ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

枯葉のワルツ

2013-12-20 12:32:00 | 日記

冷たい北風が、積もっていた枯葉をワルツのように舞い上がらせる光景は、なぜか恐怖を感じることがある。

昨日の深夜がそうだった。既に2時を超えると、いつも慢性的に渋滞している国道20号線も閑散としている。この国道は多摩界隈に入ると、沿道に立派な樹木が植えられていて、紅葉の時期は黄色いトンネルを見事に作り上げる。

秋が足早に通り過ぎた今年は、紅葉も時期も短く、12月ともなれば枯葉が降り積もる。だから路面の清掃が頻繁に行われており、それが渋滞の原因ともなっている。でも枯葉はスリップの原因にもなるので、路面の清掃は欠かせない作業でもある。

さすがに深夜ともなれば、清掃車の姿もなく快適に車を走らせていた。風の強い夜であり、枯葉が風に浮かされて、弧を描くように路上を舞っている光景は、まるで枯葉がワルツを踊っているようで、ついつい見とれてしまう。

だが、北風が空気を切り裂く甲高い悲鳴を耳にすると、忘れていた思い出が甦る。

あれは二度目の入院の時だから、20代半ばの頃だと思う。当初は車椅子での移動しか許されなかった。別に骨折した訳ではなく、安静度が高かったからである。安静の大切さは痛感していたので、従容と受け入れて、病室で静かに本を読んでいた。

そこへ私のいた8人部屋の病室に新しい患者が搬送されてきた。身体の大きな、ちょっと強面のするA氏は入院した当日と翌日の昼までは大人しかった。しかし、少し身体が動くようになると、すぐに不平不満を大声で言い立てて、えらく迷惑な人だった。

路上で倒れて入院したらしいが、もう元気になったので退院させろと喚いている。そこへ隣の病室のB氏がふらりと現れた。このB氏、小柄ながらどこか怖い感じのする人で、元右翼団体の幹部であったらしい。

B氏が現れて、無造作にA氏のカーテンを開けて「また、お前か。うるさいから、少し黙れ」と一喝すると、途端にB氏が大人しくなった。いや、急に卑屈になり、揉み手までする始末。

あたしゃ漫画や映画以外で、揉み手をする人を初めて見た。そして、その日の夜には病院を脱走して消え去った。翌日身内の方が来て、片付けやらお詫びやらに奔走していた。

数日後、談話室でB氏に事情を訊くと、やくざにもなれなかったチンピラで、某○×組の使いっぱしりなのだが、巨体に似ず気が弱いだけでなく、持病の糖尿病のせいで低血糖を起こして、時折倒れて運ばれてくるらしい。でも、真面目に病気と向き合わないので、すぐに病院を脱走する困った患者だそうだ。

ひと夏を病院で過ごした私は、秋が終わる頃には退院の話が出た。別に治ったわけでもなく、自宅療養に切り替わるだけである。そんな矢先に再びA氏が搬送されてきた。今度はかなり衰弱しており、さわぐ元気もないようだった。

私の隣のベッドであったので、少し憂鬱な気分であったが、来週末には退院予定なので我慢することにする。今回の入院は、病状がかなり進行した状態でのものであったようで、主治医のみならず教授や助教授までもが回診に現れて、かなり厳しくA氏を指導していた。

カーテン一枚で仕切られているだけなので、その指導の内容は私にすべて聴こえてくる。いやはや、本当に危ない状態なのが、改めて分かった。聞いているだけの私までもが怖くなるほど、厳しい医療指導であった。

さすがに堪えたのか、A氏は大人しく食事療法に従い、以前のように不平不満を騒ぎ立てることはなくなった。ところでその病棟では、病室の窓際のベッドは、比較的元気な患者の指定席となっている。難病患者とはいえ20代半ばの私は当然のように窓際であった。

