スケールの小さくなったアントニオ猪木、それが私の大仁田厚に対する印象だ。
大仁田自身はジャイアント馬場に憧れて全日本プロレス入りしており、馬場の付け人を務めて馬場夫妻に可愛がられた。ただ、大仁田のその後の生き方は、どうみても馬場をなぞらえたものではなく、むしろ猪木に近い。
私が大仁田の名前を知ったのは大学生の頃だ。当時、全日本プロレスの前座の試合で光っていたのは、業師といわれた淵と、熱血ファイトの大仁田の試合であった。スローな展開が多い全日本プロレスにあって、この二人の試合は展開が素早く見応えがあった。
だからこそだろう。当時タイガーマスクが大人気であった新日本プロレスに水を空けられていたことを気にしていた馬場は、大仁田をジュニアヘビー級のスター選手として担ぎ上げて対抗しようとした。
だが私は違和感を感じていた。大仁田は地味ながら熱いファイトぶりが持ち味で、タイガーマスク(佐山)のような華麗さはない。いや、華麗を超越して天才的な試合捌きをみせるタイガーの対抗馬としては、いささか地味すぎると思っていた。
だからであろう。大仁田はリングでの試合よりも、週刊プロレス誌でのインタビューなどで派手にタイガーマスクへの口撃を繰り返し、話題作りのみを先行させていた。それでいて実際にタイガーとは試合をする気はないように思えた。
記事を読みながら、なんだかなァ~と訝しげに思っていた。いくら紙面上で対決を盛り上げても、実際の人気はタイガーに遥かに及ばなかった。でも大仁田は頑張った。慣れぬ空中殺法を派手に繰り広げ、持ち味の熱血ファイトをリングで披露していた。
でも、やっぱり不慣れな技を繰り返したせいで、ついに大怪我を追った。タイガーが得意としていた鉄柱から飛んでのプロレス技を真似たのだが、なんと膝から地面に直撃してしまい、膝の骨を粉砕骨折する重傷であった。
この怪我からの復帰は難しく、最終的には引退を決意する。ジャイアント馬場としても断腸の思いであったと聞いている。
ところが、この後の大仁田の人生は大きく有為転変を繰り返すことになる。タレント、事業家そして自らFWAという団体を設立してのプロレス復帰である。しかも有刺鉄線に電流を流したリング上でのデスマッチを売りにした正統派とは縁遠い邪道プロレスで一躍人気者となった。
正直に云うと正統派のプロレスファンを自認していた私には認めがたいプロレスであった。でも冷静に考えれば、膝を壊しまともなプロレスが出来ない大仁田にとっては、これしかないと云うべき必死のプロレス興行であったのだろう。
その後は政治家になったり、タレントになったり、はたまた先生になったりと忙しない生き方をしている。どれ一つ、ものになっていない感が否めないが、人生もまた熱血ファイトというのが大仁田らしい生き方なのだろう。
その熱い生き方は、一部の若者からカリスマ呼ばわりされるほどのものであったが、反面はた迷惑な生き方でもある。大仁田の功績として、ローカルプロレスが事業として成立することを実証したことがある。
それまでプロレス興行は、TV局がバックにつき、大手スポンサーの支援があり、なおかつ興業主にプロレスラーとして十二分に実力があることが必要だとされていた。ジャイアント馬場にせよアントニオ猪木にせよ、単に人気があっただけでなく、真剣勝負にも強く、かつ資金力のあるタニマチ、スポンサーをもっていたからこそ、プロレスを事業として成功させた。
しかし、プロレスラーとしての実力は二級線、スポンサーに乏しく、かつTV局のバックもない。そんな大仁田だが、人目を引くアイディア(電流デスマッチ等)を、地方の小さな会場で、短期間の興業にすることで事業として成功できることを立証した。
この大仁田のFWAの成功は、日本各地に規模の小さなローカル・プロレスを幾つも花開かすことにつながる。その結果、日本のプロレスはかつての隆盛を失い、規模の小さな興業に堕してしまった。
アメリカのプロレスが、ケーブルTVの活用や大げさな演出などで、より派手になり人気を博したのとは真逆の方向になったのが、今の日本のプロレスである。
プロレス最強を唱えて、かえってプロレスに対する不信感を募らせてしまったアントニオ猪木と同様、ローカルプロレスという道を開いてしまった大仁田もまた、猪木同様プロレスの没落を招いてしまった張本人の一人である。
ただ猪木ほどのスケールはなく、それゆえにあまり強く非難する気にもなれない。ある意味、困った御仁であると思いますね。