ウドンの様だった回虫

2017-11-19 11:52:38 | 昔話
 まだ水洗便所の普及していなかった僕達の子供時代、 便所に溜まったそれは農家の人が汲み取りに来てくれていた。 それは有料だったのか? 子供の僕には判らない事だったが、 逆にお礼としてか? 大根などの野菜を貰っていた様なおぼろげな記憶が残っている。 そしてお腹の中には大人も子供も回虫の様な寄生虫に住み着かれていた記憶はハッキリと残っている。

 そうです、僕の子供時代、 農家では野菜などの栽培の際に糞便を肥料として利用する。 そんな時代の名残があったのです。

 糞便に含まれた寄生虫の卵、 それが野菜に付着した。 その洗浄が不十分あるいは加熱調理不十分であれば、 再び口から寄生虫卵が人間の体内に入り込む、 そんなサイクルで寄生虫がお腹にいる人が多くいたのです。

 それで小学生の頃には学校で飲まされたか、 家で飲まされたか記憶は判然としないものの、 寄生虫駆除を目的に海藻だったかを煮込んだドロッとしたな苦味のある汁ものを、 小さなお椀に一杯近い量を飲まされた事は覚えている。

 すると翌朝には、 肛門から逃げ出して来たのであろう白色で大型のミミズの様な形状の奴が1~2匹、 パンツの中だったか、 シーツの上だったかで蠕いていたのを覚えている。 それが回虫だったのだ。

 また父親が自分の口中に指を突っ込んでウドンの切れ端の様だがうごめく回虫を摘まみ出した事も鮮烈な記憶として残っている。

 なんでこんな事を想い出し、 ブログに書く気になったのか? 実は夜中に目覚めた時に布団の中でWebサーフィンして居た中で、 BBCのサイトで、以下の様なタイトルの記事を見たからだ。 

North Korean defector found to have 'enormous parasites'

北朝鮮の亡命者には「巨大な寄生虫」が見つかった

 何日か前に軍事境界線の板門店で北から南に逃亡を試みて銃撃されて重傷を負った兵士のニュースはご存知かと思います。 今回の読んだ記事は、 その重傷を負った兵士の救命手術を担当した医師がダメージを受けた臓器の修復手術を行う過程で、 腸内に数多くの寄生虫がいたこと。 中には27cmもの長さの大物が見つかった事を伝えたものでした。
コメント

20代の同僚との再会

2016-12-23 11:06:16 | 昔話
 明日はかっての会社の先輩のお宅にお悔やみに伺う予定が組まれている。 そう言った類の訪問はどちらかと言えば、 苦手と言うか参加したくない気持ちが強いのだが・・・ 今年の夏が過ぎていつの事だったか、 その先輩のお宅(我が家から歩いて7分)の敷地に何時も駐車してある車が長期間見えなくなって居ることに気がついた。 洗濯物が干されているのを見ることも無くなった様な気がしたので、 「高齢者向けの住宅に奥様ともども移住されたか?」 そんな気がして、 隣家のベルを押して様子を聞いてみたのが11月の初旬。 そしたら「ご主人が亡くなって、 奥様が暮らしている」と教えてくれた。 その事を40年近く続く永きに渡って旧職場の新年会の幹事の任にあたってくれているモリ氏に伝えた。 そのモリ氏から 「年内にお悔やみに行く事にするから、 家を知っているタナカ君も同行して」 と頼まれると、 亡くなった事を連絡した手前、 「行きたく無い」 そんな返事は出来ないってものだ。

 その弔問メンバーにM君が参加する事がメールで知らされた。 俄然、 弔問よりも、 当時(昭和43年4月1日付で転職したばかりの会社で)同僚となった新入社員だったM君との再会に興味が湧いて来ました。

 大学で電気系の学部で学んで来たM君だが、 「電気ばかりじゃツマラナイからと、 単位の取得とは関係の無い物理や化学の講義を聴きに行ったりしていた」と言い、 「科学の先端を行くのはソ連、 だからロシア語を勉強しよう!」 そんな彼が音頭を取って始まった、 昼休みに当時居室のあった開発館の屋上での勉強会に僕も加わったのだ。 だから、 今でも「ウルーク フタロイ(第2課)」、「マーリンカヤ アー クノー バルショイヤ ソビエトラヤ(部屋は大きく明るいです)」 そんな教材の一節が僕の頭の片隅にはこびりついているのです。 

 そして昭和40年代後半、 オイルショックや円高に動いた経済環境の中、 勤務先の業績が悪化し人員整理の嵐に巻き込まれた。 その前にM君はさっさと会社とオサラバして、 吉祥寺で赤ちょうちんの店を始めたり、 縁あって結ばれた奥さんの実家が営む照明器具製造会社の技術面の一員として活躍し、更には経営に携わったりと変化して行った。 そんな彼と最後に会ってから、 かれこれ40年は過ぎただろうか? なにせ彼は、 その間に毎年開かれていた電気研の新年会にほとんど参加して来なかったから、 出会う事も無かったのだ。 そんな彼と、 明日には出会うことになる。 血色の良い唇と頬に紅味がさしていた20代だった彼と、 高齢になった彼の風貌のギャップは如何程のものか? 興味深々です。

 話題にするチャンスが有るかどうか判らないけれど、 ロシア語の勉強会と時を同じくして使って居た「材料科学入門Ⅰ 物質の構造 ジョン ウルフ編 岩波書店」 まだ捨てずに本棚に残っています。 その本をカバンに入れて出かけて見ようかと考えている。
コメント

高山病注意! 千畳敷ケーブル

2013-10-13 07:16:54 | 昔話
 つい先日、山仲間のF君が奥さんと一緒に中央アルプスの千畳敷から歩き始めるコースの登山に出かけた。 ところが奥さんが高山病症状を発症してしまい、仲良く稜線歩きを楽しめなかったそうだ。

 かって昔、百名山の踏破を目指していた頃、3人のメンバーで千畳敷を起点に空木岳を目指した事がありました。 その時もケーブルカーを降りて直ぐに歩き始め、小一時間で稜線に到着したのだが・・・、 メンバーの一人 Oさんが体調不良を理由に離脱して単独下山したことがありました。 空中ケーブルで一気に高度を上げ、直ぐに歩き始めたことで、高山病症状が出てしまったのです。

 残った僕達二人は縦走を続け、初日は木曽殿越の山小屋まで頑張らずに、随分手前の桧尾岳の避難小屋に泊まり、 2日目に空木岳のピークを踏んで、池山尾根を下山したのです。 Oさんと後日会ったときに「初日は桧尾の避難小屋に泊まったのか?!」、 「 それなら俺も降りないで一緒に行動すれば良かったよ 」 そう言われた事がありました。

 あの千畳敷カールまで空中ケーブルで一気登りするコース、 確かに 「 高山病注意!! 」 のルートです。 
コメント

日本全国 子育て失敗

2013-07-22 07:20:56 | 昔話
 昔話しのカテゴリーで書いているが10年ほど前の話だから、そんな昔の話じゃ無い。 当時大学生だった息子と仕事や就職がらみの話をしたことがあった。 「 今の程度の生活が出来れば、仕事なんかなんだって良い 」息子はそんな風な言い方した(ように記憶している)。

 食べるものに不自由したことの無い息子世代、 今は老人となった僕達は無意識下でそんな社会を目指して来たのだろうけど、 息子が感じている”現状満足状態” それを維持出来ているのは日本の国の全体が世界を相手に商売して、何がしかの利益を得られる商品群を生み出し続けてこられたからだとの認識がある。 

 それで「おいおい、 今の生活で充分と軽く言うけれど、 今の状態を維持しつづける事がどれほどの事かお前たちに判っているのかね?」そんな答えを口にすると、 「オトウ(”さん抜き”の優越言葉)を見てたらサラリーマンなんて・・・」の言葉。 「他の家の親父さんなんか、夜おそくまで残業して働いているのに、 俺の家では朝飯も晩飯も一緒に喰っているしさあ」と続けてきた。 

 「残業なんかしなくても仕事を片付ける、 それって凄いことなんだよ」、「お前も会社勤めするようになれば、判るかもしれないけど・・・」と反論してみたけれど、 心のなかでは「日本全国子育て失敗」、息子みたいに現状満足人間が満ち溢れているんだったら、早晩日本は食うに困る社会に戻って行くだろうな、 そう思ったものでした。 
コメント

兎を飼った時のこと

2012-11-13 08:04:24 | 昔話
 小学生の4・5年生の頃に犬を飼ってみたいと思ったことがある。 でも家族みんなの残飯が母親の主食の一部になっていたような貧しい家だったからか「犬を飼うのはダメだ」と言われた。 それでどうしたかと言えば、餌となる草を自分で採って来て自分で面倒を見る事を条件にして、縁日の店先で売っていた小さな白い兎を飼い始めた。 当時はリンゴの輸送に木箱が使われていた時代でそれの開口部に金網を張ったものが兎の飼育小屋となりました、 もちろん自作ですよ。

 約束通りに毎日餌となる野草を近所の河原から採取してきて食べさせました。 そして日数が過ぎると当初は手のひらに入るほど小さく可愛かった兎も当然大きくなってきて、 食べる餌の量も増え、小さな丸い粒々の排泄物の量も増えて行きました。 そして僕の心に「世話を続けるのが面倒臭い」そんな考えが湧きだして・・・ 暫くするとうさぎ小屋から兎の姿が消えました。 なんだか鶏を絞め殺したりする作業を手際よくやってくれる他所のオジさんに売ってしまったか、肉にしてもらって我が家の食費の足しになってしまったらしいです。 飼育の面倒くささが心に芽生えていた僕は家族に「兎をどうした?」なんて野暮な追求はしませんでした。 それ以来 ”犬や猫を飼いたい!” そんな気持ちは僕の心に湧いて来なくなりました。
コメント

子供の発熱

2012-11-06 07:27:31 | 昔話
 電話で話している妻の会話が聞くともなく耳に入る。 「ヒロシが小さかった時も熱をよく出して、それも木曜日などの週の後半に・・・」 それはもう30年近い昔、共働きしていて子供を保育園に預けていた時代、 子供が保育園の年長さんになるまでは「よくまあ熱を出すものだ!」と困惑するほど事ある毎に発熱して保育園からお迎え要請コールが掛かって来たり、 「熱がある様だから」と言って、朝の受け入れを拒否されたりしたものだった。

 そんな時には「保育園での集団生活は病原菌への感染チャンスも高まるし」、「会社に出勤して仕事してくる大人だって草臥れるのだから、小さな子どもはもっとストレスが高まり熱の一つも出して当然だよな」そんな風に感じて諦めるしか無かった事を想い出す。

 そして現在、10月から1歳になった子供を保育園にいれて共稼ぎを再開した息子の家庭では、 先週に孫が熱を出して保育園からのお迎えコールで会社を早退し引き続く2日間の看病休みを余儀なくされたと言う。

 そんな時の大変さを身を持って知る妻はお助けコールが来た時にそなえて、明日からの予定されていた山行への参加をキャンセルしています。

 ところで子供が発熱して医者に行くとお尻に挿入するタイプの白く細長い解熱剤を出してくれて、そいつは確かに熱をすぐさま下げてくれる効果があったけれど、 人間が病気になった時に発熱するのは薬なんか無かった大昔から生き延びてきた動物界の人間が身につけた病原菌への対処法でもあるはず。 だから、 即効性のある薬で発熱を抑えこみ過ぎるのは考えものだと思ったものですよ。
コメント

最近の運動会

2011-10-08 12:42:45 | 昔話
 10月に入って直ぐの土曜日そして今日、近所の学校や幼稚園の運動会がたけなわです。 僕が小学生だった頃の運動会なんて、運動会の開かれる学校の校庭への出入りは自由そのものだったと思うけど、先日通りかかった学校でやっていた運動会では、写真を撮らせてもらおうと門から校庭に入ろうとしたら、そこにいた腕章を付けた若いおばさんから「受付の設置してある別の門に行く様に言われ、受付では氏名を記入させられて、正規に受付を通過した目印として、安全ピンの付いたリボンを付けるように手渡された。 校庭内には「安全管理」みたいな役割を示す腕章を付けたお母さんがたが目立つ人数で巡回してました。 こんなにしないと運動会で問題が起こるのですかね?

 丁度やっていた種目は徒競走でした。 スタートの合図のピストルの号砲は無く、 テープを切った後の着順に依る1等賞や2等賞の賞品も無し。 1回に走る人数は赤と白のそれぞれ2人づつの4人が走ってました。 雰囲気からすると全校を赤・白の2グループに分けて対抗戦の形をとっているようでした。

 昔はペーパーテストの成績は悪いけれど、走りや騎馬戦の様な競技には力を発揮出来る奴なんかにとって運動会は、賞品のノート等を沢山獲得して鼻高々になれる特別なイベントだったんですけどね。 僕は早生まれで、クラスの中では体が小さい方だったから、徒競走の様な競技は得意じゃなかったけれど、騎馬戦では馬に乗って相手の鉢巻を奪うのは楽しかったし、障害物競走では賞品貰えたし、それなりに運動会は楽しかったものです。
 それに生徒の数だって1クラス50人を越え、1学年にクラスが3クラス以上あったから、団体戦のチームだって、6チームほどあって、徒競走の時に走る人数は、その団体の数の人数(6人)で走ったものです。 団体の名前は学校から見渡せる群馬県の山々の名前”赤城・榛名・白根・浅間・御荷鉾・・・”そんな名前が付けられていました。
コメント

台風休業

2011-09-05 08:23:19 | 昔話
 「台風一過の秋晴れ」あるいは「猛暑のぶり返し」、そんな常識言葉なんて無視して台風19号はゆるゆると四国と中国地方を南北に縦断して、日本海に抜けたのに東京地方に今も雨を降らせ続けている。

 僕が旅先で知り合ったブロガーさん、この台風接近の時に、こんな事を言っていた。

   ***************************************
   明日台風で会社が休みになればいいのに。
   大学で言うところの「休講」みたいな。
   「台風休業」いいじゃん。
   みんなで家の中に閉じこもろう!みたいな。

   ああ、もっともっとぐーたらしたい。

   ***************************************

 僕が勤務していた会社では、そんな「台風休業」は無かったけれど、「終業切り上げ」がありました。青梅線や中央線など交通機関の運行予想に応じて、例えば午後の3時頃に「運行停止が見込まれますから、帰宅して下さい」と社内放送されるのです。

 でも出社時に悪天候で交通機関が運行停止していても、悪天候をついてマイカーなどで出社する人がいましたね。 床上に設置されている仕掛り中の製品を水害から守るためだったりします。 地盤強化のために、地面を掘り下げて建設した工場敷地は、降雨量がベラボーに多い時には、排水機能が追いつかずに建屋内に浸水する危険があったものだから、建物の周囲に土のう積み作業を必要とする職場があったのです。

 まあ、僕の職場は建物の上階で、そんな作業する必要無くて済んでましたけど、 雨漏り対応で机上のPCや書類が濡れない様にカバーが必要、そんなお粗末な作業が必要な時がありましたっけ。 
コメント

僕達の遺産相続

2011-02-03 11:00:05 | 昔話
 つい先だって母親を見送った知人の「御礼」と題したブログ記事のコメント欄に 「看病などにご苦労なさった皆様や、ご兄弟の方々の日常生活への復帰がスムースに移行する事を、今はお祈りします。」 と書き込んだ。 この文面は当たり障りの無い無難な表現に留めたつもりなのだけれど、 裏には「慌ただしいお母さんとの別れの葬儀の後に訪れるはずの”遺産相続”問題を乗り越えて、早く穏やかな日常生活に移行されん事を!」の気持ちを込めたタナカ君的な表現であったのです。

 遺産相続は揉めて当たり前、兄弟関係の悪化などの明るい話題に乏しいイベントの代表格みたいなものらしい。 僕達夫婦は双方ともに何年も前に両親を見送っています。 そんな僕達の遺産相続イベントを書いてみましょう。 ただし、僕達の経験した相続手続きはドロドロした話は無く、随分とあっさり味でしたので期待しないで下さい。

