総選挙後の医療政策はどうなるのか◆Vol.2
財政難と高齢化を克服するための私見
2012年12月20日 小松秀樹(亀田総合病院副院長)
人材の養成
日本の医療サービス提供量は地域によって大きく異なる。首都圏、特に、埼玉県、千葉県では医療・介護サービスの提供量が不足している。急速な高齢化によりさらにサービス不足が顕著になる。需要が大きいので、上手に利用すれば、雇用を大幅に増やせる。巨大な人口が一斉に高齢化するので、手をこまねいていると、孤独死が日常化する。
問題は人材不足である。千葉県は2012年春、医療計画に基づいて一般・療養病床3122床を配分した。さらに、10月、603床の病床配分の公募予定を発表した。しかし、人口当たりの看護師数、看護師養成数が全国最低レベルである。病床当たりの看護師の数は診療報酬で細かに決められている。看護師の養成が不足したまま、病床を配分すると、実働しない許可病床を増やす。これが既得権になって、逆に増床を妨げる(参考文献1、2)。
旭中央病院は、千葉県北東部、茨城県の南東部の住民約100万人の医療を支える一大拠点である。病床数が989床、2011年度の救急患者数は約6万人で、そのうち約6300人が入院した。この旭中央病院が2012年4月から、救急の受け入れを制限せざるを得なくなった(参考文献3)。
全体として、筆者の勤務する亀田総合病院と同様の診療規模だが、救急患者に限れば、亀田総合病院よりはるかに多い。しかし、常勤医師数が、亀田総合病院に比べて少なかった。今年度、研修医を含む常勤医師数が253人から239人に減少した。以前より、厳しい状況だと聞いていたが、内科の中堅医師が減少したため、負荷が限界を超え、医師の士気に影響が出始めた。ちなみに、亀田総合病院は2012年4月1日時点で、常勤医師数365人だった。
千葉県の東部、長大な九十九里浜の中央部は、日本有数の医療過疎地帯である。現在、ここに東金市・九十九里町が設立した地方独立行政法人が東千葉メディカル・センターを建設中である。しかし、医師の供給を千葉大学に頼ろうとしている。日本では80大学に医学部がある。人口約150万人に1校の割合である。千葉県は人口約620万人だが医学部は千葉大学のみである。千葉大学の医局は常に医師不足状態にある。東千葉メディカル・センターに医師を派遣するためには、他から引き剥がさなければならない。引き剥がせば、その病院が崩壊しかねない(参考文献3)。
人材不足に対応するためには、医師や看護師に限定された業務を、他の職種が実施できるようにすべきであるが、千葉、埼玉など一部地域ではあまりに人が足りない。人材、とりわけ、医師、看護師、リハビリ職員の養成が喫緊の課題である。
医療費給付の平等化
医療法に基づく医療計画制度は、医療サービスの提供を平等にするのではなく、逆に地域差を固定した(参考部文献4)。現状の中国、四国、九州の人口当たりの一般病床数は、埼玉、千葉の2倍近い。首都圏の高齢化によってこの差がさらに大きくなる。厚労省の2010年度医療費の地域差分析によれば、国民健康保険と後期高齢者医療制度では、福岡県は千葉県の1.39倍の医療費を、高知県は静岡県の1.72倍の入院医療費を使っている。国民健康保険、後期高齢者医療制度の給付全体の中で、被保険者の保険料はそれぞれ、25%、10%を占めるにすぎない。残りは公費、健保組合からの拠出金で賄われている。住んでいる地域によって、国民に不平等がある。5年ほどかけて、不平等を解消してみてはどうか。国民への医療給付を平等にすれば、中国、四国、九州の医療機関や医療従事者を、医療サービス供給不足が拡大する首都圏、東海、東北に移動させることができるかもしれない。
メディカル・スクール
現在、人材育成の主体は文部科学省‐大学である。文科省‐大学は、教育のために存在する。医療のように社会で機能している分野の教育を、教育を主目的とするシステムが担うと問題が生じる。
千葉県では、看護師不足にもかかわらず、看護師養成数が少なかった。千葉県の人口当たりの看護学生数は、2009年段階で全国45位だった。高齢化により、看護師不足が深刻になることは、人口推計から容易に想像できた。それにもかかわらず、千葉県の教育関係者は、教育側の都合で、千葉県立教育機関による看護師養成数を1学年240人から80人に減らした。
教育システムは自らの存在を大きく見せするため、教育期間を長くし、位階を設ける。これが、コストを押し上げる。医学部の大学院生の中には、研究だけに従事している者もいるが、多くは医師として働いている。これで良いのである。医師は医療現場に留まることで、医師としての質と現実感を保つことができる。
教職を目指す看護師は、長く苦しい博士課程に進学する。現場を離れると、看護師としての質を保つのが難しくなり、現実感が失われる。看護研究の計画書を多く読んできたが、しばしば、目的が明確でなく、方法があいまいだった。解釈可能な結果が出るとは思えないものが目立った。看護研究の少なからざる部分が、位階のための意味のない苦行になっているのではないかと危惧する。位階のための苦行は、看護師教育を歪めかねない。医療従事者の教育は、教育システムではなく、医療システムで担う方が質を高くし、学生に現実を伝えられる。
アメリカでは、4年制大学の卒業生を対象に4年間で医師を養成するメディカル・スクーが主流である。病院主体でメディカル・スクールを設置、運営すれば、従来の医学部より費用が格安になる。埼玉県では、埼玉県立大学に従来の6年制医学部を設置することを検討している。上田知事の県議会での答弁によると、医師300人をはじめ、1300人程度の医療スタッフを確保しなければならず、建設費として700億円程度の初期投資と、運営費として最大で年間65億円程度の補填が必要である。
人材と資金の確保が難しい。既存の病院にメディカル・スクールを設置するとすれば、講義棟の建設費に20億円もかければ十分である。基礎医学の教育は、必ずしも常勤の教員が担当する必要はない。外部の研究者に委託すればよい。医師不足と財政難の中で、医師を養成するには、既存の施設とそこで働く医療従事者を活用するしかない。メディカル・スクールが実現すれば、従来の医学部もその地位に安住できなくなり、努力せざるを得なくなる。
生老病死
医療の効率化のためには、国民に、医療に莫大な費用がかかることに加えて、医療に限界があること、生老病死が避けられないことを理解してもらう必要がある。
有史以来、人間の力では病気を治せなかった。治癒は生体の回復力と偶然の結果だった。第二次世界大戦後、抗生剤の普及で病気の治療が可能になった。以後、次々と治療可能な病気が増えていった。麻酔学の発達、工学系の技術の進歩が加わり、治療のために、病院が巨大化し、かつ、複雑になった。
高齢者に対する胃ろうや経管栄養の普及は、日本人の寿命が限界に近いことを示している。社会の高齢化に伴い、病気の概念が広がり、老人性痴呆までが病気になった。加齢に伴う身体の衰えは、治癒しない。しばしば、介護を必要とする。治療を主たる業務とする病院だけでは高齢化社会に対応できなくなった。
現在、健康に大きな影響を与えているのは、医療提供の濃淡より、貧困と社会的包摂である。医療提供に大きな地域差があるにもかかわらず、日本の市町村ごとの平均寿命は、近似している。市町村ごとの男女別平均寿命の上位30位に男女とも入っているのは、横浜市青葉区、川崎市麻生区、横浜市緑区の3カ所のみである。共通するのは、富裕層の第一代目が住んでいるか、あるいは、最近まで住んでいたこと。下位30位で目立つのは、男性の最下位の大阪市西成区。下から2番目との間に2.1歳という他では見られない圧倒的な差がある。私は、日本人の寿命が延びたのは、食事、水、生活環境の改善によるのであって、医療の貢献は大きくないと思っている。
大病院は介護を担えない。穏やかな雰囲気での看取りは不可能である。しかも、フル装備の先進的病院は、多額の投資をしている。急性期医療に特化して活動しないと経済的に病院を維持できない。予想されている死を看取るのに、大病院を利用するのは適切でない。医療費を押し上げるのみならず、本気で救わないといけない患者が入院できなくなる。
財政難と高齢化を克服するための私見
2012年12月20日 小松秀樹(亀田総合病院副院長)
人材の養成
日本の医療サービス提供量は地域によって大きく異なる。首都圏、特に、埼玉県、千葉県では医療・介護サービスの提供量が不足している。急速な高齢化によりさらにサービス不足が顕著になる。需要が大きいので、上手に利用すれば、雇用を大幅に増やせる。巨大な人口が一斉に高齢化するので、手をこまねいていると、孤独死が日常化する。
問題は人材不足である。千葉県は2012年春、医療計画に基づいて一般・療養病床3122床を配分した。さらに、10月、603床の病床配分の公募予定を発表した。しかし、人口当たりの看護師数、看護師養成数が全国最低レベルである。病床当たりの看護師の数は診療報酬で細かに決められている。看護師の養成が不足したまま、病床を配分すると、実働しない許可病床を増やす。これが既得権になって、逆に増床を妨げる(参考文献1、2)。
旭中央病院は、千葉県北東部、茨城県の南東部の住民約100万人の医療を支える一大拠点である。病床数が989床、2011年度の救急患者数は約6万人で、そのうち約6300人が入院した。この旭中央病院が2012年4月から、救急の受け入れを制限せざるを得なくなった(参考文献3)。
全体として、筆者の勤務する亀田総合病院と同様の診療規模だが、救急患者に限れば、亀田総合病院よりはるかに多い。しかし、常勤医師数が、亀田総合病院に比べて少なかった。今年度、研修医を含む常勤医師数が253人から239人に減少した。以前より、厳しい状況だと聞いていたが、内科の中堅医師が減少したため、負荷が限界を超え、医師の士気に影響が出始めた。ちなみに、亀田総合病院は2012年4月1日時点で、常勤医師数365人だった。
千葉県の東部、長大な九十九里浜の中央部は、日本有数の医療過疎地帯である。現在、ここに東金市・九十九里町が設立した地方独立行政法人が東千葉メディカル・センターを建設中である。しかし、医師の供給を千葉大学に頼ろうとしている。日本では80大学に医学部がある。人口約150万人に1校の割合である。千葉県は人口約620万人だが医学部は千葉大学のみである。千葉大学の医局は常に医師不足状態にある。東千葉メディカル・センターに医師を派遣するためには、他から引き剥がさなければならない。引き剥がせば、その病院が崩壊しかねない(参考文献3)。
人材不足に対応するためには、医師や看護師に限定された業務を、他の職種が実施できるようにすべきであるが、千葉、埼玉など一部地域ではあまりに人が足りない。人材、とりわけ、医師、看護師、リハビリ職員の養成が喫緊の課題である。
医療費給付の平等化
医療法に基づく医療計画制度は、医療サービスの提供を平等にするのではなく、逆に地域差を固定した(参考部文献4)。現状の中国、四国、九州の人口当たりの一般病床数は、埼玉、千葉の2倍近い。首都圏の高齢化によってこの差がさらに大きくなる。厚労省の2010年度医療費の地域差分析によれば、国民健康保険と後期高齢者医療制度では、福岡県は千葉県の1.39倍の医療費を、高知県は静岡県の1.72倍の入院医療費を使っている。国民健康保険、後期高齢者医療制度の給付全体の中で、被保険者の保険料はそれぞれ、25%、10%を占めるにすぎない。残りは公費、健保組合からの拠出金で賄われている。住んでいる地域によって、国民に不平等がある。5年ほどかけて、不平等を解消してみてはどうか。国民への医療給付を平等にすれば、中国、四国、九州の医療機関や医療従事者を、医療サービス供給不足が拡大する首都圏、東海、東北に移動させることができるかもしれない。
メディカル・スクール
現在、人材育成の主体は文部科学省‐大学である。文科省‐大学は、教育のために存在する。医療のように社会で機能している分野の教育を、教育を主目的とするシステムが担うと問題が生じる。
