資家がアメリカの株式市場を支えていた。

だが、この個人投資家たちはやがてファンドに吸収されていくことになり、一部のファンド・マネージャーと大手の機関投資家たちが株式市場を支配するようになった。彼らプロの投資家たちが、株主として企業の経営を看視し、健全な経営を監督していくものだと期待された。

これはアメリカだけではない。ヨーロッパ各国も同様の事情を抱えているし、日本だって個人の割合こそ少ないが、厚生年金基金などが大量の資金を株式市場へ投じていたことに変わりはない。

老後の資金として、株式に期待するのは間違いとは思わない。だが、それは経済が右肩上がりで成長していることが前提条件であったはずだ。多少の景気の波こそ覚悟していただろうが、まさか西欧経済全体が衰退していく可能性までは考えていなかったと思う。

その原因が、蛮族と蔑み、植民地としてしか考えていなかったアジアの勃興により、相対的に衰退していくことまでは考えていなかったのだろう。アメリカでもヨーロッパでもアジアからの輸出品が溢れかえり、かつての優良企業は没落の憂き目にあっている。

だが、その原因は外的なものばかりではない。株主から健全な企業経営を委託されたはずの経営者たちは、短期利益の捻出に傾唐オ長期的な経営を厳かにした。株価の上がり下がりに一喜一憂し、株価の上昇こそが経営の成果だとして、莫大な報酬を企業から奪い取った。

株価の上昇は、相次ぐリストラにより達成され、気が付いたら工場は海外に移転して、かつて社会を支えた中産階級は没落し、工場労働者のみならずホワイトカラーまでもが職を失い社会は荒廃した。それでもアメリカのIT産業のように新たな企業群が創出されているうちは良かった。

国内に有望な投資先を失った金融機関は、リスクを分散し、本当の危険を隠した金融商品を開発して、それを金融機関同士で売買し合って利益をねん出した。それが悪名高きサブプライム・ローンであった。

債権をいくつもに分散させ、本当の債権価値を分からなくさせてしまったが故にこの金融商品は売れた。だが、その危険性は住宅ローンが返せなくなり、住宅を処分してもなおかつ損失を埋めることが出来ないと判明してからでないと分からなかった。

気が付いたら、昨日まで優良資産であったはずの金融商品が、資産価値0円に変貌する恐普Bこれが世界各国の金融機関に蔓延した。なぜなら日本をはじめ世界各国の金融機関が、このサブプライムにつながっていた金融商品を購入していたからだ。

だが、これは手始めに過ぎない。金融機関は、他の金融機関が発売した金融商品を多数購入し合っていた。その債権の大本がなにであるか分からない金融商品を優良資産として保持してきたのだ。

優良だと思っていたのは、それが高金利商品だからで、工場などの勤務先が海外に移転して、収入減を失った債務者が破綻して初めて、その高金利商品の仕組みに気が付く。

結果、金融機関がお互いを信用できなくなってしまった。だからこそ金融機関が、自らの資金繰りのための借り入れができなくなり破綻に追い込まれる異常事態が発生した。これがリーマン・ショックの正体であった。

市場経済における金融機関の役割はきわめて重大だ。資金の貸し手であり、為替決済の大本であり、お金を市場に流す大動脈である。だからこそ、世界各国の政府は、金融機関を厳しい監督下に置いてきた。

だが、複雑すぎる仕組みの高度金融商品の危険性までは監督できなかった。相互に持ち合ってきたこの高度金融商品の破たんは、金融機関を相互不信に追いやり、資金の供給は大幅に委縮した。

表題の書は、その流れを上手に解説している。いささか難解なのは、正確さを期そうとしたからだと思う。ちなみに、この「マネーが止まった」状況は、今も続いている。それゆえに、現在の不況を理解する一助になると思います。

でもな、やっぱり経済視点に絞り込みすぎだと私は思う。

現在、欧米と日本を襲う不況は、単なる経済問題ではないと私は考えています。むしろ西欧文明の退潮といった視点が必要だと思うのですが、範囲が広すぎて分かりづらいのも確か。

物足りなさを私は感じたのですが、現在の金融機関の置かれている状況を解説したものとしては、なかなか良いものだとも思ったのも事実です。興味がありましたら、是非ご一読を。

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ロラックスおじさんと不思議な種

2012-10-19 14:08:00 | 映画

自然は美しいと云うが、それほど単純ではないと思う。

私が困ってしまうのは、浜離宮や桂離宮に代表されるようなよく整備された庭園をみて、自然美を称賛するのことだ。たしかに綺麗だと思うが、あれは自然を活用した造形美だと思う。あれだけ綺麗に整備された庭園の維持は、大変な手間がかかる。

更に苦々しく思うのは、ゴルフ場や牧場をみて「嗚呼、自然は素晴らしい」なんて思ってしまう人たちだ。あれは人の手が加えられ、人のために作り上げられたもので、間違っても自然本来の姿ではない。

もっといえば、田んぼや畑の光景でさえ、本来の自然とは程遠く、人間の文明が環境構築(あるいは破壊)型であることが良く分かる。

自然の力は凄まじい。人間の手が及ばぬところでは、自然は恐るべき侵略者であり、破壊者でもある。以前、放棄されたスキー場を見たことがあるが、かつては瀟洒な西欧風ロッジであった建物は、木の壁は苔とカビでボロボロであり、窓ガラスは全て割れて鳥の糞の跡から草木の芽が生えている始末だ。

アスファルトで舗装されていた駐車場は、ほんの小さなひび割れから草木の芽が伸びて、そのひび割れは次第に大きく広がっていく。コンクリートでさえ、水と草の侵食からは逃れられず、手で叩くとボロボロと崩れる。

やがて草木は人間の作ったものを全て壊し、多い尽くしてしまう。如何に人間の文明が優れていようと、最後に勝つのは自然だと思う。強烈な放射能を放ち、人を近づけないチェルノブイリの原発跡地でさえ、数百年後には草木に覆われてしまうだろう。

それでも自然は美しいと言えるのか。

実を云えば、私はそのような自然が嫌いではない。むしろ敬意と畏れさえ抱いている。人間の手が入らぬ自然は、逞しくて、図太くて、厚かましいほどでもある。人間がどれほど抗おうと、数千年単位で測れば、最後に勝つのは自然だと思う。

人間の目には荒れ果てた雑草と雑木の荒れ地でも、それが気候と地勢にあった本来の自然の姿なのだ。人間が美しいと思う造形された姿は、本来の自然とは程遠い。

だが、私の考えはおそらく少数派であり、自然を人間の嗜好に合わせ、努力してそのような姿を作り、保つことで作られた美しい庭園を自然として捉える人のほうが多いように思う。これが自然との共存だとさえ考えているようだ。

表題の映画がまさにそんな自然観が根底にあるようで、その点だけが納得できなかった。

でも、大人から子供まで楽しめる映画であることは間違いない。

3Dも不自然さは少なく、時々飛び出す映像を楽しめる。ストーリーは単純だし、伏線もない。最近ありがちの次回作を予告するような、あざとい作りもない。ミュージカルの場面は、楽しくて体が自然に動き出すような出来の良さ。

小さい子供の観客が多かったにもかかわらず、上映中むずかる子供はなく、映画館が明るくなるまで席を立つ子供もいなかった。いかに子供たちを惹きつけたか、よく分かると思う。

素直に楽しめる映画であることに異議はない。少し不満があるとしたらストーリーの底が浅いことだ。自然が元の姿を取り戻すには数十年の時間が必要だという現実を省いたらダメだと思う。それ以外は及第点だと思う。

でもなァ~、やっぱり、あの自然観には素直に同意できない。子供向け映画に対する批判としては、行き過ぎというか、過剰反応だと思うが、人間にとって都合のいい自然、人間だけが美しいと思って育てる自然。

