・・・私の実家は大阪府の吹田市にあるので、故郷を訪れると近くの遺跡を訪ねます。
・・・今回は茨木市にある継体天皇陵に行ってきました。
この古墳には五十年の昔に父親と行ったことがありました。
そのころは一面が田圃の中に御陵がポツンとあったような記憶だったのですが、今回、義弟の運転で、案内してもらった陵は住宅に囲まれた場所にありました。
・・・墳長はおよそ230mで、後円部の径はおよそ140m、前方部の幅はおよそ150mの大きさです。
・・・最近、歴史の本を読んで分かったことですが、この古墳についてはいろいろと考えがあるようなので、それを紹介します。
・・・この太田茶臼山古墳は江戸時代中期に継体天皇陵に比定されたが、文献史学の立場からは、延喜式記載の所在地と異なるという問題点が早くに指摘されていた。
さらに、出土埴輪の特徴は、400年代中頃のものと考えられているもので、考古学的にも527年 (古事記) ~ 534年 (日本書紀) に没した継体天皇の陵ではありえないという意見が研究者の大勢を占める。
これに対し、東へ1.5キロほどの所に所在する今城塚古墳は、所在地および考古学的に推定される築造年代が文献に記される継体天皇陵としての条件に合致する上、当該期の古墳の中では隔絶した規模を持っており、こちらこそが真の継体天皇陵と考えられている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・・・昔の街道に面した入口に小さな駐車場があってそこに宮内庁の看板がかかっています。
・・・その先の細い道をはいっていくと御陵らしい雰囲気の白砂利が敷きつめられた広場と鉄の垣根と鳥居があってその向こうにお堀と古墳がみられます。
・・・入口の扉の横の石碑に古い書体で「継体天皇三島藍野陵」と書いてあります。
六年前にお堀の護岸工事がされて古墳自体は思っていたより、雑木も少なく、すっきりとしていました。
以上。
・・・アテネからの日帰りのツアーにある ミケーネ遺跡やエピダブロス遺跡ツアーに出かける時にコリントス運河の傍の休憩場でツアー客は休憩して、その時間に運河を橋の上から見学する。
・・・コリントスの街は紀元前7世紀頃、ペリポネス半島の付け根にある古代コリントスは海上貿易の中継都市として繁栄した。
当時は、舟を「台車」に乗せて地峡を越えていたらしい。
この時代から、ペリポネス半島とギリシア本土を切り離す形の「運河」をつくる構想があった。
西暦67年、古代ローマ帝国の皇帝ネロが運河開削工事を開始したが、皇帝ネロの死亡で工事は中断された。
・・・1830年、英・仏・露の保護下でギリシアは「ギリシア王国」としてオスマン帝国から独立を果たす。 1882年、フランスの会社がコリントス運河の開削工事を始め、ペロポネス半島の付け根にあたるコリントスは、ギリシャ本土と切り離された。
・・・1893年8月6日、コリントス運河が完成した。 運河の長さは6,343m、幅は24.6m、水深は 8m。地上から水面までの高さは最大で79m。橋から下をみると、立ち眩みしそうな高さである。
・・・春の花の季節が終わり、暑い季節も盛りになると、ジョギングのコースの所々で、木の実が目につくようになりました。
名前の知っているもの、知らないもの、とりあえずカメラを持って、気がつくままに写真を撮ってきました。
・・・ところどころ、ハウスのイチヂクの栽培がなされて事業として農家が取り組んでおられるらしい。
われわれの子供のころは、家の軒先や、田圃の畔や川端などあっちこっちにイチヂクの木があり、栽培しないでも、幾らでも実がなっているものと思っていた。
・・・当地は昔から蜜柑の栽培農家が多いので、宅地化されてからもアチラ、コチラに蜜柑の木が残っています。
・・・無名戦士の墓はアテネ市内にあって、 主にトルコからの独立戦争の戦没者や19世紀以降の戦争の戦没者の霊が祭られている。
・・・この衛兵の交代が一時間毎に行われるということです。
我々が行ったときは、交代の時間だったので、 しばし立ち止まって見物していた。
・・・この衛兵達は決められた動き以外は決してしない。
例え顔が痒くても、服が少し乱れても、直立不動だ。
服が乱れた時は、衛兵の他にもう一人付き添い(?)がいて、 その人が服の乱れ等を直してあげていた。
・・・此処に勤務する衛兵は選りすぐりの容姿の良い兵隊であると思うが、十頭身くらいの 顔の小ささと ハンサムさ で見とれてしまった。
・・・体に触れなかったら、横に行って写真を撮っても良いので、観光客のおばさんは触れんばかりの距離で、ツーショットで写真を撮っていた。
もちろん兵隊は微動だにしないが、少しでも体に触れると銃を地面にあてて威嚇する。
・・・エピダウロス遺跡はペロポネソス半島東部に位置する古代ギリシアの都市です。
医療の聖域として知られ、現在ギリシャで最も保存状態の良い劇場跡が残っています。
・・・1988年に『エピダウロスの考古遺跡』として世界遺産に登録されました。
この古代劇場は紀元前4世紀にポリクレイトスにより建設され、14,000人の観客を収容することができます。
・・・観覧席は丘の斜面を利用して作られています。音響効果がよく設計されています。
実際に見学した時に、ガイドさんが舞台で軽くたたく拍手の音が一番上の席にいた私に、よく聞こえました。
現在も夏場にエピダブロスフェスティバル期間中は劇、オペラなど公演が開かれています。
あの歌手の「マリア・カラス」がここで歌ったと聞きました。
・・・ギリシャ・ペロポネソス半島東部に位置するミケーネの考古遺跡。
後方を2つの山に囲まれた天然の要塞都市です。
・・・詩人ホメロスが「黄金に富む」と謳った伝説の都として知られています。
19世紀後半ドイツ人考古学者ハインリッヒ・シュリーマンにより発掘されました。
・・・ミケーネの遺跡でまず眼を引くのが巨大な二頭の獅子が構える獅子門です。
・・・シュリーマンが目をつけたのが城壁の中に広がる円形墳墓でした。シュリーマンは王家の墓の中に、ホメロスが謳った黄金の証があるはずだと考えました。やがて数対の遺骸が黄金の装飾品とともに発見されました。
シュリーマンはギリシャの古代史を、この発見により1000年近く塗り替えたのです。
・・・一面に広がる草原に、突如として聳える高い岩山の数々。ギリシャの中部、メテオラの地には、低いもので30メートル、高いものは400メートルもの高さの岩山が林立し、その頂上に建つ修道院群は世界遺産にも指定されている。
・・・9世紀には既にこの奇岩群に穿たれた洞穴や岩の裂け目に修道士が住み着いていた。
・・・15世紀から16世紀にかけて最盛期には24を数えた修道院も、今日では5つの修道院にしか人が住んでいません。
これら修道院と、それを支える奇岩群が織りなす景観はまさに幻想的で、世界中からの観光客を引きつけています。
・・・メガロ・メテオロン修道院
メテオラの中で一番大きな修道院です。
その昔は梯子を繋いだり、滑車につるした網袋で修道院に登りましたが、現在は、岩面に掘られた115段の階段を登りたどり着くことができます。
・・・アギオス・ステファノス修道院(尼僧院)
この修道院の付属教会には殉教者アギオス・ハラランボスの頭部が安置されています。古い教会の内部には、今なお美しい木彫りや壁画を見ることができます。またここから下に見えるカランバカの街は絶景です。
・・・デルフィの遺跡はギリシャ本土、パルナッソス山のふもとにある古代ギリシャの聖地です。
「デルフィの遺跡」
・・・デルフィの遺跡は1829年にフランスの考古学隊により発掘され、ミケーネ時代(紀元前12世紀ごろ)から、この地は髪を祭る場所出会ったことがわかった。
紀元前8世紀頃からこの地でゼウスの息子であるアポロンを崇拝する信仰が始まります。いわゆる、アポロンの神託は381年にビザンティン帝国によって閉鎖されるまで約千年の間、この地で続いた。
・・・市井の人々からアレクサンドロス大王まで、人々はこぞって神託を授かるため、遺跡のアポロン神殿に集いました。
神殿の地下からは大地のへそと呼ばれる大理石の巨大な石が発掘されました。
・・・当時、デルフィは世界の中心だと考えられていたのです。
人々は神託への感謝の気持ちを込めてデルフィに様々な貢物を贈りました。
・・・ブロンズで出来た精巧な御者の像やスフィンクス、ローマ皇帝が納めた像など幾多の美術品がアポロン神殿までの参道を飾りました。
・・・古代、オリンピアと同じように「デルフィ祭り」が四年ごとに行われました。
スポーツと演劇の祭典が行われた劇場とスタジアムが遺跡として残っています。
遺跡を訪れた時に難しいギリシャ神話を現場で劇をしながら学んでいたオランダの子供たちを見ました。
「遺跡で着替えているオランダ人の子供」