日本の常識は、世界の非常識といわれて久しい。
その非常識の最たるものが、軍事に関することである。およそ世界の国々の大半では、軍人は敬意を表される職業である。日本でも太平洋戦争まではそうだった。
しかし、敗戦以降軍人は蔑視の対象とされ、軍事知識を得ようと学ぶことは、戦争を意図する危険な行為だと。いや、正確に云えば、危険な行為だと思わせるよう、GHQが策動し、それに乗る形でマスコミと教職員組合が仕組んだといっていい。
だからこそ、彼らは歴史が必修科目になることを恐れられた。現在、朝日新聞が必死で日本史の必修化を阻止しようと奮闘している。無理もない。
なにせ朝日新聞といえば、歴史を改ざんし、捻じ曲げることで日本を戦争から離れさせ、軍事力の増強を阻止し、平和市民の育成に励んできた独善的平和主義の総本山なのだから。
性質が悪いと思うのは、朝日新聞に代表されるこの手の平和愛好市民たちは、自らの善意と正しさを信じて疑わないところだ。だからこそ、歴史を学べば分かる真実を知られることを厭う。
朝日新聞の思いとは裏腹に、おおよそ世界のほとんどの国において軍人は尊敬され、軍事を整備することにより社会が安定し、商業が盛んになり、生活が豊かになる。もちろん、軍事の拡大が侵略戦争を引き起こすことだってある。
一例を挙げれば、豊臣秀吉の朝鮮出兵は、国内を統一したことで部下に領土を新たに分け与えることが出来なくなったが故に、新たな領土をシナに求めたとの説がある。おそらく元となったのは織田信長の海外志向だと思うが、秀吉には拡大した兵士たちに新たな領土を与えねば、軍を維持できぬとの想いはあったようだ。
これははっきりと認識しなくてはいけないが、軍というものは消費するばかりで、生産はしない。だからこそ、兵に農地を与えて生活の糧を与えることが必要だった。朝鮮出兵の失敗以降これ以上、日本国内に領地を増やせないと覚悟した徳川家康は、兵を官僚化して飼いならす一方で、些細なことで御家取り潰しを連発して、兵の削減に励んだ。
戦乱の日本で幼少時より苦労した家康には、軍の危険性と必要性がよく分かっていたのだろう。最終的には、戦国時代屈指の大軍団を擁した徳川家だけに、その縮小と管理には非常に苦労している。
こと、内政に関する限り、徳川の軍事管理、いわゆる今風に云えばシビリアン・コントロールは見事に成功したがゆえに徳川400年の平和な治世が成功したのだと思う。反面、国際政治に疎く、産業革命による新兵器を用いた帝国主義には対応できず、幕末の混乱で政権の終わりを迎えた。
適切な軍事力は、たしかに平和に貢献するが、状況の変化に対応していかないと、むしろ平和を守れない。また過度な軍事力は不要な戦争を招くのも歴史が教える事実でもある。
軍にせよ、官僚組織にせよ、消費するばかりで生産能力のない集団は、自己増幅志向が強いので、朝日新聞の長年の主張にもそれなりの道理はあると私は思っている。ただし、極端すぎる。
適度な軍事力は、周辺国家との緊張を良い意味で安定化させ、交易を盛んにし、平和に貢献することも歴史的に実証されている現実なのだ。だからこそ、歴史を必修化して学ぶ価値がある。
しかし、戦争を否定し、軍人を蔑視し、軍事を学ぶことは戦争への道だと、日本国民を洗脳してきた朝日新聞ら反日自虐平和愛好市民からすれば、歴史の必修化は断固阻止せねばならぬ。そのように善意で信じきっているのだろう。
愚者は過去から学ぶことをせず、ただ自らの善意に酔い痴れるのみ。まったく困ったことです。
日頃は一番とか先頭とかに拘らないのだが、山登りの時はトップを歩くのが好きだった。
東京育ちのわりに野山で遊ぶことが好きだったので、わりと観察力はある。動物の足跡や、虫の居場所、獣道と隠れ沢などを見つけるのが得意だった。当然に地図読みは得意であり、コンパスで方位を確認しながら地形を読んで、適切に現在位置を把握して、最適な道を探すことに長けていた。
だが、そんな私でもジャングルでは素人同然であろうと思っている。
本格的なジャングルを歩いたことはないが、それに近い密林なら経験している。そこで私が戸惑ったのは、平地に近い状態では地形図は意味をなさないことだった。起伏が少ないので、地形を読み取ることが困難なのだ。
おまけに植物が密生していうので、見通しが効かない。だから私の読図力がまるで役に立たないのだ。そんなジャングルで役に立つのは、まず観察力である。特に踏み跡などを確実に見つけ出す目が重要となる。おそらく嗅覚と聴覚も重要だろう。
植生の濃い密林では、人間だけでなく動物だって移動するルートは限定される。自然と歩きやすいルートを選択し、その積み重ねが道となる。人だけでなく、動物も歩く道であり獣道と称される。
直立して二足歩行により移動するのは人間だけで、多くの動物は四足で歩くため、だいたい人間の腰から上は植物で覆われて、その下にトンネル状のルートが出来る。人間は四足での移動に不向きなので、そのトンネル状のルートを植物をかき分けて歩くことになる。これを藪漕ぎといい、文字通り草むらを泳ぐように移動する。
足元が見えないので、足先の感覚が重要になる。また獣道は、多くの場合動物たちの匂い付けの痕跡がある。この匂いを嗅ぎ分けることが出来ると、人の道と獣道の区別が出来るようになる。
聴覚を必要とするのは、水の音を聴き分けるためだ。水なしでは人は三日と生きられない。水の確保は野生では絶対に必要な術となる。感覚が鋭敏な人だと、水の匂いまで分かるそうだが、私はそのレベルにない。
もっとも水の音を聴き分ける際、重要なのは危険を察知することだ。水のある場所は案外と危ない場所に近いことが多い。水の流れが大地を削り、谷を作っていることは珍しくない。水の音に誘われて、無造作に進むと谷に転落することもある。
慣れてくると、水の近くと、そうでない場所では植生が違うので、それで気が付くこともある。視覚、嗅覚、聴覚を全て活用しないと、密林は歩けない。
そのことを思い知らされたのは、あの観光地であるグアム島である。私はゴルフをやらないので、ゴルフをやる知人とは別にグアムを散策していたのだが、ちょっと観光ルートを離れると、すぐにジャングルといっていい密林となる。
敗戦後、旧日本兵がグアムの密林に隠れていたそうだが、実際に行ってみると本当にジャングルそのものだった。軽い気持ちで入り込んだのだが、すぐに戸惑った。まず昼間でも薄暗いため見通しが効かない。起伏はけっこうあったが、植生が濃すぎて山と谷の区別も難しい。
10分と歩かぬうちに道に迷ったことに気が付いた。山歩きには慣れていたが、このような密林は初めてであり、かなり戸惑った。落ち葉が多くて、自分の足跡さえなかなか判別できない。
さすがに困ったが、冷静に立ち止まり、周囲を見渡し、改めて耳を澄ますと水音が聴こえてきた。そういえば、観光パンフレットに滝があり、そこに行くはずだったと思いだした。そこで、水音を頼りに歩いてみると、整備された遊歩道にぶつかった。
ほっとして、その遊歩道を水音の方向へ向かったのだが、ふと気が付いて脇を見てゾッとした。その遊歩道の奥は崖になっていて、2メートルほど下に清流が流れていた。もし、遊歩道がなかったら、私はその崖から転落していたかもしれない。
ジャングルは怖い、とつくづく思った。
表題の作品は、反政府組織に囚われたジェット旅客機から隙を見て逃げ出したものの、ジャングルで迷子になり政府からも行方不明者として見捨てられたセールスマンと、その救出に向かう妻子の物語。
泥水をすすり、マラリヤに罹患し、現地の避難民の少年に助けられたセールスマンに困難な脱出劇の主人公の面影はなく、助けに向かう奥さんは現地で戸惑うばかり。息子さんは盲目であり、手助けどころかお荷物なのだが、この息子さんの父親への想いがなければ、この救出劇は成り立たなかった。
ジャングルからの脱出を描いた冒険小説かと思ったが、妻の思い出を胸にジャングルを彷徨う情けないセールスマンと、これまた夫に優しく出来なかった悔恨を胸に勢いでアフリカに乗り込んだものの、なにも出来ずに呆然とする妻の情けない話には、正直呆れた。
呆れはしたが、実際に都会生活に慣れた文明人がアフリカのジャングルで迷ったならば、似たり寄ったりの悲惨な状況に陥ることも理解できた。その意味で迫真のドラマだと云えなくもない。
冒険小説として読めば失望を禁じ得ないでしょうが、現代文明が通用しない野生に突き当たった人間たちのドラマとして読めば、それなりに思うところはある。
正直、再読することはないと思いますが、改めて人間の弱さを確認させられた作品でもあります。もう軽い気持ちでジャングルに入り込むことは止めにします。
君のアイディアで世界は変えられる。
子供向け映画に苛立つのはどうかと思うが、上記の科白に正直少し苛立った。
予め断っておくと、子供向け映画としては十分楽しい。実際、私も笑ったし、楽しんだことは間違いない。にもかかわらず私が苛立ったのは、冒頭の科白「君のアイディアで世界は変えられる」の一言が原因だ。
