てすさび日誌

哀しき宮仕えを早期リタイアし、“サンデー毎日”のomorinが生活の一コマや雑感を認めた日誌です(2005/4/20~)

イノシシのお興し入れ

2006-12-25 20:28:59 | ノンジャンル
 年の瀬を間近に控え、備前焼で来年の干支を手がける無二の友・畝尾が、イノシシの置物を届けてくれた。今回の作品は、亥年生まれのお袋・かみさん・来年生まれてくる孫の三人のために求めたもの。

 見事に焼き上がった「亥」は、高さ9㎝、幅8㎝、奥行き20㎝。12年前と比べて大きさは一回り小さく、デザインもシンプル化している分、表情が柔和になった。
 畝尾自身が5回目の年男だけに思い入れも一入だったに違いない。「縁起がよいとされるイノシシにあやかり、来年こそは、明るく活気に満ちた1年であってほしい」と願いを込めて作られたもの。

 畝尾が陶芸の道に入ったのは1973年(昭和48年)、備前市陶芸センターに入り基礎を学ぶ。翌74年から4年間、伊勢崎淳(重要無形文化財保持者=人間国宝)氏に師事し陶技を磨く。78年に瀬戸内市邑久町箕輪で独立、初窯を出す。91年(平成3年)に備前市新庄に新陶房と登窯を築いて移転した。
 81年に東京で初個展。以後、東京を中心に横浜、大阪でも個展を開催。この道38年のベテラン作家である。

 花器が好きでよく作るのは花入れ。一部の作品には透かしも。全体にあっさりした焼きを好む。ろくろのほか、紐づくりの技法で造形風の作品も手掛ける。「土味を大切に、今後も紐づくりの作品に力を入れたい」という。
 22年前に心筋梗塞に倒れ、その後も再発を繰り返した。現在はペースメーカーながら、仕事に完全復帰し、意欲的に作陶活動に取り組んでいる。(詳しくは、おおもったんの部屋>親友>備前焼)

 畝尾とは高校入学時の席順が前後ろの縁で、以後42年来の無二の親友である。また奥さんも高校の同級生で、かみさんも交えて家族ぐるみの付合いが続いている。 
  
   
   来年の干支のイノシシをかたどった細工物
   (手前が今回の作品、奥は12年前のもの)
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふるさと人事

2006-12-24 11:11:48 | ビジネスと社会
 弟に突然転勤辞令が出て、明日から岡山支社勤務となった。某旅行代理店で満35年間、海外部一筋であった。6月の満55歳を限りに役職定年となり、定年退職まで残すところ5年となった、しかもこの年の瀬にである。

 東京を振り出しに岡山、大阪、博多、大阪と続き、今回が6度目の転勤となる。いわゆる“ふるさと人事”とでもいうのだろうか。生まれ故郷での人脈をフルに使い、会社に最後の奉公をして錦を飾れという思し召しなのかも知れない。

 嫁と一人息子を芦屋へ残しての単身赴任となる。岡山には26年前に建てたマイホームがあるのだが、大阪勤務の間に賃貸している住人が、中々立ち退いてくれない。これまで家賃を滞納しがちで、催促してやっと現在も1カ月遅れであるにも拘らず。
 しかし、(転勤で帰省するという)特殊事情を斟酌して、どうにか来年10月末で退去してもらうことで話がついた。

 それまで10カ月間は、たまたま我がアパートが1軒だけ空いていたので、仮住まいする運びとなった。今日引越しの荷物が届く予定だったが、都合で一日順延となり、明日本人とともに到着する。

 いかなる状況下であろうと、紙切れ一枚で社命には従わねばならない。悲しき宮仕えの宿命である。再就職となればハードルは高い。(役職)定年後も働き場所があるだけでも幸いだ。
 弟も心機一転、新任地で骨を埋める覚悟でいるようだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家事分担

2006-12-23 22:02:57 | 暮らしと生活
 遅ればせながら、かみさんと家事を分担することにし、差し当たり「掃除」と「ごみ出し」から始めている。掃除はトイレ・風呂・各部屋・庭など全般をさす。動機は12月11日付山陽新聞夕刊の読者投稿欄で、「男は黙ってトイレ掃除」という記事を読んでのこと。

**********************************
 「男は黙ってトイレ掃除」
 記事の主・繁森良二さんも同じく「新聞で『トイレ掃除は重労働。汚さないように座って使って』という記事を読んだのがきっかけ」だそう。「それによると、『洋式便器のふち裏に汚れがたまるのは、男性の尿が便器の壁面に跳ね返って飛び散ることが繰り返されることが原因』だという。」と続く。
 「だったら少々面倒でも座ってやってやろうじゃないか、と始めたものの、『トイレ掃除は重労働』とまでは気が付かなかった。それじゃ、いっそのこと、『トイレ掃除も引き受けてやろうじゃないか』と思い立ったが百年目。早速、せっせと始めたという次第。」
**********************************

 世の中には、同じようなことを考えていたりやっていたりする、似た感覚の人がいるものだと甚く感心した。先月あたりから同様の考えで、私は小用を「座って」足していたのだ。