あれは、やっぱり不自然な自然だと思うな。

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国税不服審判所 その三

2012-10-18 11:55:00 | 経済・金融・税制

前回に国税不服審判所において、納税者の主張が認められたケースは、概ね12%程度だと書いた。

この数字をみて、その低さに驚かれた方は少なくないと思うが、実はこれには訳がある。税金に関して高いと文句を言う人は少なくないが、実際に苦情を言ってくる人のうち、まともな苦情は半分に満たない。

税法を知らなくても、それは無理だよと呆れてしまう苦情がけっこう多い。また、一見まともな苦情であるのだが、税法というよりも憲法や民法など他の法律の縄張りに踏み込む苦情であるがゆえに税務署では受け付けられないものもある。

一例を挙げさせてもらうと、家族同様に暮らしている猫ちゃんの食事代を必要経費として認めろなんて、いくらなんでも無理だ。常識で分かりそうなものだが、猫ちゃんに対する愛情で脳みそが蕩けているのだろう。

また婚外子で認知されていない子を扶養家族に入れるのも、現行法では無理だ。これには民法の大幅改正が必要であり、税務署にそんな権限はない。私も国税局のコールセンターや、確定申告期の無料相談会で、この手の無理な苦情を受けることがあるので分かるが、本当にけっこう多い。

税務署に持ち込まれる苦情のうち、だいたい4割ちかくが、この手の初めから無理な内容なのだ。だから、それを国税不服審判所に申し立てても、却下せざる得ない。見方を変えると、不服申立のうちこの手の問題外のものを除いてみると、2割強の申立を審判所は納税者の主張を認めていることになる。

これでも低いと思われるかもしれないが、裁判所において納税者勝訴の割合が1割弱であることを思えば、けっこう納税者の主張が認められているのではないかと私は思うのです。

もっとも私は、わりと近年まで国税不服審判所なんて、税務署職員のミス救済所であり、ポスト不足に悩む幹部職員の待機場所じゃないかと邪推していたぐらいです。

しかし、時代は変わるのです。実は数年前から、この審判所に民間からの人材登用が認められて、今まで知られていなかった実情が分かってきました。

当たり前ですが、税務行政に関する不満受付場所でもあるので、税法の専門知識をもった税務職員が出向していることも多いのですが、専属の職員もおり、また裁判所や検察からの出向してきている職員もいます。

平成19年から税理士、公認会計士、弁護士などの民間からの専門職を、審判官として登用することで多様な立場、見解、意見を合わせて合議することで、審理の質を高める努力をしているのです。平成23年度においては、審判官の約半数がこのような外部登用者から構成されているほどです。

実際、私の所属する京橋支部の会員からも、国税不服審判所に出向して審判官を務めた先生もいました。この夏、毎年行われる研修会で、実際に審判官を務めた税理士の先生から、いろいろと内情を聞かせていただいたのですが、実に興味深い話が多かった。

納税者からの不服申立があると、専任の審判官が担当することになるが、実際の審理は複数の審判官による合議がある。審判官には法務省からの出向してきた検事や裁判所書記官、民間からは弁護士、公認会計士などが参画する。

もちろん国税局からの出向者もおり、それぞれが自らの経験と知識と立場から多様な意見を織り交ぜ、最終的には担当する審判所長の裁決により結論が出される。経験豊かな国税出身者からの税法面からの意見だけでなく、司法関係者から訴訟を前提にした意見などは大いに尊重されるという。

どうやら、私はかなり邪推しすぎていたようである。

おそらく、ほとんどの納税者はこの国税不服審判所の門を叩くことはないと思う。新聞TV等でマスコミから華々しく注目されることもない行政機関でもある。だが、民主主義国家の根幹を支える部門の一つであることは間違いない。

皆さんの頭の片隅に、こんな仕事をしている役所もあるのだと知っておいて頂けたら幸いです。

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