ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

誓約

2020-11-20 11:52:00 | 日記

私は税理士という職業柄、仕事上で知り得たことを他者に漏らしてはいけない。

これを守秘義務といい、三途の川を渡るまで守るべき誓約だと考えている。でも、それとは別に係るべきでない、あるいは近づくべきではないと心に堅く誓っていることがある。

初めてその誓約あるいは禁忌に近づいたのは、高尾山だった。東京の子供ならば遠足などで一度は登る観光地である。私はカブスカウトで知り合った仲間と、高尾山の周辺の山で虫取りを覚えた。

私はそこで初めてミヤマクワガタとミンミンゼミを捕まえた思い出の山でもある。以前にも書いたが、高尾山そのものは、実はあまり虫は取れない。建材として植林された針葉樹は、虫や鳥にとって死の山である。

だけど、その周辺の低山には、まだ武蔵野の原野の面影を濃く残した森がある。そこが虫取り好きの宝の山であった。もっとも小学生低学年の私には頻繁に行けるわけがなく、主に夏休みに貯め込んだ小遣いで京王線に乗って行ったものだ。

親には内緒の冒険なので、夕方までに家に帰ることが絶対のルールであった。あの時は、クラスメイトのT、Kと三人で行ったはずだ。もっとも虫取りは隠密行動が基本なので、夕方4時に麓の売店に集合と決めると、後は各自バラバラに森に入り込んだ。

私は何度も来ているので、慣れた獣道を登り、クヌギや楢の大木がある峰を目指して森のなかを彷徨った。途中でスズメバチに追われて、危うく刺されそうになったが、素早く雑草の茂みに潜ってやり過ごした。

ほっとして、ふと背後を見るとやけに空間が眩しい。なんだと思い、茂みを突きぬけてみたら、そこには何もない空間が拡がっていた。周囲の木々がその場所を囲う様に立っていたように思えた。

その時、私が感じたのは美しさだった。空気さえも清々しく、木々の隙間から見える多摩の山稜が緑に輝いていた。まだ標高の高い山に登った経験のない子供の私だが、その景色が神々しいほどに美しいことは肌で感じた。

いや、本当に鳥肌がたつほどに静かで美しい空間であった。ふと気が付いたら、私は膝を地面に付いて、両腕を胸の前で合わせて呆然としていた。その時、私は気が付いた。

ここは、人が居てはいけない場所だと。

私は四つん這いになり、そのまま後退り、茂みに潜って元の場所に戻った。スズメバチが既に居なくなっていたことに安堵したが、同時に耳をつんざくほどの蝉の鳴き声に気が付いた。

あれ?さっきまで静寂だったはずなのだが。私が茂みのなかを動いたのは、ほんの数メートル。蝉の鳴き声が聞こえないはずはない。その時、背筋がぞっとしたことは今も覚えている。

急に怖くなった私は、逃げるようにその場を立ち去り、馴染みがある場所に着くまで走った。もう虫取りをする気が無くなり、とぼとぼと山道を下り、待ち合わせ場所の売店でTとKを待った。

あの場所のことは口に出せなかった。二人には今日は目当ての虫は獲れなかったよとだけ告げた。

その里山には、その後も何度も足を運んだが、あの空間には二度と辿りつけなかった。いや、私が避けた、無意識に近づこうとしなかった。中学生になる頃には、頭からさっぱりその記憶が抜け落ちてしまった。

思い出したのは19の春、大学のWV部の合宿で九州に行った時だ。人吉盆地から高千穂へ南下する途中、川の中州にあった古風騒然たる神社にお参りした時、急にあの里山のことを思い出した。

あの神社にも似たような空気があった。静かで、空気が清浄で、なんとなく背筋が伸びるような凛とした雰囲気が似ていた。ただ、あの里山のほうが異空間的な違和感が強かったと思う。

私は二度とあの場所へは行かないと胸に誓っている。あそこは人が居てはいけない場所だと信じているのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

車輪

2020-11-19 11:53:00 | 社会・政治・一般

人類の発明のうち、最も偉大とされるものが車輪である。

特に車軸を設けて台座に付けたものは、物流を革命的に改善した。猫車のような一輪車から、馬に引かせる二輪の戦車、あるいは牛に牽引させる四輪車など古代から人類の文明に多大な貢献をしてきた。

いつごろ発明されたのかは諸説があるが、おそらく石器時代まで遡ると思われる。私見だが氷河期以降ではないかと思っている。というのは、海面が大きく下がった氷河時代に、人類の一部がベーリング海峡(当時は地峡として繋がっていた)を渡って新大陸へと移動している。

その新大陸では車輪を使わない文明が栄えたからだ。南米各地に支配地を広げたインカ帝国も、中米のアステカ帝国も、またオルメカ先史文明も車輪を一切使った形跡がないからだ。

車輪を使わずにあれほどの石器建造物を築いたことは凄いと思うが、車輪を知らないが故に、ユーラシア大陸とは無関係な文明であったと分る。

一方、知識として車輪を知りながら、なぜだか車輪をまともに使わなかった国もある。それが朝鮮半島の国々である。いや、正確に云えば、古代の三国時代には車輪は使っていたはず。しかし、いつのまにやら車輪を使わない国となっていた。

ただ、当時の支配階級は、移動する際に一輪車に台座を載せた不安定な乗り物を使っていた。二輪にすれば、もっと安定すると思われるが、日本が清朝から朝鮮を譲り受けるまで、二輪車は存在しなかった。


どうも車輪を作る技術がなかったのが本当らしい。一輪であったのは、古い木製の車輪を使いまわしていて、二輪にする余裕がなかったようなのだ。車輪を作るには、熱した蒸気などを用いて木材を曲げる工程が必要となる。その技術が途絶えていたのが実態らしい。

豊臣秀吉の朝鮮出兵で現地に赴いた日本の武将が驚いたのは、朝鮮半島が驚くほど貧しかったことだ。その原因の一つに、灌漑技術がなかったことが挙げられている。端的に云えば、水車がなかった。水車という車輪を作ることが出来なかったのだ。

平地は十分にあり、河川もあるのだが、水路を自在に引く土木技術がなかった。水車があれば、多少の高低差を克服して耕地を増やせるはず。しかし、その水車が作れなかった。

秀吉の死により、日本軍は撤退したため、19世紀まで開墾されていない平地が有り余っていた。日本の朝鮮併合により、ようやく水路と水車によって開墾が進み農業生産力が延びた。

なぜに車輪を作ることが出来なかったのか。

私の考えでは、その原因は儒教にあると思う。儒教は古の周という国家を理想像に掲げている。そのために、新しいことをすることを厭う傾向が強い。また士農工商の考えが強く、工業や商業を蔑視する。

そのせいで、朝鮮半島では驚くほど商業が発達しなかった。当然に工業も発達するはずもなく、流通のための道路、水路さえも蔑ろにされていた。車輪が作られなかったのも、そのような精神風土が強く影響していると私は考えます。

中世の朝鮮青磁などを見れば分かるように、決して技術を持たない国ではない。今でもアイディア豊富な商品を開発することもある。ただ、その技術が継承されない傾向が強い。

技術蔑視、手作業蔑視は、儒教というよりも両班と呼ばれた貴族社会の悪弊なのだと思います。これは現代のコリア社会でも生き残っている性癖です。この悪癖が治らない限り、コリアが製造業大国として栄えることはないと私はみています。

可能性というか、才覚はあるはずなんですけどね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都嫌い 井上章一

2020-11-18 12:45:00 | 

「ヌマンタはん、ぶぶづけ食べていきなはれ」

はい!大盛りでお願いします。

是非言ってみたいものだ。まァ大人になって人格が淘汰された今の私は我慢して云わないと思うけどね。

ただ現実問題、私はぶぶづけなる科白を聴いたことがない。もっといえば、京都出身の方とは、ほとんど出会ったことがない。いや、挨拶程度の付き合いならあったと思うが、相手宅を訪れるほど親しくなったこともない。

正直言えば、私は京都が嫌いだ。なぜだか不思議なくらいに嫌っている。ちなみに仏像とか寺院はけっこう好き。でも、京都だけは嫌。

かなり理不尽な気もするので、我ながら不思議に思っている。実際に「ぶぶづけを・・・」なんて言われたこともなく、京都出身者と揉めたこともないのだから、公平にみて私がおかしい。

ここまで私が嫌いだと思っているのは、日本広といえども京都あるのみ。別に誇れることでもないし、大声で誇示すべきでもない。だから頭を冷やして、淡々と書き記していこう。

私が京都を嫌いだと思う原因の一つに、その思い上がりがある。なにが千年の都だ、頼朝に政治の実権を奪われて以降、一度は尊氏をたぶらかせて京都に幕府(政治的実権)を戻したが、そのせいで室町幕府は脆弱化した。

結局、信長にコケにされ、秀吉には大阪に逃げられ、あげくに家康に実権を鎌倉の更に東の江戸に持ち去られた。実質、信長以降、京都が政治の中心であったことはない。

では、京都の存在意義って何だ?天皇の権威なのか、それとも伝統ある寺社の威光なのだろうか。私には京都に権威があるとは到底思えない。

そんな私の疑問に光を投げかけてくれたのが表題の書だ。

著者は嵯峨生まれなので、私からすると京都人である。しかし、京都の洛中からすれば洛外の田舎者であるらしく、著者の根深いコンプレックスとなっていた。そんな差別があるとは知らなかった。

著者にとっては、相当な屈辱であったようで、その思いを燃料にして書き記したのが表題の作品なのである。

なかなか興味深い内容であるので、京都好きな方にも是非一読してもらいたい。

ところで読後に気が付いたのだが、明治政府、特に薩長のお方々、多分私以上に京都が嫌いだったと思いますよ。天皇を江戸に連れ去っただけでなく、寺院の所有する山地などを奪い、経済的にも困窮させている。

少しやり過ぎだと勝海舟に諌められ、観光地として恥ずかしくない程度の利権を戻してあげた様子。多分、幕末に不快な思いをしたので、その報復だったのではないでしょうかね。

京都嫌いは私だけではなかったんだなと納得の一冊でした。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソマリアの海賊

2020-11-17 12:49:00 | 社会・政治・一般

息子よ、よく聞くのだ。

父さんは昔、ソマリアの海で海賊をしていた。あの頃のソマリアは、政府は崩壊していて、誰も信用できず、誰も助けてくれなかった。だから手に武器をもって、俺らの海を荒らす外国の船を襲って稼いでいた。

お前が赤ん坊の時の生活費は、すべて海賊をやって稼いだものだ。おれは命を賭けて家族の為に戦ったのだぞ。

しかし、ある日変な東洋人がやってきた。海賊なんて止めて、でっかい魚を捕まえろと言う。おれが漁船もないし、漁具もないと言うと、なんとその東洋人は、漁船を貸してくれた。捕まえた魚も買ってくれた。


その魚を輸出するための面倒もよく分からん手続きもやってくれた。おかげで、俺たちは海賊という危ない仕事から足を洗えた。先祖がやっていた仕事、つまり漁師に戻ることが出来たのだ。

お前も明日から俺と一緒に海に出て、マグロを捕まえるのだ。そのマグロを売って稼いで家族を養うのだぞ。買ってくれるのが、あの変な東洋人だ。皆はツナキングと呼んでいるぞ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ショーン・コネリーの訃報

2020-11-16 12:02:00 | 映画

先月のことだが、俳優のショーン・コネリーの訃報を目にした。

私が最初に観た007の映画が「ロシアより愛をこめて」であった。初代ボンドとして世界中に知られたコネリーであるが、原作者のイアン・フレミングはイメージと違うと文句を言っている。

フレミングにとって理想はロジャー・ムーアであったようだが、映画の世界的大ヒットで支払われる莫大な印税には、押し黙るしかなく、その後は映画のために007シリーズを書く羽目に陥っている。

これは私見だが、たしかに原作のジェームズ・ボンドとショーン・コネリー演じるボンドはイメージは違うと思うが、作品としての印象度は原作以上ではないかと思っている。これはダニエル・グレイグにも云えることだ。

一方、フレミングのお気に入りではムーア(私生活でコネリーと親しい友人)は、あくまで原作のイメージを超えることはなかったと思う。実際、アクションが苦手だと公言するムーアにとって、ボンドはいささか荷が重かったらしい。

007シリーズから離れたコネリーは、固められたボンドのイメージからの脱却にけっこう苦労していた。それでも「風とライオン」や「エントラップメント」などで見せた、若い頃はさぞかしモテたであろう老人を演じさせると絶妙であったと思う。

「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」ではジョーンズ博士の父親をコミカルに演じてみせて楽しませてくれたのが忘れがたい。再び観たかったが、コネリーは老人役が厭で、その後はあまり映画に出ていない。

スコットランド人としての矜持が強く、独立するまで戻らないと公言し、最後はバハマ島で亡くなっている。

ちなみに「ロシアより愛をこめて」で共演した絶世の美女ダニエラ・ビアンキはイタリア人で、英語が喋れず、覚える気もなく、世界的な知名度を得たのに事実上、これ一作で引退している。

監督や映画プロデューサーは怒っていたが、なにかのインタビューでコネリーは「美人の我儘は可愛いものだよ」と、さらっと流している。この人、本当にモテモテだったのだろうと思ったのが私的には一番記憶に残っています。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする