【埼玉】医療・巨大グループ誕生:中村秀夫物語/上 2人の兄追い医師に 「患者に寄り添う」評判広がる
毎日新聞社 2015年2月13日(金) 配信
医療・巨大グループ誕生:中村秀夫物語/上 2人の兄追い医師に 「患者に寄り添う」評判広がる /埼玉
上尾中央総合病院(上尾市柏座)を中核とする上尾中央医科グループ(AMG)は昨年12月、創立50周年を迎えた。「西の徳洲会と東の中央医科グループ」と称される巨大な医療組織。1都5県に27病院、20の介護老人保健施設のほか、看護専門学校、保育園など100の関連施設を擁し、職員数は約1万6000人に上る。
創業者は会長の中村秀夫(85)。北海道瀬棚町(現せたな町)に生まれ、長兄・哲夫(故人)と次兄・隆俊(87)、秀夫の「中村三兄弟」が、東京と埼玉に板橋・戸田・上尾の中央医科グループを展開。連携しながら、巨大グループへと育て上げた。
秀夫は、雑穀・精米業を営む父末吉と母ヨシノの3男4女の三男として生まれた。父は幼年の三兄弟を地元の海岸にそびえる「三本杉岩」が見える海岸に連れ出し、毛利元就の「三本の矢」の逸話に触れ、力を合わせれば成し遂げられないことはないと説いた。このエピソードが、兄弟の凌雲(りょううん)の志となる。
やがて医師となった2人の兄の影響で、秀夫も「医師になりたい」と望んだ。秀夫を跡取りにと考えていた父は「東京医科大に入学できれば、認めてやる」と条件を付けたが、見事、合格。55年に同大を卒業した。
また、レコードデビューして間もない昭和の歌姫・美空ひばりの家庭教師を三兄弟で引き受けることになった。当時、ひばりは地方ロケや巡業が多く、学校に出席するのが困難だった。哲夫は甲信越、隆俊は関西、秀夫は東北への出張に同行し、小学5年から中学卒業まで面倒をみることになった。
インターンを経て国家試験に合格した秀夫は、患者の不安を親身になって聞くことをモットーとした。三兄弟は母の肺がん発症を機に「3人の病院を持ちたい」「自分たちの病院で母をみとりたい」との思いを強くし、東京都板橋区の小豆沢に病院を建て始めた。
しかし3人の願いむなしく、母は56年に帰らぬ人となった。母の死から約1カ月後、念願の「板橋中央医院」を開院。院長に哲夫、副院長に隆俊が就き、秀夫は夜間の責任者と当直を担当した。
秀夫は冬の深夜でも防寒用の新聞紙を腹に巻いて往診に出た。「患者に寄り添う医者」との評判は地域に広がり、日を追うごとに患者が増えた。58年、「板橋中央病院」と名称変更し、総合病院となった。
都県境を越えて戸田市へも往診していた秀夫は、埼玉県の南部にも病院が必要と感じるようになった。三兄弟は「2本目の矢」を実現すべく、62年、戸田市本町に「戸田中央病院」を開く。院長に隆俊、副院長には秀夫が就任した。フットワークの軽い秀夫は、老人が倒れたと聞けば小回りのきくバイクで駆けつけた。夜勤を積極的に担った秀夫は「夜の院長」とも呼ばれた。
そんなある日、隆俊が県から「上尾市立病院が閉院することになり、市民のためにも、何とか病院を引き継いでほしい」と要請された。三兄弟は快諾し、秀夫が院長として就任することになった。64年、「3本目の矢」となる「上尾中央医院」が誕生する。
◇ ◇
県内の医療で大きな役割を果たす巨大グループ・AMGはいかに生まれ、成長したか。創業者・中村秀夫の半生をたどる。(敬称略)【我妻玲子】
毎日新聞社 2015年2月13日(金) 配信
医療・巨大グループ誕生:中村秀夫物語/上 2人の兄追い医師に 「患者に寄り添う」評判広がる /埼玉
上尾中央総合病院(上尾市柏座)を中核とする上尾中央医科グループ(AMG)は昨年12月、創立50周年を迎えた。「西の徳洲会と東の中央医科グループ」と称される巨大な医療組織。1都5県に27病院、20の介護老人保健施設のほか、看護専門学校、保育園など100の関連施設を擁し、職員数は約1万6000人に上る。
創業者は会長の中村秀夫(85)。北海道瀬棚町(現せたな町)に生まれ、長兄・哲夫(故人)と次兄・隆俊(87)、秀夫の「中村三兄弟」が、東京と埼玉に板橋・戸田・上尾の中央医科グループを展開。連携しながら、巨大グループへと育て上げた。
秀夫は、雑穀・精米業を営む父末吉と母ヨシノの3男4女の三男として生まれた。父は幼年の三兄弟を地元の海岸にそびえる「三本杉岩」が見える海岸に連れ出し、毛利元就の「三本の矢」の逸話に触れ、力を合わせれば成し遂げられないことはないと説いた。このエピソードが、兄弟の凌雲(りょううん)の志となる。
やがて医師となった2人の兄の影響で、秀夫も「医師になりたい」と望んだ。秀夫を跡取りにと考えていた父は「東京医科大に入学できれば、認めてやる」と条件を付けたが、見事、合格。55年に同大を卒業した。
また、レコードデビューして間もない昭和の歌姫・美空ひばりの家庭教師を三兄弟で引き受けることになった。当時、ひばりは地方ロケや巡業が多く、学校に出席するのが困難だった。哲夫は甲信越、隆俊は関西、秀夫は東北への出張に同行し、小学5年から中学卒業まで面倒をみることになった。
インターンを経て国家試験に合格した秀夫は、患者の不安を親身になって聞くことをモットーとした。三兄弟は母の肺がん発症を機に「3人の病院を持ちたい」「自分たちの病院で母をみとりたい」との思いを強くし、東京都板橋区の小豆沢に病院を建て始めた。
しかし3人の願いむなしく、母は56年に帰らぬ人となった。母の死から約1カ月後、念願の「板橋中央医院」を開院。院長に哲夫、副院長に隆俊が就き、秀夫は夜間の責任者と当直を担当した。
秀夫は冬の深夜でも防寒用の新聞紙を腹に巻いて往診に出た。「患者に寄り添う医者」との評判は地域に広がり、日を追うごとに患者が増えた。58年、「板橋中央病院」と名称変更し、総合病院となった。
都県境を越えて戸田市へも往診していた秀夫は、埼玉県の南部にも病院が必要と感じるようになった。三兄弟は「2本目の矢」を実現すべく、62年、戸田市本町に「戸田中央病院」を開く。院長に隆俊、副院長には秀夫が就任した。フットワークの軽い秀夫は、老人が倒れたと聞けば小回りのきくバイクで駆けつけた。夜勤を積極的に担った秀夫は「夜の院長」とも呼ばれた。
そんなある日、隆俊が県から「上尾市立病院が閉院することになり、市民のためにも、何とか病院を引き継いでほしい」と要請された。三兄弟は快諾し、秀夫が院長として就任することになった。64年、「3本目の矢」となる「上尾中央医院」が誕生する。
◇ ◇
県内の医療で大きな役割を果たす巨大グループ・AMGはいかに生まれ、成長したか。創業者・中村秀夫の半生をたどる。(敬称略)【我妻玲子】
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます