ドングリの想い出

2010-09-19 10:38:40 | 昔話
 体調がすぐれないと呟いて眠りの床についた割には、なんだか良く眠れてしまい、夜中のオシッコも無く、朝まで目覚めなかった。 まあ、そんな訳だから気分も上向き、朝食後の一休みの後、杖を持って家の近くをユックリ500m程も歩いて見た。 公園のドングリの樹の周辺には実が沢山落ちていました。 写真の中、拾った大きな実はクヌギ、 小さい方はコナラです。 

 子供の頃、身近に有ったドングリを付ける樹は樫の樹でした。 上州の空っ風を避けるために農家の屋敷の西北面をL字型に囲む様に植えられた樫ぐね、 そして近所の観音様の境内にも植えられていました。 坂道の途中に建てられた観音様の境内は山門をくぐってから10m程で高さ1m強の敷地の段差をつなぐ階段が設けられ、その上に本堂が建てられ、東側の敷地境界に数本の樫の木が並んでいました。 その樫の木の幹の直径は40cmも無かったと思うのですが、高さは本堂の瓦屋根の高さと同じ程度有ったと思います。 ドングリの実を付ける頃、僕たちはその樹によじ登り、横に張り出した細い枝の上にも乗り、枝に実ったドングリをポケットに取り込みます。 そんな作業中に下の道を通りかかった隣組の小母さんの中には「落ちるとあぶないよ!」と声を掛けてくれる親切な人もいました。 でも樹に登っている僕たちは、それほどの危険を感じていませんでした。 同じ太さの枝でも、「柿の木だったら危ないけれど、樫の木は大丈夫」みたいな感覚は知らない内に身につけていましたから。 

 そしてポケットにドングリが一杯になると、敵・味方に別れてゴムパチンコで戦争ごっこが始まります。 弾丸はドングリの実、 まともに眼に当たったりしたらとんでもなく危険だった筈ですけれど、その頃は今感じる程の危険感覚は有りませんでした。 実際に眼にあたって失明する遊び仲間も居ませんでした。 ただ、ルールは有りました。 観音様の境内の中央付近にある件の「1m程の段差」、 そこを境界としてそれ以上の相手方への接近攻撃は禁止されていました。 此の様な遊びの中でのルールは子供たちの中でどの様に伝えられていたのでしょうか? 多分、遊びを仕切る年上の子供からの指示として、年下の子供へ伝えられていたのだと思います。
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ショージ君

2010-08-24 07:48:35 | 昔話
 ここのところ頻繁にブログの中に登場するショージ君、 その彼の所有する山荘に僕は居候を決め込んでいるのですが、 そんな関係になるまでの経緯を書いてみます。 今から30年近く昔のこと、僕たちの所属する山岳会山行で残雪期の北鎌尾根から槍を目指す計画が実行されました。 不幸な事に、その中の紅一点S子が尾根へ出て翌日の行動開始して直ぐに滑落して骨折、ヘリコプターで救助される事故を起こしてしまった。 その後、彼女は松本市内の病院に搬送され入院生活を送ったのですが、 不思議な縁で松本生まれのショージ君と結婚する運びとなったようです。 退院後暫く経ってから我が家に遊びに来た彼女は結婚することになった経緯や「タナカさん、彼はスキー場の近くに別荘を持っているの、今度遊びに来て!」と嬉しそうに話してくれたものです。

 そんな招待(?)にはすぐに乗る癖のある僕は、早速お正月休みにまだ2歳くらいだった子供を連れて簗場の山荘でスキーを楽しませて貰いました。 その後、ショージ君の家庭でも赤ちゃんが生まれて、我が家の子供の遊び相手にも丁度良く、 それからは年に一度、お正月休みと言えば簗場で過ごす様になりました。 しかし、その頃はあくまでも 「ショージ君の奥さんのお客様」 としての訪問でした。

 ところで今から十数年前に、ショージ君が長野県内各地の赴任先の教員住宅や借家での生活から脱却して、 高瀬川を挟んで西に有明山を望む安曇野の地の一角にマイホームを建設することになったのです。 カナダからの輸入材を使った本格的なログハウスです。 しかも外壁や屋根などの主要構造の組み立ては業者に依頼するものの、 内装の壁、床、階段、ベランダ、手摺、そして塗装などは全部自分自身で手掛けて完成させる、 いささかドンキホーテ的な家作りが始まったようです。

 そんな家作りの話が奥さんから電話で掛かって来た時には、半分は「なかなか完成して住めるようにならないのよ!」といったボヤキ言葉も含まれていました。 そこで面白がり屋の僕は一週間強の夏休み期間を利用して3食付住み込み大工仕事の手伝いに出かけました。 最初の内は壁材を屋根の勾配に合わせて切断するための採寸作業補助程度しかやらせてくれなかったショージ君もだんだんと釘打ち作業もさせてくれるようになりました。 そして2階への階段の組み立て設置の頃には僕は2階に上り、ショージ君が仁王立ちになって持ち上げる階段を上からザイルで確保したりと猫の手以上の働きをするようになりました。 別棟の工具保管庫兼作業小屋への電気配線は地面を掘って、塩ビパイプを埋設して母屋からケーブルを引き込む作業もやりました。(ACコンセントを介しての電気配線でしたから電気工事士の資格は不要でしょう?)、 さらに秋口に入ってからも塗装作業の手伝いにも出かけました。 そんな事が有ってからは「奥さんのお客さん」から「ショージ君のお友達」に一歩近づいたって訳です。 そんなこんながあって、今では夏の暑い時期に一ヶ月近く山荘で居候状態の生活を送らせてもらっています。

 ここ簗場の山荘にやって来てテーブル作りの時に、ルータやチェーンソー、サンダー等々木工工具が贅沢に揃っている訳もお分かり頂けたでしょうか?  これから松本からやって来る他のメンバーの到着を待って、インターネットアクセス不能な湯股に向けて出かけます。

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人の死に際―1

2010-06-04 19:57:23 | 昔話
  涼しくなった夕方に立川駅近くの本屋さんまで遊びに行った。 新刊書の棚には上下2分冊の安楽死をテーマにした小説が展示してあった。 出だしは、20代前半の若い癌患者が苦痛の内にベッドに横たわり、付き添っている年配の女性が担当医師に「これ以上苦しまないようにしてやって来れ」とお願いしている場面から物語は始まっていた。 結構興味をそそられる展開ではあったのだけれど、購入しないで帰って来ました。 そんな小説に触発された訳ではないけれど、 今日は人の死に際について書いてみます。

 66年以上も年を重ね、 両親も亡くなった身としては人の死に立会う場面は何度か有ったのだけれど、決定的な死に際の場面に遭遇した事は一度しかありません、 しかもそれは赤の他人だった。 40年近い昔の事、群馬大学の病院で母が手術を受けて回復を待っていた病室に見舞いに行った時だった、 隣のベッドには80歳以上とおぼしき細身のお爺さんがゼイゼイする呼吸音をさせながら横たわっていた。 ベッドの傍らには連れ合いらしいお婆さんが付き添っていらした。 看護婦を従えて回診に見えた医師にお婆さんが「先生、喉に痰が絡まって苦しそうなので取ってあげてくれませんか」と依頼した。 医師は看護婦に指示して吸引器を持ち込ませ、痰の吸引作業を始めた。 その作業中の事だった、取ろうとした痰が逆に気道を塞ぐ形になってしまったらしく呼吸停止、心臓停止へと瞬く間に暗転していった。 呼吸停止の辺りまではベッドの周囲のカーテンは解放されて痰吸引作業は僕にも見えていたのだけれど、酸素吸入準備、心臓マッサージへと続く慌ただしい指示や施術は患者さんのベッドの周囲のカーテンがひかれて見えなくなった中で行われ、「ご臨終です」の言葉を告げる医師の声が聞こえてくるまで5分か10分もしなかったと思います。 医師に痰の吸引を頼んだお婆さんは泣くでも無く、医師に食って掛かるでもなく、奇妙な静けさのまま控えていた事を覚えています。

 その時、隣のベッドにいた母は目に出ていた黄疸による白目の黄色もスッカリ綺麗に晴れて目出度く退院出来ました。 しかし、退院して一年後の今頃の時期には再発し、最後は昭和天皇さんと同じ様に下血するような症状となり、暑い盛りの8月初旬に亡くなりました。 その時期は僕の勤務先が全社一斉の夏休みの最中だったので、実家に帰り輸血のための血液を提供したり、看病したりしていたのです。 しかし亡くなる当日、同じ町内の先生が家に往診に見えた時「近親の方を呼んだ方が良いです」と言われて、たまたま見舞いに来てくれていた叔父から「お前電話しろ」と言われて店先に設置してあった赤電話から何軒もの親戚に電話していた最中に息を引きとってしまいました。 所謂臨終の言葉を聞く暇も何もありませんでした。

 この後、何年もの間を置きながら、父、義父、祖母、義母と順に旅立って行ったが、いずれも最後の瞬間に立会う事はありませんでした。 祖母を除くと何れも苦痛を伴う最後だった様だが、 亡くなる前日に会った時の義父の格好良さは想い出に残っている。 いずれ書いてみたい。
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触れ(ふれ)