僕の場合 :

 僕が小さな子供の頃(昭和20年代)に祖父は亡くなりました。 母は弟が中学生だった時に50代で亡くなりました。 次に、父は70を目前にした年で亡くなりました。 その時、 実家には祖母とまだ独身の弟が暮らしていました。 そして百歳までもう少しの長寿を全うして祖母は逝ったのです。 そこが僕にとって初めての相続手続き体験となりました。 その時初めて知ったのですが、 家屋敷の名義は何十年も前に亡くなった祖父の名義で登記されたままになっていたのです。 だから相続を受ける権利は父の兄弟姉妹にもある訳です。 ところで相続の対象となる財産と言えば、弟と祖母が暮らしていた家屋敷があるだけ、 金融資産なんて何も有りません。 いや、待てよ仏壇の引き出しから額面1円だったか10円だったかの「戦時国債」が1枚出てきた記憶もあるな。

 祖母の生活を経済的に支えていたのは一緒に生活していた僕の父ではなくて、その兄弟たちでした。 母が亡くなった後では父の生活でさえ、その祖母への支えの資金が父の生活の支えの一部になっていたかも知れない状態でした。 そんなオジやオバの中の仕切り屋のオバが相続の件も仕切ってくれました。

「自分達(オジやオバ全員)は相続権を放棄する」
    だから
「お前と妹も相続放棄して、弟に全て渡してあげなさい」

 僕も妹もその話に特に異存は無く、 後日、弟が用意してきた書類に記入・押印し一件落着しました。 件の戦時国債の紙切れ一枚「これは俺が貰ってもいいだんべ」と言って、オジが持って帰りました。 祖母のタンスの中の着物などはオバが整理してくれたはずです。



妻の場合 :

 妻の父も70を目前にした年(?)で亡くなりました。 その時、何らかの相続だか形見分けだかあった様ですが、詳しい事は覚えていません。

 それから20年近く長生きした義母は昔からの友人と秩父の鉱泉宿への湯治の旅から帰宅したその日の晩に疲れを訴え、度々世話になっていた病院に入院したとおもったら、その夜には慌ただしく息を引き取り、旅立って行きました。

 義母は亡くなるのは慌ただしかったけれど... 遺産相続のゴタゴタを避ける用意はきちんとしてありました。 妻とその弟たち3人の相続人達は残された遺言書の指示の通りに遺産分割協議を纏めて、納税も済ませました。 いや、妻の兄弟達、なかなか立派、お見事でした。
コメント

人の死に際―2

2011-01-24 14:42:29 | 昔話
 今朝起きて、ブログの巡回を始めたら昨年の暮れから余命1ヶ月と宣告されたお母さんを兄弟を含むファミリー全体で支え、自宅療養生活を叶えてあげていた元の職場の同僚が、お母さんの最後を伝えていました。 

 そして本日1月24日は義父が亡くなった日でもあります。 その義父については去年の6月のブログ「人の死に際―1」の中で ”亡くなる前日に会った時の義父の格好良さは想い出に残っている。 いずれ書いてみたい。” と記した。 丁度良い年忌の日でもあるから、 それを書いてみようと思う。

 妻の父、つまり僕の義父は敗戦の時を千葉県あたりの高射砲陣地で迎え、戦後の混乱期には進駐軍の基地内ベーカリーに職を得て、パンやケーキを焼いていたそうだ。 だから英語だって僕の耳より格段に良く聞こえ、 喋るのだって流暢なようだった。 僕達が結婚して何年か経ってから子どもが生まれ、その子と育児休暇中の妻を実家に残して、義父と僕はそれぞれにとっての初めての海外旅行を共にした。 フランスに入国して、ドイツのフランクフルト空港から出国するその旅は、航空券と到着地と出国地での宿が確定してる以外はヨーロッパ各地の宿で使えるクーポン券を支給され、途中の行程や宿は「自分たちで鉄道等を使い、好き勝手に移動・観光して下さい」が売りの海外旅行だった。

 パリを起点にスイス・グリンデルワルトやツェルマットの街を巡り、オーストリア国内を列車で移動する頃には2人が連れ立って旅を続ける必然性をお互いに感じなくなり始めていた。 それでオーストリア・インスブルックの駅に到着した時には「別れて旅を続けましょう」となりました(単純に言えば喧嘩別れです)。 義父はそこからハイデルベルクを経由して、最終地のフランクフルトへ向かうそうです。 ぼくはザルツブルクまで行って、映画サウンドオブミュージックのロケ地を訪れ、ミュンヘンからロマンチック街道をバスの旅をしながらフランクフルトへと戻ります。
 そんな事のあった旅の最後の宿で義父と再会するときは、随分と気まずい想いをしなければならないかと覚悟していたのですが・・・ あにはからんや義父は上機嫌で「面白い飲み屋が有るぜ!」、「どうだい一緒に行くかい?」と僕を誘ってくれました。 日本で言えばチョット大きめの赤提灯と言った趣の店でした。 楽しさの理由も判りました。 そこに屯する、かっての同盟国ドイツの戦友とお近づきになっちまったって事のようです。

 そんな義父との関係が始まって8・9年すぎた夏の日のこと、唐突に 「どうだい、俺を郵便局の簡易保険に入れてみないか?」、「今なら入れるし、 結構儲かると思うぜ・・・」 なんて言うのです。 その時は「金に困っている訳じゃないし、義父さんを保険に入れて金儲けするつもりも有りませんから」と返事しました。 そんな事のあった翌年の1月中旬に、義父は自分でホスピス的な看護が期待出来る病院を手配して、さっさと入院しました。 すでに10年ほど前に、癌の手術をして、お腹に袋をぶら下げる生活を続けていたのは僕も知っていました。 でも死期が近いほどの状態だなんてしりませんでした。

 義母や妻を含む義父の3人の子供達は毎日の様に病院を見舞い、1月23日には「もう永くない」と全員が病院に詰めていました。 3つ程になっていた息子と僕は家に居たのですが、暗くなって妻から電話が入りました「今夜が峠だと言われたので、 すぐに来て下さい!」 と。

 冷たい風が音をたてて吹いている夜でした。 息子を腕に抱えバス停に向かう途中、何かに脚を取られてすっ転ぶアクシデントがありましたが、何故か衣服に泥が付いただけで、息子も僕も無傷で済みました。 「ラッキー」としか言い様のない、その出来事も忘れられない、その日の想い出の一部となっています。

 到着した病室には親類縁者が沢山集まっていました。 義父の意識はハッキリしていて、会話にも力があり、なんの問題も無さそうに感じてしまいます。 集まった人それぞれに別れの言葉を伝えています。 その様子はTVドラマの作り物の臨終シーンか?と感じさせてしまいます。

 僕の番になりました。 僕は来る途中で用意した真っ白な日記帳を義父に手渡し「これに入院日記でも書いたら、暇つぶしになりませんか?」と言うと、「よせやい、 俺はもうおさらばだよ」 「初めて行ったヨーロッパ旅行、本当に楽しかったね、行けて良かった、有難う!!」 こんなやり取りを、 思い出しながら書いていると涙が出てきてしまいます。 
 そして、義父の息子の一人には、布団の下で見えない腹を触らせて 「凄く膨らんでいるだろう? 痛くてたまらねーんだよ」 「医者はね、腹水を急に抜くと死にますよ」と言うけどね、 「もうイイから、どんどん抜いて貰いたいよ」なんて言ってました。 ベッドの脇には抜きつつある腹水が溜まったビニール袋があり、単純な透明では無く、淡い赤みが加わった液体でした

 その夜が義父の最後になるとの事だったけれど、夜の9時を過ぎ、 我が家も含めて妻の弟家族の所にも同じような年頃の小さな子ども達が来ていて、 彼らをベッドの側に居続けさせる事も出来ません、 それで。それぞれの連れ合いが、小さい子供たちを連れてタクシーに分乗して夜を過ごすために妻の実家へともどりました。 そして翌朝「お父さんが今朝(1月24日)に亡くなりました」 「家に連れて帰りますから、部屋を少し片付けて置いて下さい」の電話連絡がきたのです。
コメント