 「少しは自分のことくらい自分で出来んと、何かの時には困るヨ!」とのかみさんの言葉には馬耳東風で、家事は一切合切がかみさん任せであった。ところが退職したのを機に徐々に目覚めてきた。
 ジェンダーフリーだ、男女共同参画だと、大上段に構えるつもりはないが、どうやらこれまでは、男と女の仕事分担を勝手に決め込み、自らやるべきことから逃避していたようだ。

 昨朝もごみ出しをやり、便器をブラッシングして拭き上げると、しみじみと爽快感を味わった。その内、「男子厨房に入らず」の習いに反して、厨房に立つようなことにでもなったら、自称こだわり派だけに結構厄介なことになるぞと内心ほくそ笑んでいる。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログの取モツ縁(鍋)

2006-12-22 16:38:21 | パソコンとインターネット
 はや極月も後半、日毎に寒さが募り、鍋物が恋しい時節となった。
 ブログご近所のフリーマインドさんが、ご自身のブログ「2006/12/09最高に美味いモツ鍋」の中で、『こんなモツ鍋は記憶の限り初めて…』と、絶賛推奨されているのが目に留まり食指が動いた。
 
  こんなアナウンスがあってから、フリーマインドさんと三日月51さんのお二人の手を煩わしながら、約2週間を要してくだんの“元気モツモツ コクウマ味噌”にやっと有り付いた。
 何と発売元は私の高校の同級生浅原であった。世間は狭いものである。ブログを始めてこの類の出会いや再会が続く中、人との縁は回り回って何処かで繋がっていることを実感させる好事例だった。

 浅原とは高校卒業以来、40年ぶりの再会である。親の代からの産業廃棄物業者から、次々と新事業を興し、環境・クリーン・セキュリティー・衛生管理・設備管理・建設分野にと留まるところを知らず、更にこのほど食品事業部を新展開する運びとなった。その第一弾こそが、冒頭の「モツ鍋」である。
 また別会社で「さくら祭典」を手掛けており、今では県下に5箇所のホールを持つまでになっている。

 肝心のお味は、聞きしに勝る絶品で、言葉では言い尽くせないほど。この美味さをフリーマインドさん以上に、上手くお伝えする術を持たないのでコメントはそちらに譲り、ここで敢えて多くは語らない。是非ともご自身の舌で味わい、評価を仰ぎたいと思う次第。
 この度は、思いがけず「ブログの取モツ縁(鍋)」の有難味を知った。併せて、同級生が事業で成功し、隆々と発展していく様を目の当たりに出来たのは無上の喜びである。
 きっかけを与えてくださったフリーマインドさん、三日月51さんに感謝。そして浅原の更なる隆昌を祈る。

■「元気モツモツ コクウマ味噌」の問合わせ先
 株式会社サピックス 食品事業部
 岡山市浜1丁目6番24号
 電話086-272-0666
 FAX 086-272-0987




コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チューインガムとマナー

2006-12-21 15:37:55 | ビジネスと社会
 21日付山陽新聞の読者欄へ、倉敷市の藤原都与志さんが「マナー低下のプロ野球選手」と題して、最近のプロ野球選手の身だしなみの悪さを嘆く一文を投稿していた。
 「外国人監督のベンチでガムをかむのはまだしも、かみながら風船のようにふくらませ、ベンチでつばを吐く…」というもの。
 私が常日頃、抱いていることを代弁しており、我が意を得たりだった。

 かくいう私はチューインガム(以下ガム)愛好家であり、ガムの咀嚼機能の効用は承知しているので、決してガムを否定はしないが、ガムを噛むにはエチケットが大切であると思う。
 それにつけても、ガムといえば30年ほど前の出来事が、脳裏に焼きついている。

 1977年(昭和52年)4月、岡山桃太郎まつりの一員として動員された。まつりのハイライトは9、10の両日繰り広げられる桃太郎天国であった。これには延べ95万人が繰り出すほどの盛大なもの。そのまつりでの一幕。

 私は本日のメインゲストを、ホテルニューオカヤマへ迎えに行った。すると濃いサングラスをかけて、ガムをクチャクチャと噛みながら、碌な挨拶もないまま無愛想に現れた。おおよそ描いていたアイドル歌手のイメージとはほど遠い、南○織(当時22歳)さんとの初対面であった。
 ところが6階から1階に着く直前のエレベータの中で、彼女はやおらガムを口から出し、見事に“南○織”に変身、待ち受ける大勢のファンの前に、にこやかな笑顔で飛び出して行った。

 先ほどの小生意気な態度との落差に唖然とした。そしてこれが華やかなスターの素顔であり、瞬時に切り替えられるところがプロのプロたる所以なのかと変な感心をした。
 当時の南○織さんは、長い黒髪と日焼けした健康的な肌で同世代の若者に絶大な人気を博していた。同時期にデビューした小○ルミ子さん、○地真理さんと合わせて「新三人娘」と呼ばれ、ブロマイドも爆発的に売れた。
 これから1年後に上智大学に入学し、学業に専念するために歌手を引退。1979年には写真家の○山紀信氏と結婚し、その後3児の母となった。

 私はガムを噛む時には、いつもこのシーンを想起し、服装と一緒でTPOに応じたマナーだけは忘れないでいるつもりだ。



コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする