・・・弥生時代の日本の古代史については、中国の国史と日本の考古学によってしか知ることができない。それによると、
弥生時代、紀元後二世紀までは、ずっと北九州が日本文化の最先端の地であった。その理由は、中国文化を伝える朝鮮半島に一番近かったからである。
二世紀半ばぐらいからは、次に、出雲、越前の山陰地方が急速に最新文化がさかえ、少し遅れ、短期間であるが、出雲に近い瀬戸内海側の吉備が古代史の中心になった。
そして三世紀に入り、近畿、奈良盆地の東南地域「巻向」が日本の文化の中心になった。
何故、そんな順番になったのかという事に一つの考え方を示す本を今日は読んでいた。
上の写真の「松本武彦著 列島創生記 小学館」という本です。
本によると、その時代のキーワードは食糧生産や戦いの為に必要な鉄の手に入りやすさ(大陸に近い、中国からの鉄と情報の入るルート)であり、それを手に入れた後は、水田が可能な平野の大きさ、生産する人口の多さなど、生産力の大きさかがポイントらしい。
北九州、出雲、越前などは、今の感覚からいうと地方であるが、その頃は大陸からの情報と交通の良さから、文化・情報の最先端地であった。
そして、紀元前後頃の弥生中期までの列島において、近畿はもっとも大陸から遠く、文化の遅れた地方であったのだ。
なぜ、現在、過疎地の出雲が古代弥生時代に栄えたかの答えは、ここに大陸からの独自の交流ルートがあったからである。