・・・日本の古代人は鏡が好きだったと云うのは「魏志倭人伝」などの古文書から読み取れる。
最近の考古学の成果の一つに、中国から入ってきた多量の「古代鏡についての研究」がある。
そのデーターの一つが下図です。

上図は日本で見つかった列島にクニができ始めた弥生中期以降の漢で作られた鏡の製作年代別に、列島内で、北九州とそれ以外での出土数をグラフに現わしたものです。
これと中国の史書に書かれている列島の年代別の出来事とを比べると面白い。
まず、北九州地方に圧倒的に多く漢鏡が出土している、紀元前50年ごろと云うのは、漢書地理史に「倭の百余国」の一部が楽浪を通じて漢の朝廷に朝貢していることが書かれている。
このころは北九州の「奴国」が栄えていたことが分かっている。
そして、近畿では池上遺跡や唐古遺跡が起こっているが、北九州に到底及ばない未発達の地だったことが考古学的にわかっている。
それが上表の漢鏡3期の北九州と九州以東での出土数の違いに現れている。
次に、紀元50年ごろは奴国が後漢に朝貢して、志賀島出土の金印を、後漢から貰った頃で、北九州を通じて漢鏡が全国に流通していった時代です。
北九州以外も、小さなクニができ始めているが、大陸との交流が、北九州を通じて行っていた事が、全体の半数が北九州で出土し、北九州以外のからも、いろんな場所で漢鏡が少量づつ出土している。
弥生時代も後期に入ると、紀元100年から150年ごろ製作された漢鏡が全国的に出土が少ないのは、このころ、倭国で乱があったと中国史書に書かれた時代で、後漢も乱れ、大陸との交流も少なかった、からと思われる。
紀元二世紀末から三世紀初頭にかけては、北九州はさびれていって、瀬戸内から、近畿にかけての地方が栄えてくる時代をその時代製作の漢鏡の出土数に、あらわれている。
特に、三世紀以降は、近畿が主で、北九州はほとんど、漢鏡の出土が無くなっている。
この様な、古代の銅鏡の出土数のグラフを見るだけでも、とても、古代日本の様子が、よく見えてくるのが、考古学と古代史の面白いところです。