2010-06-02 16:52:04 | 昔話
 僕の田舎の葬儀では大人が2人一組となって訃報を知らせに廻る習慣があった。 それは”触れ”と呼ばれていた。 まあ今の時代どこの家にも電話が有り、 一人ひとりが携帯電話も持っているから、その風習は今も残っているか分かりませんが、 僕の父が亡くなった28年前にはそれはまだ有りました。 大人が二人揃って近在に住む亡くなった父の知人を訪れて訃報を告げて廻るのです。 ”二人”と言う所が大事なんでしょうね。 男が一人やって来て「畳屋の真平さんが亡くなりました、通夜は・・・」なんて話しをしても、 あいつ普段は飲んべえだから「嘘いっているんじゃないか?」なんて風に思われる場合だってあるかも知れないけれど、 二人の男がやってきて告げる言葉には重みが有るって事なんでしょう。

 なんでこんな話しを持ち出したか? 実は妻がとある組織の今年度の会計担当役員になって、前年度の担当者からの引き継ぎ作業の一環として、複数の金融機関への挨拶廻りに今日は出掛ける日になって居たのです。 その出掛けに妻が「理事長さんが一緒に行って呉る事になっていて、車にも一緒に乗せてくれる事になっているけれど...、 私一人なら自転車で巡った方が早いし、既に挨拶廻りを済ませている、忙しい理事長さんのお手間を取らせなくて済むし」と呟やいた。 その言葉に僕は引っ掛かりました「おい、おい、お前一人で銀行に出かけて、今年度会計を担当する”XX”です名乗った所で、相手は信用すると思うのか?」、「既に挨拶廻りを済ませていて、相手も知っている人間と同行するからこそ、意味があるんだろう?!」と言ってしまいました。 時々、妻の発想にすごく違和感を感じる時があります。
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畳屋の注文取り

2010-02-01 15:04:43 | 昔話
 暗い雨模様の午後、電話のベルが鳴った。 受話器を耳に当てて「もしもし・・・」と僕 「こちら、畳屋ですが、何か畳の御用はないか、お電話を・・・」と今までにも聞いた事のある中年女性の声。 「今の所、予定はありませんので」と僕は返事する。 断りの返事を聞くのには慣れた様子で「そうですか、 御用が御座います節には・・・」と相手は答えて電話を切る。 年に1・2回はこうやって畳の仕事の注文を聞く電話が入るけれど、中古の住宅に住み着いて以来、20年以上も経過する我が家では、今迄のところ新床に入れ替える事はおろか、表返しもした事が無い。

 僕の父親は祖父の代からの畳屋をやっていたのだが、 第2時世界大戦が終わった後、僕が中学生になる時期までは日本全国至る所貧乏だらけだったろうけれど、畳屋稼業の父の仕事は本当に少なくて貧乏な暮らしをしていました。 我が家は税金も満足に払えなかったらしく、税務署の人がやって来て、ガタピシやらなければ引き出せない古い箪笥にまで赤い色地に黒いインクで印刷した差し押さえを表示する紙が貼られた事を覚えています。 その箪笥が家の中から無くなることは無かったから、親はどうにか金を工面して税金を払ったんでしょうね。 江戸時代には代官所が置かれ、小さな町場を形成していた僕の田舎も、少し歩けば畑の広がる農村地帯でした。 父の仕事は農家が秋に農作物の収穫で収入を得た時期か、嫁を迎えるために座敷を手入れする話しの時にポツンポツンと有るだけでした。 そんなたまにしか無い収入で生活は成り立たないから、父や母はいろんな仕事をしていました。 近くの川原で建築資材用の砂利ふるい、 輸出用の造花の内職、 梨の時期には栽培農家から仕入れた梨をリヤカーで引き売り、 駄菓子屋、 その店先で夏にはカキ氷、冬には焼き芋。 もちろん僕も手伝いました。 小学生の頃には川原での砂利ふるいも、 カキ氷の配達や、店番も。 そして中学生や高校生の頃には焼き芋原料のカマスに入った重い芋を購入先の農家からリヤカーに載せて家まで運んで来ることも。 

 今の時期の畳屋さんもきっと仕事は激減して困っているのでしょうね、 景気が悪くて住宅着工件数が減少しているばかりで無く、部屋の間取りも畳敷きの部屋が少なくなっている事も有るようだし。 
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保育園の年長さん