千葉県では、看護師不足にもかかわらず、看護師養成数が少なかった。千葉県の人口当たりの看護学生数は、2009年段階で全国45位だった。高齢化により、看護師不足が深刻になることは、人口推計から容易に想像できた。それにもかかわらず、千葉県の教育関係者は、教育側の都合で、千葉県立教育機関による看護師養成数を1学年240人から80人に減らした。
教育システムは自らの存在を大きく見せするため、教育期間を長くし、位階を設ける。これが、コストを押し上げる。医学部の大学院生の中には、研究だけに従事している者もいるが、多くは医師として働いている。これで良いのである。医師は医療現場に留まることで、医師としての質と現実感を保つことができる。
教職を目指す看護師は、長く苦しい博士課程に進学する。現場を離れると、看護師としての質を保つのが難しくなり、現実感が失われる。看護研究の計画書を多く読んできたが、しばしば、目的が明確でなく、方法があいまいだった。解釈可能な結果が出るとは思えないものが目立った。看護研究の少なからざる部分が、位階のための意味のない苦行になっているのではないかと危惧する。位階のための苦行は、看護師教育を歪めかねない。医療従事者の教育は、教育システムではなく、医療システムで担う方が質を高くし、学生に現実を伝えられる。
アメリカでは、4年制大学の卒業生を対象に4年間で医師を養成するメディカル・スクーが主流である。病院主体でメディカル・スクールを設置、運営すれば、従来の医学部より費用が格安になる。埼玉県では、埼玉県立大学に従来の6年制医学部を設置することを検討している。上田知事の県議会での答弁によると、医師300人をはじめ、1300人程度の医療スタッフを確保しなければならず、建設費として700億円程度の初期投資と、運営費として最大で年間65億円程度の補填が必要である。
人材と資金の確保が難しい。既存の病院にメディカル・スクールを設置するとすれば、講義棟の建設費に20億円もかければ十分である。基礎医学の教育は、必ずしも常勤の教員が担当する必要はない。外部の研究者に委託すればよい。医師不足と財政難の中で、医師を養成するには、既存の施設とそこで働く医療従事者を活用するしかない。メディカル・スクールが実現すれば、従来の医学部もその地位に安住できなくなり、努力せざるを得なくなる。
生老病死
医療の効率化のためには、国民に、医療に莫大な費用がかかることに加えて、医療に限界があること、生老病死が避けられないことを理解してもらう必要がある。
有史以来、人間の力では病気を治せなかった。治癒は生体の回復力と偶然の結果だった。第二次世界大戦後、抗生剤の普及で病気の治療が可能になった。以後、次々と治療可能な病気が増えていった。麻酔学の発達、工学系の技術の進歩が加わり、治療のために、病院が巨大化し、かつ、複雑になった。
高齢者に対する胃ろうや経管栄養の普及は、日本人の寿命が限界に近いことを示している。社会の高齢化に伴い、病気の概念が広がり、老人性痴呆までが病気になった。加齢に伴う身体の衰えは、治癒しない。しばしば、介護を必要とする。治療を主たる業務とする病院だけでは高齢化社会に対応できなくなった。
現在、健康に大きな影響を与えているのは、医療提供の濃淡より、貧困と社会的包摂である。医療提供に大きな地域差があるにもかかわらず、日本の市町村ごとの平均寿命は、近似している。市町村ごとの男女別平均寿命の上位30位に男女とも入っているのは、横浜市青葉区、川崎市麻生区、横浜市緑区の3カ所のみである。共通するのは、富裕層の第一代目が住んでいるか、あるいは、最近まで住んでいたこと。下位30位で目立つのは、男性の最下位の大阪市西成区。下から2番目との間に2.1歳という他では見られない圧倒的な差がある。私は、日本人の寿命が延びたのは、食事、水、生活環境の改善によるのであって、医療の貢献は大きくないと思っている。
大病院は介護を担えない。穏やかな雰囲気での看取りは不可能である。しかも、フル装備の先進的病院は、多額の投資をしている。急性期医療に特化して活動しないと経済的に病院を維持できない。予想されている死を看取るのに、大病院を利用するのは適切でない。医療費を押し上げるのみならず、本気で救わないといけない患者が入院できなくなる。