窓際の患者は、朝になると窓を開けて換気したり、カーテンを開け閉めしたり、けっこう雑用が多い。でも眺めのイイ窓際はお気に入りの場所でもあった。もっとも冬場は窓のせいで冷気が入り込むのを感じるし、窓の開け閉めも寒がる老人患者の様子をみながらするので、けっこう気を遣う。

あの晩は、冬の先触れのような冷たい北風が吹き荒れる一日で、周囲に畑が多いこの病院だけに、上空まで強風に煽られて枯葉が舞い上がるのが見えたほどだ。夕刻の前には窓はしっかり施錠し、カーテンを閉めて夜に備えておく。

それでも外に強風が吹き荒れているのは、窓のサッシから伝わる甲高い風音から分かる。病院の夜は早い。9時の就寝まえになると湯たんぽが欲しいと言い出す老齢の患者が多数現れ、看護婦さんたちに混じって私も湯たんぽの配布を手伝ったくらいだ。

たしかに寒い夜だった。おまけに外の風音がヒュルヒュルと絶え間なく聞こえてくる。時折女性の悲鳴のような甲高い高周波が混じることがあり、なかなか寝付けない。それでも深夜の看護婦さんたちの交替時には、うつらうつら眠りの揺りかごにはまり込んだ。

しかし、なにやら妙な声が聞こえてきた。

「イヤだ、連れていかないでよ。行きたくないよ、ヤダよう」あげくにすすり泣きまで聞こえてきた。どうも隣のベッドのA氏の寝言らしい。50過ぎの中年男の情けない寝言にいささか閉口したので、起きてトイレに行き、ついでに談話室に足を運ぶと病棟を代表する問題患者のB氏がタバコを吸っていた。

「どうした、眠れないのか」と訊かれたので、A氏の寝言で目が覚めたと話す。するとB氏は、あァ、あれかと肯いた。同じ病室だったことがあるのですかと訊くと、ここじゃなくて府中だと云われた。

府中病院?と呟くと、「いやいや、府中刑務所だよ」と笑っている。なるほど・・・だから頭が上がらないのか。

「まァ、あいつもガキの頃はかなり惨めな思いをしたようだから悪夢に悩まされるのも無理ないな」と云うので、なにがあったのですかと訊くと、「内緒だぞ」と断ってから話してくれた。

なんでも刑務所で同じ房に居た時、寝言で泣き言がうるさいので問い質したところ、幼い時に人買いに売られたことがあるとのこと。北風が吹き荒れる晩に、家から連れ出されたようで、風音が聴こえる夜になると、今でも夢を見てしまうという。風が吹き荒れる音を聞くと、無意識にあの夜のことを思い出すそうだ。

「いくらしばいても、寝言までは収まらんな」と苦笑している。ちょっと怖いぞ。

しかし、小説などで人買いの話は読んだことはあるが、実際に売られた人に出くわしたのは初めてだ。そういえば身内の人(妻だか愛人だか分からんが)が見舞いにくることはあるが、親族が来た事はない気がする。

まァ、退院まで後数日だし我慢するしかないと思い、再び病室に戻って寝ることにした。幸い、もう寝言は収まっていた。

その後、予定通り退院し、2週間後に外来で病院に来た際、待ち時間のあいだに病室に遊びに行くと、既にA氏はいない。顔なじみのヘルパーさんがいたので訊いてみると、またしても脱走したとのこと。

なんでも透析のためのシャント手術の前日に怖くなって逃げ出したらしい。そういえば点滴の針でさえ嫌がっていたのを思い出す。でも、あの病状だと透析を続けないと命は長くないはず。

それから半年ほどたったある日の外来。その日は超音波検査があるので、待ち時間が長い。仕方なく病室に遊びに行くと、談話室でB氏に出くわした。挨拶して、体調の話などをしたのち、急にA氏のその後のことを教えてくれた。

「おう、ヌマンタ君よ。Aの奴、自殺したってよ」。あらら、自殺ですか。しっかり透析をすれば数年は生きられたでしょうにねと答えると、B氏は肩をすくめて「いやなあ、Aの奴精神的におかしくなっていたらしいぞ」。