2010-01-25 15:46:41 | 昔話
 東京近郊の保育施設の園庭はスペース的に貧弱な所が多いです。 だから、子どもたちを屋外で遊ばせるために近所の公園まで散歩させて、そこで遊ばせることが多々有ります。 今日の写真はそんな公園での風景です。 身体の大きさからすると多分年長さんです。 あと2ヶ月ちょっとで彼等はお昼寝時間の無い小学校に行くんですね。 子育て中だった頃は、新たに学童保育所に預ける心配は有ったけれど、 色々な病気に対する免疫も付いて、それまでの様に、すぐに高熱出して、保育園の先生から「ヒロシ君がお熱を出しちゃいましたので、早めのお迎えをお願いします!!」と職場に電話がかかってくる頻度は激減したし、 なにより”小学校入学”なんてステップアップした気分になれて、あの年代が子育て中の良い時期だったですね。 
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イエローカードの想い出

2009-11-20 21:19:42 | 昔話
 机の中の探し物をしていて、何気なくパスポートを入れておく袋を開けてみた。 中から出てきた「イエローカード」をつい想い出に耽りながら見入ってしまいました。 

 去年の今頃に西アフリカのベナン(BENIN)を訪れる計画が有ったのです。 最初は軽く考えてベナンの知人宅を訪問すると言う友人に「僕も行きたい!」と申し出て、10月には一緒に黄熱予防接種証明書いわゆるイエローカードを手にいれたのです。 更に日本に留学でやって来た後にTVなどで活動して稼いだ資金で現地に日本人学校を開いているゾマホン氏の私設秘書みたいな事をやっている方にお願いして、我が家で現地の様子を友人と一緒に聞かせて貰ったりもしたのです。 しかし手配する格安航空券での経由地が明確になるにつれ「モスクワ]「パリ]「モロッコ]と経由して行く旅のルートは、順調に行っても片道40時間以上の疲れる旅になり、モロッコからベナンへの乗り継ぎ便がへたをすると1-2日遅延する可能性も見ておかないとならないらしいと判った。 僕の旅の日程は休暇の残り日数を全部使って前後の週末休日を含めても10日を少し上回る程度しか見込めなかった。 そんな中で、往復の移動で5日以上になるかも知れない旅行日程では辛い旅になるのが目に見えてきた。 それで友人に 「ごめん、 一緒に行くの止める...」と詫びて降りてしまったのです。 職場の上司には「アフリカの旅に出かけて、有給休暇を使い切る11月末には完全退職」の心積もりを伝えてあったのですが、 そちらにも 「ごめん、 一ヶ月退職時期を延期させて」 とお願いし、残った休暇を12月にパラパラ取らせてもらい、完全消化してから昨年末に退職したのです。 あれからもう一年経ちました、早いものです。
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てぐるない!

2009-10-25 10:19:18 | 昔話
 昔、子供が1歳を過ぎた頃の話。 夜の寝る時間に「てぐるない!」 ...「てぐるない!」と言葉を少し話し始めたばかりの息子が僕たちに呼びかける。 その意味不明の言葉は聞いても僕たちには、さっぱり理解出来ない。 「なんだ、お前の言ってる”てぐるない”ってのは?」聞き返しても「てぐるない!」 を繰り返し、理解の悪い親に怒りだして子供なりに苛立ちを込めた声になってくる。 顔面や首筋を紅潮させて更に「てぐるない!」とわめいている。 その顔面や首筋の小さなボツボツ集まった赤い領域が目だって目に飛び込んで来て、ハタと気づきました。 小さな手袋を見せながら「まだ手袋してないって言ってるのか?」、息子はコックリします。 そうなのです、痒い”とびひ”を睡眠中に無意識に掻きむしって拡大するのを防ぐために、何日か前には医者に行って塗り薬を貰い、眠る前には手袋を嵌めさせていたのに、その夜は手袋するのを忘れていたのです。

 言葉を話す前の子供は自分の希望や感情を泣き声や機嫌の良さそうな音や顔つきで表します。 言葉を喋るようになっても最初は不完全です。 しかし、彼らには照れも気後れもありません、耳で聞き取った音を真似てどんどん使います。 「てぐるない」もそうした一つですが ♪僕らの”くなぐな”リーダーは、ミッキーマウス・・・♪ と歌も口ずさんでくれるし、 TVコマーシャルに声を合わせて ”いせかん”あいかーど” と言って見たりもします。 それを聞くほうも全体の流れや場の雰囲気で
くなぐな == クラブの
いせかん== 伊勢丹
と理解します。

 まったく判らない言葉を話す国に出かけた場合にも照れや気後れの排除はかなり重要です。 声に出した言葉が相手に理解されず、困っていると、周りから日本語を話す人や、英語を話す人が助け舟を出してくれる場面に何度出会ったことでしょう。
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