子供には夢が必要なので、同行していた子供には何も言わなかった。実際楽しそうだったのだから、その気持ちに水を差すほど私は無粋ではない。
無粋にはなれないが、それでも忸怩たる気持ちは拭えない。アイディアが世界を変えることは確かにある。しかし、アイディアだけで世界が変わったことはない。
アイディアを実現し、それを世に受け入れさせるのは至難の道である。だからアイディアが生まれても、そのうち実現できただけでも数千件に一件あるかどうかであり、ましてそれが世の中に受け入れられて、世の中を変えるともなれば天文学的な確率でしかない。
ほとんどのアイディアは日の目を見る前に沈没してしまう。それが現実なのだ。ただ、子供には夢が必要なので、口には出さなかった。
私が苛立った理由の背景にあるのは、21世紀の現代文明が技術的な停滞期に入っているからでもある。18世紀に始まった産業革命は、火力と電気という新たなエネルギーを活用することで、飛躍的に生産力を伸ばした。
それは20世紀になり、石油化学製品を生み出すもととなり、科学の進歩こそが人類に最大の貢献をもたらすことを証明した。だが、次なるエネルギーの開発で停滞を余儀なくされた。
アインシュタインが理論構築した原子力エネルギーは、いわば地上に恒星をつくるようなもので、現時点でもまったく実現の展望は開けていない。現在ある原子力活用は、原子力のエネルギーの一部を使っているだけで、後は爆発させるしか出来ない。つまり未完成の技術なのだ。
はっきり断言しますが、ヨーロッパもアメリカも、そして日本も技術的な発展は限界に達し、産業は停滞している。だからこそ、未だ発展開発の余地があるアジア、南米、アフリカ、シナが新たな発展先として考えられている。
だが、現在急成長しているシナでさえ、欧米で生まれた産業革命の成果をそのまま模倣しているだけで、地球人類的にみるなら新たな発展は何一つない。シナは成長できるだけマシで、アフリカや南米は可能性を持ちながら、思うようには発展していない。
現時点で、新たなアイディアが世界を変える可能性は、ほとんどないと私は思っている。
割と勘違いしている人が多いが、コンピューターは確かに便利な計算機であり、その機能は今後も発展していく。だが、コンピューターは付加価値であり、元となる機械なりサービスを向上させることは出来ても、新たなエネルギーは産みだせない。事実、IT産業は国家を支える基幹産業にはなれない。
なぜなら、ITの本質は付加価値であり、付加する対象となる基幹産業あってこそ、その機能は活かされるからだ。例えば現在、農業にITを活かすことで、農業の生産効率を高めることが行われている。コンピューターによる温度、湿度、水量、照射量管理などは、従来にはありえないほどの農作業の効率化をもたらしている。
だが、これは農業という基幹があってこそであり、ITが農業に代わることを意味する訳ではない。ITの本質は、なにかの機能を高めることであり、そのなにかがなければ価値を持たない。
上記の映画は続編で、一作目では水から食料を作り出すアイディアを実現した発明家の青年のドタバタ劇であり、今回はその食料がモンスターとなって暴れ出す騒動が引き起こされる。その解決のために、再び発明家の青年が仲間とともに乗り込んでのドタバタ劇。
アニメーションとしては実に楽しい。だから子供を楽しませるには良いと思うのだが、私は余計なことを考えすぎて、あまり楽しめなかった。
原子力エネルギーの究極は、水からエネルギーを作り出すことだ。すなわち水素を核融合によりエネルギー転換することなのだが、未だ実験室レベルでも実現の糸口さえ見つかっていない。
水からエネルギーを作り出すアイディアは素晴らしい。でも、その実現には幾多の困難が控えており、最先端の研究現場で働く科学者からは絶望の溜息がもれるばかり。やはりアイディアの実現は、凄まじく困難な道程であるのが現実だ。
余談だが、私は現在の日本でマスコミが盛んに宣伝する脱・原発報道が大嫌いだ。不完全で有害な現行の原子力発電に否定的なのは分かるが、そのアイディアを実現することの困難さを、まるで直視せずに安易に騒ぎ立てるだけ。
子供向け映画ならば許せるが、現実の社会がそれと同じでは困る。子供には夢が必要だが、大人には冷静に現実を直視する勇気が必要だと思う。それなのに、大人がお子ちゃま理想主義に走っているのは、実に醜悪であり、現実問題迷惑でさえあると思います。
日本のマスコミは、報じるべき重要なニュースを報じず、自らの意向に沿ったニュースを意図的に騒ぎ立てる悪癖があります。
最近ですと、安倍首相の靖国参拝と日韓、日中の関係悪化を騒ぎ立て、尖閣諸島問題にまで波及させて、反日自虐報道を繰り返しています。
その一方で、非常に重要なニュースを軽視して、まともに報道しない。実は昨年から日本の国防体制は大きく変わりつつあるのです。いわゆる自衛隊の内部改革であり、具体的には組織の構成の大規模な変更が実施されだしたことです。
元々日本は憲法で軍隊の保持を禁止しているにもかかわらず、自衛隊と称する軍隊を保有しています。この自衛隊という軍隊は、自国防衛というよりも在日米軍基地の防御及び太平洋艦隊の防御を目的として編成されています。
すなわち、アメリカの対ソ連目的の軍事体制の一環としての位置づけが自衛隊の存在価値でした。だからこそ、北海道にソ連軍の侵略を防ぐため、陸上自衛隊の主力を配置し、青森に航空自衛隊の主力を配備していたのです。そして海上自衛隊は、アメリカ太平洋艦隊の対潜水艦目的の防衛艦隊として構成されてきたのです。
しかし冷戦が終結し、ソ連がアメリカの主要な敵ではなくなる一方、唯一の超大国となったアメリカに対して、非正規軍事組織(テロリスト)による局所的低圧軍事行動(テロ)が頻発するようになったのです。
この変化に対応するため、アメリカ軍は世界に散らばっていた軍事拠点を沖縄をはじめとして四か所に集約し、多くの基地を閉鎖しました。同時に世界最強の軍事力の軽量化を図るようになりました。
60tを超す超重量級戦車を、20t程度の多軸走輪武装装甲車に変えて、紛争地点に迅速に配置できるようにしました。また、世界最高水準の戦闘機を敢えて生産中止させて、代わりに無人の航空機を多数配置させて人的損失を減らすようにしています。
このアメリカ軍の軍事面での変革は1990年代に始まり、今も続けられています。その第二弾として、日本やイギリスなどの同盟国の軍事力を、アメリカの新体制に合わせて再編成させることを始めたのが昨年からなのです。
自衛隊は、従来の師団構成を大きく変更し、小規模ながら高性能高機能な部隊編成に変えて、テロへの対応はもちろん、離島防衛といった従来にはなかった体制に変更することになります。
そのための予算編成が、実際に組まれており、順次実施されるようになったのです。具体的には輸送自衛艦と呼ばれるヘリ空母の配備と、垂直離発着機であるオスプレイ搭載に向けてのアメリカでの訓練などが該当します。
軍事音痴な日本のマスコミが、安倍首相の靖国参拝と絡めて尖閣諸島問題に対応しての自衛隊の再編成なのかと間抜けな質問をしていました。
まったく無関係です。靖国問題があろうとなからろうと、また尖閣諸島問題があろうとなかろうと、この自衛隊の再編成は実施されていたはずです。なぜなら、その基本計画は10年以上前に立案されたものだからです。
オバマ政権が日本と、シナやコリアとの関係悪化を危惧しようとしまいと、米軍再編に対応した自衛隊の再編成は粛々と実施されていたはずです。いくらコリアの陰口大統領が騒ごうと、シナの口先番長が睨みをきかせようとしても、この自衛隊再編は10年以上前の長期的視点に立ってのものであるのです。
安倍首相が靖国参拝をしようとしまいと、この再編成は必ず実施されていたでしょう。このような重要な政策の変更をまともに報じない日本のマスコミのレベルの低さにはウンザリします。
生れ出でて半世紀ともなれば、そろそろ自らの人生の終焉を意識せざるを得ない。
たしかに体力も落ちたし、集中力にも衰えがみえる。だが、若い時よりはるかに狡猾になり、要領もよくなっている。なにより積み重ねた経験から、あからさまな間違いをしなくなると同時に、未来への方向性もより確実になっている。
これまで積み重ねたものを、将来に向けて如何に結実させるか。単なる夢ではなく、具体的なプランとして実現できるまでに、自らの実力も向上している。年をとって衰えたものは確かにあるが、逆に向上している部分だってある。
だから、年をとるのも、そう悪いものでないと思っている。
ただ、私自身の努力では如何ともしがたいものがある。それが、現在完結していない小説や、漫画の行く末である。いろいろな事情で、続編が書かれていないようだが、作家として自らの作品の完結させるのは義務ではないかと思う。
小説家でいうなら、田中芳樹と夢枕獏の両名が双璧であろう。この御ふた方、未完の作品が多すぎる。非常に困ったことに、読めば面白いのである。それこそ鉄板で面白いのである。だからひたすらに続編が出るのを待っているのだが、待てど暮らせど出やしない。
漫画家ならば、萩原一至「バスタード」と冨樫義博「HUNTER×HUNTER」が双璧だ。そろいもそろって週刊少年ジャンプ出身である。萩原は掲載誌を月刊誌に変えているにもかかわらず、年に数回しか連載していない。冨樫に至っては未だ週刊(週刊ですぜ、週刊!)少年ジャンプに居座っているが、掲載するのは年に8週から12週程度である。
信じがたい怠慢である。プロならば締め切りを守るのは、当然の義務である。ジャンプ編集部及び集英社がこの怠惰を許しているのは、営業的な理由に他ならない。なにしろ単行本を出せば必ずベストテンの上位に顔を出す人気漫画なのだ。だからこそ、余計に腹が立つ。
イイ年して、少年漫画に目くじら立てるなんて大人げないとは思うが、正直言えばこの漫画、大のお気に入りなんです。週刊少年ジャンプといえば、「ONE PIECE」と「NARUTO」が二大看板だが、内容質ともに勝るとも劣らないのが、この「HUNTER×HUNTER」なのです。
物語のパワーと勢いなら「ONE PIECE」だし、物語としての質の高さなら「NARUTO」でしょう。しかし、読者の期待を良い意味で裏切る物語の奇想天外さや絵の上手さならば「HUNTER×HUNTER」が頭一つ抜けている。
だからこそ、連載が年に二月に満たないことが腹が立つ。
なお、作者本人は特段言い訳していないが、連載が遅れる理由はまず本人の絵に対する拘りだと云われている。なにせ一時期はアシスタントを置かずに、全て一人で書いていたぐらいだ。おまけにスクリーントーンを使うことも嫌がり、全て手書きであった時期もある。
また確証はないが、メンタル面での病気療養が噂されたこともある。なにせ悪名高き週刊少年ジャンプの連載強行に、作者がめげてしまったケースは少なくないので、けっこう信ぴょう性はある。病気かどうかはともかく、精神面で繊細な感性の持ち主であることは、作品からもうかがわれる。
もっとも巷間噂される最大の理由は、やはり家庭、とりわけ育児であろうと思われる。奥様は「月に替わっておしおきよ」などと言い放って人気を博した少女漫画家であり、夫婦ともども産まれたお子さんの世話に夢中で、漫画が手に付かないと噂されている。
なにせ小学館の新社屋の建築費用を叩きだしたと云われる世界的大ヒット作「セーラームーン」の作者と、単行本を出せば集英社の社員のボーナス全額を賄えると云われる大ヒット漫画の作者の夫婦だけに、金には困らない。出版社としても作者の尻を叩きたいのだろうが、へそを曲げられるのが怖くて手が出せないらしい。
おかげで一年近く連載が空いている始末である。冨樫本人も少しは気にしているようで、そのことが映画製作を認める理由になっているのだろう。既にTVアニメ化された「HUNTER×HUNTER」だが、映画化されたのは意外にも一年前の「ファントム・ルージュ」が初めてで、表題の作品は二作目にあたる。
おそらく冨樫自身は製作には、あまりかかわっていないのだろうと思う。一作目は未発表の原稿がネタだとされているが、二作目は不明だ。一年前、丁度大雪で帰京できなくなった時に、甲府の映画館で一作目を観ているが、顔見世興行的な作品で、幻影旅団のファンなら満足できるものだったと思っている。
二作目は先日観てきたが、こちらも冨樫本人は積極的にはかかわっていないだろうと想像できる。ただし一作目より作品としては良く出来ていた。多分、スタッフが慣れてきたのだろう。
でもねぇ、ファンとしてはやはり冨樫本人の筆による原作を読みたい。そう思っているのは決して私一人ではない。ジャンプで現在連載されている漫画のなかでも、「HUNTER×HUNTER」ほど濃いファンを持つ作品はないと云われている。
その魅力はなんといっても登場人物の人間造形の良さにある。既に百人を超える登場人物が出ているが、もう作品に出てきていないキャラクターでさえ、きっとどこかで生き生きと暮らしているはずと思わせるほど、その人物造形は印象強い。
私はかれこれ40年以上、漫画を読み続けてきているが、こんなに多彩な登場人物が生き生きと感じられる作品はないと思っている。だからこそ多くのファンが再開を待ち望んでいる。
その要望に応える形で、劇場公開の映画が製作されたのだろう。なればこそ、早く本編が読みたいのだ。まったくもって困った漫画である。