・・・近くに、最近開店した「ブック・オフ」で小説を買ってきて、読み始めた。 私が知っている限り、小説家で、日本古代史をしっかりと研究している人は「松本清張」と「黒岩重吾」がいるが、この本は黒岩重吾の著書です。
文芸春秋社から出版されたもので、話は卑弥呼が中国の会稽で生まれ、後漢の黄巾の乱で荒れる中国から、四国の筑後川流域に帰国するところから始まる(著者の創作)。 小説のバックグラウンドで、描かれている社会状況は、しっかりと史実に基づいているので、この小説は、とても面白く読める。
・・・近くに、最近開店した「ブック・オフ」で小説を買ってきて、読み始めた。 私が知っている限り、小説家で、日本古代史をしっかりと研究している人は「松本清張」と「黒岩重吾」がいるが、この本は黒岩重吾の著書です。
文芸春秋社から出版されたもので、話は卑弥呼が中国の会稽で生まれ、後漢の黄巾の乱で荒れる中国から、四国の筑後川流域に帰国するところから始まる(著者の創作)。 小説のバックグラウンドで、描かれている社会状況は、しっかりと史実に基づいているので、この小説は、とても面白く読める。
・・・一か月に一度くらいの割合で市の図書館に行って本を借りる。 一度に借りれる本は十冊までです。 この図書館は充実していて、たいていの分野の本はそろっているので、便利です。
今日借りてきた本を紹介すると、
①ニュー・デザートブック 素材で作る和・洋・中・エスニックのデザート
②定年からの旅行術
③ヘンな国、困った国ニッポン
④アウトドア・ナイフを使いこなす
⑤手縫いで、革小物
⑥司馬遷の旅
⑦女帝の古代史
⑧古代史疑・古代探究 松本清張
⑨知らざれざる大英博物館 日本
私が本を借りる目的はいくつかあるが、一つは興味のあることをとりあえず勉強する時、また別に、旅行するときの資料として、そして、趣味の創作アイデアを得るため、古代史を勉強するため、など。
今回借りた本の借りる目的も四冊は古代史関係、三冊は趣味の参考資料、旅行一冊、その他一冊となっている。
本当に気に入った本は改めて購入して手元に置きます。
・・・大須観音真福寺と云うのは「大須観音」、「真福寺」と別々にその名前の存在を知っていましたが実際は同じ寺の呼び名らしい。 大須観音と云う名は名古屋の名所として、地元では、テレビ報道などで画面によく現れるので、名古屋人なら誰でも知っています。
「大須観音」
また、私は古代史が好きなので、最古の古事記の写本として、「古事記真福寺本」と云う名まえを知っていました。
恥ずかしいことですが、大須観音と真福寺が同一と云うのを知ったのは最近の事です。
真福寺はもともと鎌倉末期に真言密教の流派を伝授し、膨大な宗教書を写し伝えた今で云う大学のような場所が寺の始まりらしい。 従って、真福寺には膨大な仏教書派の聖教、歴史書、伝記、漢籍などの古典籍が15000冊以上、所蔵され、古事記の写本もその蔵書の一つでした。
1612年に徳川家康の命で、岐阜県から、今の名古屋城下に真福寺を移転し、文庫を長く保存すべく配慮されたといわれている。
有名な文庫が多いと云う意味では名古屋には、その他に尾張徳川家の蓬左文庫も有名で、愛知県は知の財産が大事にされてきた場所かと思われます。
・・・今、読んでいる本は矢澤高太郎著 「天皇陵」です。
私が古代史の本は知識的興味で読むので、著者が考古学者か古代史学者の本がほとんどで、この本の著者のような新聞記者の書いた本は珍しい。
天皇陵については古代史を考えるうえで重要な遺跡ではあるが宮内庁によって厳重管理されて立ち入り禁止になっている、 古代史の御陵については、宮内庁が、かなり以前に作成した地図などで、研究されているのが、古代史研究の現状である。
本書はそれらの御陵について新聞記者として長い間取材してきた経験をまとめたものです。
上の表は初代の神武天皇から、42代文武天皇までの御陵についての研究をまとめたもので、右端に×がついているのは被葬者が間違って宮内庁が管理していると思われるもの。△は間違っている可能性のあるもの。〇のみが被葬者が正しいと思われるものです。
被葬者が正しいと思われている天皇御陵は40基の内、5基のみで、45基は間違っているか怪しいと思われているものです。
これらの天皇陵は莫大な税金を使って維持管理されているもので、確実に間違っていると思われている御陵でも、宮内庁は立ち入ることを禁止していて、税金の無駄遣いが永遠に続いていくようである。
しかし、宮内庁が税金をかけて維持管理しているのは、上の表の40か所だけでなく皇室典範で規定されている宮内庁管理の陵墓は全国に896か所ある。
そして、まだそのほかに、法律に基づかない陵墓参考地という宮内庁管理の立ち入り禁止の陵墓が全国で46か所ある。
この膨大な国民の歴史資産を宮内庁という官庁が、公の議論もなく、公開や調査もしないで維持管理していることは、許せない問題である。
・・・趣味の日本古代史の本を変わらず読んでいる。 今、読んでいる「大和朝廷」という本は私の好きな、考古学分野の本ではなくいわゆる文献学(?)のような分類の本である。 しかし、それなりに、私の知らない知識を提供してくれるので、読んでいて楽しい。
以下、本に書いてある知識の受け売りがほとんどであるが、
ヤマトという言葉は私の理解では、古くは三世紀の列島の状況を書いた「魏志倭人伝」の邪馬台国という言葉が最初かと思われる、その頃の記述では列島のことを「倭国」と書いてあり、その中に邪馬台国という国があったようだ。これを、どう読むかで、邪馬台国論争の中で、奈良盆地のヤマトと北九州のヤマトの地名が当てられて、邪馬台国論争の一部を担っていることは良く知られている。
しかし、ヤマトを大和と云う字を当てるのは、かなり時代が下がって八世紀になってからである。其れまでは北九州のヤマトは古代から、山門県、山門郡(筑後)、山門郷(肥後)などがあり、畿内のヤマトは古事記では山跡、夜麻登、日本書紀では野麻登、夜麻苔、椰麼等、万葉集では山常、也麻登、夜末等、夜万登、八間跡などと書かれている。
これらの当てられた漢字から、学問的に北九州のヤマトは山の出入り口、外を表していて、畿内の場合は山に囲まれた土地を表しているそうである。
また、ヤマトを古くは倭と云う感じを充てていたが、その漢字の意味するところを嫌って大和と描き始めたのは養老令(718)の条文が初めての事らしい。
さて、表題の大和魂であるが、平安時代の王朝文学(源氏物語、今昔物語集、大鏡など)には「大和魂」という言葉が見られるそうですが、その意味は「漢風の際の知識ゃ良識等にたけていること」であって、決して、忠君愛国の意味ではなかったようである。広義のヤマトの心を前提に定着していく時期は遣唐使廃止以後の国風の文化の中で大和の意味が拡大していくらしい。
遣唐使の廃止で内向いていく国の中で「大和魂」という言葉が変わっていったという事実は現代史の日本の同様の動きを見ているようで意味深い。
・・・ここ数年間の私の愛読書は日本古代史の本です。
ごく最近は、ここ2~3年の間に刊行された、最新の学問的成果の情報を載せている本を読んでいます。
最近は、考古学の分野で木材年輪の研究、炭素同位元素による年代測定法などの年代を測定する技術の進歩や、三次元形状測定器による発掘古代鏡の形状測定技術、発掘した青銅品や鉄の金属元素の精密分析技術などの進歩で、発掘物による遺跡の年代の特定が進み、古代における遺跡や遺物の時系列整理が進んで文献との突合せで、おぼろげながら、邪馬台国のころの日本列島の様子が浮かび上がってきているようです。
それによると、弥生時代の紀元前後から、200年ごろまでの大陸の国、後漢との交流では北九州の国々が、日本列島の中心であったらしい。
その期間の後半に置いて列島の中では九州意外に、山陰、岡山、香川、畿内、東海、北陸などの地方に、各々の文化と政治と経済の力を持った首長が現れ、列島は北九州とそれらのクニとの間が、緊張状態にあったらしい。
後漢が滅びる西暦200年代中頃から、奈良盆地の南東の三輪山の麓に、各地方の首長の連合による、新しい政治勢力が生まれ、その利益共同体の統治シンボルとして、各地方の祭祀を合わせたような前方後円墳が出現した。
この奈良盆地東南の土地に起こったクニが発展して古代大和政権が現れるわけである。
さて、魏志倭人伝の記述によれば、邪馬台国はご存じのように西暦239年に後漢の後に起こった、魏に使節を送り、その女王「卑弥呼」は248年ころ死に、直径約150mの塚を作ったとある。
考古学の最近の研究によれば、弥生時代もこのころには、日本列島内では北九州から関東にかけて、地域間で、人や物資がかなり煩雑に、移動していたらしい。
また、この200年代中頃から、古墳時代の象徴である、前方後円墳が奈良盆地の東南の地域を中心に突然、各地で作られ始める。
そして、その中心である古墳が、三輪山のふもとに、直径278mの日本最古の大型古墳「箸墓古墳」が、このころ造られるわけである。
200年代に、北九州では弥生時代を通じて今まで盛んだった中心国、伊都国は衰退し、新たに200年代末にヤマト政権に属したと思われる北九州東北部に直径130mの前方後円墳「豊前石塚古墳」が現れる。
この前方後円墳は畿内の箸墓古墳と全く同じ設計で、同じような遺物が発掘されている。
これらの事からも、魏志倭人伝の記述による、邪馬台国は西暦239年に、魏に使節を送り、その女王「卑弥呼」は248年ころ死に塚を作ったとあるのは畿内の奈良盆地東南のクニ、ヤマトであると考えざるを得なくなる。
しかし、古代史の面白いところは、次、次と、新しい考古学的知見が出てきて、今までの古代史の見方を変えて云ったり、より確かにしていってくれたりするのか楽しみなのである。
・・・中公新書は私の趣味に合った本が多いので、良く買う。
今回の題名の書籍はあっちこっちで取り上げられている話題ではあるが、私に興味を抱かせるグラフ、図、写真が多く載っていたので、買って読んだ。
読んだ内容で面白かったのは、分野は違うが、開発をするときの困難さとそれを乗り越えていく発想などが自分自身の過去と共感するところがあって、はやぶさの開発者が苦労したことがよく理解できたので、面白かったと思う。
「はやぶさの信号が途切れた時のデーター」
はやぶさが帰還して、カプセルを切り離し、役目を終えて大気圏に突入して燃え尽き、今まで、発信していた信号が途切れた瞬間を示すグラフが、何よりもリアルで感動した。
「はやぶさのラストショット」
はやぶさがカプセルを切り離し役目を終えたが、まだかすかに機能が残っていて、その余力で故郷の地球の写真をとったが、その写真を送っている途中で信号が途切れ、地球の部分は写っている写真は、送っている探査機が息も絶え絶えの様子がよく表れている。
機械でも自立の思考ができるようにプログラムされているので、機械でありながら人格を感じる。
・・・時間があるので、書棚にあった「魏志倭人伝」の読み下し文を読んでいた。
「魏志倭人伝の抜粋本」
岩波文庫の「魏志倭人伝」も私の本棚にはあるが、もっぱら愛読しているのは、本名は忘れたが付録に「魏志倭人伝」の原文と読み下し分が上下に対比して印刷してある本の抜粋をコピーして製本したものを、愛読している。
その中で、倭国の風俗について述べている中に、倭人はみんな刺青をしているという記述があるが、その時に「夏后の少康の子」が封ぜられた会稽では断髪、入れ墨をしているので、倭国(日本)は刺青風俗をする風習もあるし、距離的に同じくらいなので、倭国は会稽の近くらしい、という事が書いてある。
その文章の中の「夏后少康之子」とは、どんな人物で、いつごろの人か、知りたくて、調べてみた。
今は、インタネットでいくつもの紹介記事を読むことができた。
そもそも、この記事は「史記」の中に書かれていることで、魏志の書かれたころの知識人にとって、この文章はよく知られていたらしい。
それによると、「夏后」というのは、古代中国の国の名前「夏」のことで、「少康」というのはこの国の中興の祖といわれた六代皇帝の名前である。
「夏后少康之子」という人は、 この人の庶子で「無余」という越王になった人のことを言うらしい。
暇つぶしに読んでいた本のおかげで一つ、勉強した。
・・・岩波新書の「環境考古学」という本を読んだ。
考古学という名前にひかれて、どんな本かと思って読んでみた。
読んでみた感想は、一言でいうと、「どんな分野の研究でも、その道に入っていくとずいぶん面白いことがあるものだ」と云うのが感想である。
書いてあった中の二、三、興味のある事柄を紹介すると、
1970年代ごろまでは、縄文時代にも馬はいた、という説もあったらしいが、最近の研究で、貝塚などから出土する馬の骨などを精密な年代測定法で測定すると、どうも後世の馬の骨が貝塚に混ざっていたらしい、と云う事が分かってきて、日本の縄文、弥生時代には牛、馬はいなくて、古墳時代から、朝鮮半島経由で大陸から日本列島に馬が入ってきたと云う事である。
ちなみに、中国正史の有名な「魏志倭人伝」には倭国の風俗の項には「その地には牛、馬、トラ、ヒョウ、羊、カササギがいない」と書いてあります。
以前はこの記述の信頼性を疑う意見が多かったのですが、三世紀に書かれた日本についての「魏志倭人伝」の記述が正しかったことが証明されたということです。
著者の活動経験について書かれている部分で、奈良時代の遺跡から発掘された馬の頭の骨から丁寧に脳みそだけが取り出されているのが知ったが、何故そんなことをしていたのか暫く、不明であった事があったらしい。
ずっと後で、著者が知ったことに「延喜式」の記述の中に、天皇の日用品を調達する規定書の中に、「牛皮をなめすときに、なめす皮の裏側に牛の脳を塗って、脂肪を落とす作業・・・・」と書いてあったそうで、馬の頭の骨を割って、脳を何故取り出したか、そのことから分かったそうです。
上に書いたような、生活とは関係のないことではあるが、読んで面白い内容がいくつも紹介されていて、暇つぶしに読む本としてはたのしく、興味深く読めました。
・・・昨年の十二月の初旬に「新平家物語」を読み始めたことをこのブログに書きました。
昭和37年ごろに学校の夏休みに講談社の四百ページにも及ぶ厚い、全八巻の「新平家物語」を読んだことを覚えていて、テレビの大河ドラマで「平清盛」が始まることで、この本を思い出し、昔と同じ装丁の細かい字の本を図書館で借りてきました。
十二月の初旬から読み始めて約二か月でやっと、昨日、読み終えました。
この本は昭和25年から32年の7年間にわたって連載された吉川英治の作品です。
頼朝が死に、梶原一族が滅びてストーリーは終わりますが、物語の最後のシーンは、筋回しである麻鳥医師夫婦が、吉野山の桜の下で弁当を食べながら、移り変わる世を見てきて、人の幸せと生き方について著者の思いを語るところで終わる。
「杉本画伯の麻鳥医師夫婦の挿絵」
最後の文章を引用すると、
夫婦が鶯の鳴き声を遠くに聞いて、弁当を食べながら、幸せについて語っている、・・・・・・
「なにが人間の、幸福かといえば、つきつめるところ、まあこの辺が、人間のたどりつける一番の幸福だろうよ。
これなら人も許すし、神も咎めもあるわけでない。そして、たれにも望めることだから。」
「それなのになんで、人はみな、位階や権力とかを、あんなにまで、血を流して争うのでしょう。もうもうやめてくれればよいに」
人の生き方について、職人として生きている我が息子のことで・・・・
「だからといって、お前もだが、何を世間へ恥じるのか。真面目で、そして良く働く一個の職人と、もう亡きお方だが、頼朝殿や、梶原などというものに比べても、人として、何処に引け目がある。院の殿上などで、良くない企みに日を盗んでいる公卿方よりは、なんぼう、ましな人間であるか、しれぬ。・・・・
人おのおのの天分と、それの一生が世間で果たす、職や使命の違いはどうも是非がない。 が、その職になりきっている者は、全て立派だ。・・・」
上の文章に、この物語を通して、書かれている人生観などの、著者の考えが出ているように感じた。
・・・私は以前から日本古代史に興味を持って本読んでいる。
特に表題の「邪馬台国」時代の日本の姿は、日本には文字で書いた記録が無く、唯一文字で書かれた書物は隣国の中国正史、「三国志」の中の「魏志の東夷伝・倭人」で、そこに書かれているのが当時の日本の姿である。
従って、この書物の研究が日本の古代史研究のかなりの部分を占めてきたわけである。
しかし、それらはほとんどが日本人の研究者がやってきた事績であって、それが書かれた中国の研究者による研究は少ない。
上の本が「中国人研究者の見た 邪馬台国」という本です。
この本の著者は汪向栄と云う日中交流史学者で、戦前に京都大学で東洋史を学んだ人です。
私がこの本を読んで、知りたかったのは、著者が本の中で云っている、「・・・古代中国人が正史を編纂するときの取材や編集の方針、蛮夷諸国への対応、漢語の使用方法などは中国人でないと理解できないことがある。・・・・」から、どんな考えか゛出てくるのかということです。
そういう立場から、著者は 「・・・"邪馬台国"の所在地は、古代のアジアの帝国の中国が行っていた、冊封の条件に照らし、周辺諸国の一地方の実力者を王にすることはないであろう、三世紀の日本において、現在見られる遺跡遺物から見て、どの地域が最も先進的であるかというから結論は明らかである。・・・」と述べている。
彼の結論は邪馬台国は奈良にあったという考えである。
・・・私にとっては久しぶりの小説を読もうと、市の図書館から「新平家物語」を借りてきました。
月に一度は図書館に行って本を借りるのですが、ほとんどは趣味のクラフト関係の参考図書、日本古代史関連の本が多いです。
吉川英治の「新平家物語」については懐かしい思い出があります。
高校に入学して初めての夏休みに、実家でぶらぶらしている時に、姉の部屋にそれまで子供だったので、私が近づかなかった、きれいな装丁の「新平家物語」の八巻の本が並んで置いてありました。
それを借りて、高校の初めての夏休みに全卷を一気に読み終わったことを半世紀経った今も懐かしく鮮明に覚えています。
市の図書館に行った時に司書の人に聞くとあまり借り出されてないらしく、一般が直接見れない受付の奥の書棚から記憶にある同じ装丁ですが、色違いの本が出されてきました。
「図書館から借りた本」
私が、高校の時に読んだ本は深い緑色の表紙でしたが、今回、借りた本は写真のようにえんじ色の表紙でした。
奥付を見ると、私の高校時代に読んだ時から、20年くらい後に、出版されたものでした。
それでも、図書館の本は、かなり古いもので、この本が残っていることから、新しい本が入っていないことから考えると、この本は、もう絶版になっているのかもしれません。
今は、時間が有り余るほどあるので、高校時代に読んだ時ほど感動しないかもしれませんが、「新平家物語」全八巻を読んでみたいと思っています。
・・・最近は古事記や日本書紀に関しての本を読んでいる。
目に見ることができる事実に興味がある私としては今まで、神話が大きな割合を占める記紀に関しては古代史の本を読んでも、記紀の記述のページを飛ばして読んでいた。
最近は記紀が成立した時代に邪馬台国のころのことが、どんな内容で伝わっていたのかを描かれた神話から史実を読み解く面白さもあって、記紀の解説本をよく読んでいる。
今、読んでいた本の中の中で、
戦後間もないころ、法隆寺の五重の塔の天井裏に「奈尓波都尓佐久夜己」と書いてある落書きが見つかった、とあり、落書きが書かれたのは法隆寺の再建年代から類推して、八世紀の初頭と考えられる、とあった。
私が興味をひかれたのは、多分、落書きなので、書いたのは、当時の大工と考えられること、 そして、もう一つ引かれた史実は、この落書きの内容は「なにはづに さくやこのはな ふゆごもり ・・・・」という和歌の一部を落書きしたものらしいと云う事です。
この歌は漢字の伝来で有名な王仁が仁徳天皇に献じた歌とされることで、二重の因縁が感じられます。
そして、この歌は八世紀頃に、手習いに際して、最初に習う文字であったらしいと云う事も知りました。
この八世紀の初頭というのは古事記、日本書紀が成立した時代で、すでに、文字を生業としない大工が、文字の手習いをしていたほど、その時代は識字率が高かったことに驚きを覚えました。
初めて漢字の伝来したのが古事記によると四世紀の後半に百済の肖古王の時代に王仁が伝えたといわれていますが、それから250年くらいの年月で一般人まで文字が広がっていたのは驚きです。
・・・最近読んでいる古代史の本は「日本史の誕生」という題名の本です。
「表紙の絵は聖徳太子像という説も最近、疑問とされています」
この本の著者は満州、朝鮮、モンゴルーなどの東洋史の研究学者です。
著者のこの本での主旨は、日本の歴史は720年の「日本書紀」から始まったというもので、「古事記」は十世紀の平安時代の偽作であると云う説である。
日本の倭王として明確なのは仁徳天皇からは歴史上の確かな存在と書かれています。
私は、読んでいて、最初は、この著者、ちょっと変と思いました。
しかし、読みすすめていくうちに、この著者の学者としての立場がはっきりわかってきて、この本に書いてあることは、学者らしいきちんとした理論的な説だと本の内容に納得がいきました。
この著者の立場を書いている文章の中で、気に入ったところは、最後の付録のような章でした。
第十三章「歴史の見方について」
以下のような、歴史の定義を書いています。
「歴史とは人間の住む世界の、時間軸と空間軸の両方に沿った、しかも一個人の直接、経験できる範囲を超えた、言葉による説明」。
この定義の後に「文字の使用があって始めて歴史が可能になる」と書いている。
彼によると、日本の歴史以前の国土の状態については、以下のように考えています。
倭人の存在が世界史に登場するのは西暦前108年の漢の武帝のころである。
それから八百年経って日本の統一王国ができた。
その間はきた旧雌雄沿岸を中心に、日本の国土は中国の植民地であったという考え方である。
著者のように、世界史の中で日本を考えると、日本のみで古代史を考えるのと、全く違った考えた方があり、同じように、現代の日本も、同じように、日本だけで考えるのでなく、アジアの中の日本を考えるとまた、違った判断ができるように感じた。
・・・私の好きな落語家さんは桂枝雀さんです。
30年以上も前から、ラジオの落語放送を録音し、そのテープの落語を繰り返し聞いて楽しんでいたファンです。
枝雀さんの落語の放送を録音したテープは百本を超えていました。
そのうち、時代とともに、彼の落語がテープとして出版されたりしだしたので、放送を録音することもなくなりました。
今日、たまたま、おとずれた本屋の棚に「枝雀と61人の仲間」と副題のついた表記の本があったので、買ってきて読み始めました。
61人の仲間というのは彼がもっている落語の中で、よく高座の演題に上げていた落語のことを言っていて、本の目次には彼が演じていた演目が書いてあります。
私が一番好きだったのは「池田の猪買い」、「八五郎坊主」、「代書屋」ですが、いずれも彼が得意としていたので4人目、49人目、34人目で目次に載っていました。
もう、今となっては、ビデオの映像でしか彼の演じる姿は見れなくなりましたが、彼を超える落語家は、私の知っている限り、まだ世に出てこないように思います。