なんでも病院を脱走した前の晩、やはり風の音に怯えていて、朝になり風が収まったのを確認してから寝間着で逃げ出したそうだ。以来、風に連れて行かれるとの妄想に悩みだし、心を病んでいたらしい。

いやに詳しいですねぇと訝ると、B氏はにやりと笑って、大事なお客でもあったからなと小声で囁いた。あァ、また裏で商売してたんだなと気づかされた。どうりで詳しいはずだ。

B氏はタバコを吐き出しながら「ただ、あの姉(アネ)さん妙なこと、言ってたな。あの人は北風に連れていかれたんです、だとよ。笑っちゃうよな」

その話を聞いて素直に笑う気にはなれなかった。実際、B氏も顔をゆがめるだけで笑ってはいなかった。50年たっても忘れられないほどの辛い記憶。それがどれほどのものなのか、想像するしか出来ない。

冷たい北風が吹く夜、父親に呼ばれて玄関に行くと、見知らぬ人が自分を待っている。この人に付いていくんだよと言われた瞬間、もうこの家には戻れないと気付いてしまった。振り返っても玄関は閉じられ、戻りたいとの叫び声は北風にかき消されてしまう。

私にはそんな光景が思い浮かんでしまって仕方なかった。

底冷えするような寒い夜、月夜に照らされて北風に枯葉が舞い散る様子は美しい。でも、その美しさの裏に陰惨な光景が潜んでいる気がする。こんな寒くて風の強い夜は、あの時の寝言が夢に出そうで、それが嫌なのです。

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対戦相手決定

2013-12-19 12:09:00 | スポーツ

そわそわ、ウキウキ。

いよいよ来年ブラジルでのワールドカップでの対戦相手が決まった。初戦はアフリカ最強のコートジボアール、手堅い難敵ギリシャ、そして今季FIFAランキング4位の強豪コロンビアである。

ラインキングでいえば、日本は最下位のチームである。でも、三チームともワールドカップのでの優勝経験はなく、また決勝トーナメントの常連でもない。ある意味、実力伯仲の激戦区である。

必ず勝てるチームはないが、絶対に勝てないチームもない。ある意味、一番見応えのある組合せでもある。

ちなみに予想は、一位が地の利のあるコロンビアであり、暑さを考慮して二位がコートジボアール。残念ながら日本は予選リーグ敗退の可能性が高いと思う。ただし、初戦のコートジボアール戦に勝てたなら、決勝トーナメント入りは十分ありうる。

逆に初戦に負けたら、二戦目のギリシャ戦はまず勝てない。苦手なんですよ、日本はこの手の堅守速攻型のチームは。実際、秋の東欧遠征では、このタイプのチームに二連敗したのは記憶に新しいところ。多分、引き分けなら上等です。

三戦目のコロンビアは、この時点で予選突破が決まっていれば若手を出してくるので、案外勝ち目はある。だが、この三戦目の結果次第になると必死でくるので、非常に難しいゲームとなる。なにせ南米の地は相手にとってはホーム。しかも極上のFWを擁するチームだけに浮「。

いずれにせよ、実力伯仲の好ゲームが期待できる試合ばかりなので、今から期待感で浮ついてしまいそうです。一点だけ日本のチャンスがあるのです。それは他の3チーム、全て日本戦は勝ち点3を期待していることです。

おそらく引き分け狙いが多いギリシャでさえ、日本には勝てるつもりでいる。長身巨躯のギリシャに徹底的に守られてしまったら、日本に勝ち目はない。攻めてくれる相手にこそ、日本にチャンスが出てくる。

攻めに偏れば、如何なる相手であろうと日本にも勝ち目はある。それは先月のオランダやベルギーとの試合でも確認できたこと。ですから是非とも3試合とも、じっくり観たいものです。

ただ問題は試合開始時間が、日本の早朝であることですね。またまた眠い午前中が待っていそうです。

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人権の日

2013-12-18 12:01:00 | 社会・政治・一般

今月、10日は人権デー(Human Rights Day)だったそうである。

いささか非常識な暴論であることを承知の上で、敢えて言ってしまうと人権って怪しいと思う。

そりゃ、誰だって生まれた以上、幸せに生きたいと思う。産れ出でた事自体が、権利であり、生き続けたい、幸せに生きたいと願うのは本能でさえある。このことを否定する気はない。

誰にでもあるのが人権、だからこそあまり価値がないのではないか。実際、有史以前から近代に至るまで、人権なぞという概念は事実上存在しないも同じであった。

では、いったい何時からこの人権なる新たな概念が生まれたのか。思い出してみると、やはり犯人はロックとルソーであった。ただし、両者の唱える人権は、その土壌がかなり違う。それはイギリスの憲法と、フランスの憲法の差異に大きく現れる。

が、別に憲法論をしたい訳ではないので、ここでは割愛する。共通するのは、社会とは如何にあるべきかであり、その社会を総べる政府とは如何にあるべきかを考えた末に出てきた代物の一つが人権であることだ。

では、何故に人権思想は生れたのか。

これは、やはり旧来の伝統社会への対抗概念として生れたと云わざるを得ない。当時、イギリスもフランスも一千年ほど続いた中世の暗黒時代を脱し、産業革命がもたらした変革に揺れる激動の時代であった。

旧来の伝統社会は、神とキリスト教、王と貴族、農耕と牧畜、漁業と商業によって形作られたものであり、それが当然だと思われていた。しかし、ルネッサンスにより目覚め、旧来の宗教に反発する形で新たな信仰を求めて争い、火力と蒸気機関により生産力を増大させた工業の隆盛が必然的に社会に混乱をもたらした。

この混乱した時代に相応しい社会とは、新たな概念に基づくことが必要であった。そこで生まれた理屈がロックのとルソーの社会契約論である。旧来の神による社会の創造と神に認められし王の権威により支配される社会を打破する理論的支柱としての社会契約論。そこから生まれた概念が人権である。

私見であるが、人権とは、神の権利すなわち神の愛に代わる概念としてでっち上げらえたのが実情ではないかと思っている。旧来の権威でる神と王権に代わる存在として、科学と民主主義が新たな権威として立ち上がった。

科学は神を殺し、民主主義は国民主権として王を打唐オた。つまるところ、人権とは旧来の権威と社会を打倒のための正義の錦である。もちろん架空の概念ではない。人が人として人らしく幸福に生きる権利、それが人権なのだから当たり前にして当然の権利である。

だが、当たり前の権利であるがゆえに、意図も容易にないがしろにされてきたのが人権でもある。人権なんて多くの場合、踏み躙られ、磨り潰され、放り棄てられてきたのが歴史的事実。

何故か。

人は分け合う幸せも知っているが、奪う楽しみも知っている。欲しいものを力づくで奪う悦びも知っているし、踏みつけて優越感に浸る歓びも知っている。無償で与える尊さも知ってはいるし、敢えて欲しない崇高さも知っている生き物、それが人間だ。どちらも人間なのだ。

だからこそ、人が当たり前の幸せを追及する権利としての人権は、それを守る力があってこそ価値を持つ。旧来の封建社会では、それはあり得ぬことであった。神の愛はあっても人権はなかった。王の赦しはあっても、人権が政府を縛ることはなかった。

だがヨーロッパで生まれた民主主義に基づく近代社会は、その虚ろな権利である人権を保証することで旧来の社会から脱したとのストーリーを書き上げた。

ゆえに近代国家は、人権を守らねばならぬ。

だが、西欧の多くの国が近代化を果たした今、その人権の中身が変わりつつある。また西欧とは異なる歴史風土を持つ世界の国々では、近代化も人権も机上の理屈に過ぎない。

だからこそ、人権は世界共通の価値観ではないのが現実だ。

私は人権を否定する気はないが、人権を至上の価値観だとも考えていない。行き過ぎる権利の主張は、多くの場合暴走し、むしろ反対の結果をもたらす。それゆえに、私は人権を錦の旗よろしく振りまわす人には警戒感を持つ。

陶酔した正義感ほど厄介なものはないというのが、私の実感です。

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ギガントマキア 三浦建太郎

2013-12-17 13:09:00 | 

切に願って止まないのが、漫画「ベルセルク」の完結である。

あれは二十年以上前、二度目の長期入院を終えての自宅療養中であった。図書館に行った帰り、国道沿いのコンビニに立ち寄り、何気なく手に取った漫画雑誌に衝撃を受けた。

あまりに残酷な、異常に苛烈な、壮絶にして鮮烈な描写に目を奪われた。孤独に生きてきた主人公ガッツが唯一心を許したグリフィスを助け出しに行き、そこで見つけたのは、絶え間ない拷問を受けて肉塊と化した親友の姿。私はかつてない衝撃を受けた。


その悲惨な姿は、私には難病により病み衰えた自身の姿とかぶってしまい、それ以降目が離せなくなった漫画であった。以来十数年、隔月刊であった雑誌アニマルは隔週刊に代わり、漫画はアニメ化され、映画化もされたようだ。

だが、肝心の漫画は休載が多くファンをやきもきさせていた。そんな矢先、ヤングアニマル誌に衝撃の発表があり、「ベルセルク」の長期休載と、作者である三浦建太郎の久々の新作の短期集中連載が告げられた。

飽きたのか、それとも気分転換なのか。

物語の行く末がいっこうに見えないことに不安を抱いていたファンは、私を含めて少なくないと思う。しかし、誰よりも作者本人が、行き詰まりを感じていたのだろう。正直、唖然茫然であり、こんな破天荒というか、摧jりのことをしでかした漫画家は滅多にいない。

「王狼」や「ジャパン」の初期の二作を除けば、この十数年間「ベルセルク」だけが三浦建太郎の仕事であった。代表作であり、世界的にも評価の高い暗黒ファンタジーの傑作であることは間違いない。

だが、これ一作にあまりに傾唐オすぎた弊害が出てきたのかもしれない。以前、永井豪が同時並行で複数の作品を書くことで、むしろ作品の幅が広がると述べていた。売れっ子漫画家の凄みをその科白から感じたものだが、案外本当のことかもしれない。

既に二話が発表された表題の作品だが、さすがに面白い。ガッツと異なり陽性の気質の主人公が爽快ですらある。ただ、作品の世界観が果てしなく広がりそうな気配があるので、本当に短期連載で終わるのか、だけが心配だ。

三浦建太郎にとって、間違いなく気分転換にはなっているのだろうと思う。この作品は、これはこれで面白い。だが、この連載が終わったら、必ずや「ベルセルク」の連載再開を願って止まない。

あたしゃ、「ベルセルク」の完結を観るまでは、死にたくても死ねない気分なのだ。どうか、どうか見事な完結を見せて欲しい。ファンの切なる願いです。

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売るなら今でしょう

2013-12-16 13:44:00 | 経済・金融・税制

今年もまた平成26年度の税制改正大綱が発表された。

既に新聞やTVなどで報じられているとおりで、特段目立った項目はない。だが、あまり報じられていないのだが、一点私ら税理士が注目せざるを得ない項目があった。それが生活に通常必要でない資産に、ゴルフ会員権が加わったことだ。

かつてゴルフ会員権を手に入れることは、中産階級の人たちには大いなるステータスであった。高度成長期に数十万で買った会員権は、バブル期には数百万円で売却できた。勢いに乗って1000万円以上の預託金と数十万円の入会金の新しいゴルフ会員権が多く発売された。

ゴルフ場開発に資金を出していた銀行がすり寄ってきて、今買っておけば将来値上がりしますよとの甘い言葉に乗せられて、銀行から借金をしてまでしてゴルフ会員権を買ってしまった人は少なくない。

あまりに会員権を大量に発売したが故に、いつ行っても大混雑で、プレーも満足に出来ないゴルフ場が出たのは、ある意味必然といっていい。
やがてバブルが弾けて、長期の景気低迷に陥ると、期限が来ても預託金を返金できないゴルフ場が相次いだ。

結局、預託金はゴルフ場を倒産させないために、大幅に減額されてしまい、高値の売却も望めず、多額の銀行借入金だけが残る。合併が相次ぎ、行名さえ変わってしまった銀行は、過去の話だと知らん顔で融資の返済を平然と請求する厚顔ぶり。まさに踏んだり蹴ったりである。

でも、一つだけ救いがあった。それがゴルフ会員権の売却により、確定申告で売却損を計上し、給与や不動産所得と通算して税金を安くすることだ。これにより税金を安くして還付を受けた納税者は少なくない。

ここで、資産の売買について簡単にまとめてみたいと思います。ただし、不動産(土地、家屋)は除きます。つまり資産のうち動産の売買についてです。

まず、動産を売ればその儲けは譲渡所得として課税されます。ただし、生活に通常必要な動産(家財等)を売却しても、その売却益は非課税であり、売却損はないものとみなされます。ですから、皆さんがリサイクルショップなどで衣服、家財などを売っても税金はかかりません。

しかし、その資産が生活に通常必要でない資産の売却は課税となります。具体的には総合譲渡所得として所有期間(五年)により区分されて計算されます。

ただし、問題は売却損が生じた場合です。生活に通常必要でない資産(美術品や書画骨董、ヨットなどの贅沢品)の売却益は課税されますが、その売却損は「ないものとみなす」所得税法69②、施行令200と規定されています。つまりその売却損は、他の所得との通算が出来ない。

ところでゴルフ会員権って贅沢品ではないでしょうかね。私はそう思っていたのですが、所得税法を勉強すると何故かゴルフ会員権は、生活に通常必要でない動産には含まれていませんでした。つまり売って儲かれば課税、損を出せば他の所得と通算が出来た。

繰り返しますが税法はゴルフ会員権を生活に通常必要な動産とは取り扱っていません。でも、生活に通常必要でない資産にも挙げていませんでした。つまり税法上のグレーゾーンにあったのです。

だからこそ、膨大な含み損を抱えたゴルフ会員権を持っていた人は、それを安値で売却して確定申告で損失の通算をして、税金を安くし、又は還付を受けていたのです。

しかし、今回の税制改正大綱では、ゴルフ会員権を生活に通常必要でない資産に認定して、その売却益には課税する一方、売却損を他の所得との通算を認めないとしてきたのです。

実は、このゴルフ会員権の売却損の計上による節税封じは、過去何度となく噂になってきたのですが、国会に上がる前にいつのまにやら消え去り、今日まで温存されてきたグレーゾーンでした。

だから今回の税制改正大綱も、国会やら委員会やらの審議中にゴルフ会員権の項目は消え去る可能性がないではない。でも、安倍政権は財務省の意向に非常に忠実であるとの印象を拭い切れません。

ちなみに適用は平成26年4月以降のようです。現時点では法案であり、国会通過は2月もしくは3月を予定しているので、まだ確定ではないにせよ、このままの形で国会を通過する可能性は高いと思います。

そんな訳で私の事務所では、含み損を抱えたゴルフ会員権を持っていると思われる顧問先に、急遽連絡をとって今後の対応を助言することになったのです。さっそく今月中の売却を決断した方もいるし、まだ当分遊びたいゴルフ場なのでそのまま持っていると判断した方もおります。

節税のためだけに売却するのもどうかと思いますが、使っていないゴルフ場ならば、その会員権は今のうちに売った方が良いと思います。もし思い当たる節がありましたら、ご検討してみては如何でしょうか。

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